隣の柴犬は青くないが、私から顰蹙は買っている

閂 向谷

本編

 交際を始めて1年にも満たない彼が、出張を名目に関西へと発ってから3日目の夜。

 ここ数日は快晴に恵まれ、今朝方には頼りにしていた外套も今は厄介者へと様変わりしている。だが、明日の朝には手のひらを返してまた抱かれていることになるのかもしれない。猫の目という形容が似合う季節だと思う。

 ひとつだけ明言できることがあるとすれば、来週には開花するとされている桜並木の芽吹きからも、春は確実に近づいている。

 桜前線と足並みをそろえるように、彼は明日の夜に帰ってくるらしい。

 三日月はニヒルな横顔でこの星の半身を見下ろしている。その姿に無性に腹が立ち、私は一段と肩をすくめながら足を進めていく。旧型の自動販売機が設置された酒屋が目印だった。

 築30年ほどの、3階建ての鉄筋コンクリート造のアパート。

 その地上階の角部屋、西日の強い彼の住居に続く、辞書の表紙を縦に拡大したような錆納戸さびなんど色のドアの前にたどり着いた。電灯がまばたきに似た頻度で明滅し、私が目を瞑っているのか、世界が目を瞑っているのか、時々わからなくなる。

 こんな形で渡されるとは、という落胆との交換で合鍵を鍵穴に差し込むのも累計6回目だった。部屋番号が印字されたキーホルダーのついたスペアキーは無機質で、ここが彼の部屋であることはわかっているが、数字で管理された地点のうちのひとつだと思うと、人の営みを想像することは難しい。

 ガチャリ。

 ドアはまだ半分しか開いていなかったが、金具の擦れる音に感づいたのだろうか。リビングから、トテ、トテと軽快な足音で歩み寄る4つ足の影があった。私は苦笑交じりに玄関横のスイッチに手をかけた。

 蛍光灯に照らされたのは、日本人形さながらに明瞭な瞳と、がまのような毛並みの小ぶりな柴犬だった。名はゴローで、4歳のオスとのこと。

 小刻みに跳ねるしっぽと、私を視認するや否や一段とうわずる手足のばたつく仕草。新品の木馬に生命が植えつけられたかのような、無垢で飾らない振る舞いに思わず頬が緩んだ。移ろいが激しい事を意味する猫の目に対して、コタローはいついかなる時もその笑みを崩さない。固定された点Pが二つあるような、まっすぐで、変化のない視線。

 私にはゴローが「おかえり」という表情をしているように思え、誰にも聞こえてない「ただいま」を返した。もっとも、私はここの住民でも、ゴローの飼い主でもない。

 出張の間に頼まれた世話の内容は、朝晩一回ずつ餌の補充とトイレの清掃。ついでに晩は散歩。部屋のものは何を使ってもいいらしい。おかしも自由に食べていいと許可を得ている。

 要するに出勤前と帰宅の際に寄ってほしいというもので、たまたま私の勤務先が近かったことが頼られた理由だった。都合よく利用されている、とは考えないものとした。

 私はファミレスにてその条件を提示された時、「一人暮らしなのに犬飼っているんだ」と尋ねた。他意はなく、珍しいね、くらいの心境で。

 すると、彼は照れくさそうに「前の彼女が犬好きでさ。半ば見切り発車で、婚約指輪代わりに飼い始めたんだけど」まで語った後に目をそらし、「まぁ、いろいろあったんだ」と肩をすくめる。その視線の先か脳裏かは知らないが、前の彼女の像がどこかに映っていることだろう。

 私は不快感の表明としてフライドポテトを山折りした。

 ドッグフードの袋を食品棚から取り出した。私自身にペットを飼った経験がないため犬の食事情というものには疎く、これが海外メーカーの少し値の張る商品だと知ったのはなんとなしにドラッグストアに寄った昨日の夜だった。この年代の犬の栄養バランスを考慮して設計されているだとかなんとか。らんらら。

 これ、私が奢ってもらったフライドポテトよりも高いんじゃないの?

 そんなやきもちの事なぞつゆ知らず、皿に注がれるドッグフードに対してゴローは呼吸を粗くさせる一方だ。左手でゴローの額をおさえて制止しながら、目分量で一食分を盛りつける。しかしいよいよ我慢の限界が訪れ、ゴローは私の手を振り切って頭から皿に飛びついた。一心不乱に食事をむさぼる姿をほほえましく思った後で、改めて彼の部屋を見回した。

 ゲーム機や家電は毛を吸わないように高所に配置されている。本棚も背が高く、犬の飼育方法の指南書が散見された。それ以外は漫画本やCDラックなど、特徴的なインテリアはない。

 私が部屋に訪れることを見越して隠している可能性もあるが。

 必要以上に詮索するのも不躾である。あまり気にしないよう努めたが、最後に、ベッド際の写真立てに気がつく。彼が言う「前の彼女」との写真だったら女々しいものだと嘲笑うつもりだったが、そこにいるのは、彼がゴローの頭に手をやって、楽しそうに笑っているものだった。写真を撮ったのが彼女なのだろう。その瞬間を切り抜いた現場に私はいない。

 まだ彼のベッド際という空間に、私は介入していない。なんだか、まだ私は彼の世界の蚊帳の外に立っているような気分だった。

 ゴローの放つ獣特有のにおいは、シーツからも漂っていた。改めて見渡すと、室内で犬が寝ころぶための犬用ベッドが設置されていない事に気がついた。ならば当然、ゴローは毎晩彼の寝具で夜を明かすことになる。今は一人で占有しているのだろうが、シーツの上に粗相しているような跡もなく、彼のにおいとゴローは混ざりあって夜を過ごしている。

「お利口さんだね」思わずそう声をかけるが、その賞賛の裏側に紛れもない嫉妬心を認めざるをえない。

 お笑い種だ。

 まさか、彼氏の飼う犬に対して、ここまで複雑な心境を抱くなんて。

 改めて宣言するが、この感情はやきもちでも意地悪でもない。ただ、彼の人生にもっと干渉する手立てについて考えているだけだ。

 食事を終えた事を確認すると、手順通りにリードを棚から取り出して、ゴローのもとへ屈みこむ。シーツと同じ匂いがする。

 そっと、ゴローの耳元に手を置いた。

「ねぇ、私とつきあっちゃわない?」

 だが返事はない。散歩の準備を整えた柴犬は、穏やかに、それでいて無言でしっぽを振るだけだ。

 リードの金具をとりつける。

 ガチャリ。


――了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

隣の柴犬は青くないが、私から顰蹙は買っている 閂 向谷 @nukekannnuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る