その四 幽霊に関する一考察

 色覚実験での奇妙な現象が確認されてから数日。

 我が姉は研究に没頭していた。


「……流石に根を詰めすぎじゃないかな」

 言外に『休憩しろ』のニュアンスを込めて言う。

 ここでコーヒーの一つでも持って来れれば良かったのかもしれないが、生憎俺はコーヒーを淹れられなかった。そもそも道具の使い方もよく分からないし、仮に使えたとしてもこだわりの強い姉のお眼鏡に適うか分からない。

 声をかけられた姉は画面に目を向けたまま、こちらを振り返りもせずに返事する。

「あんた居たの」

「居たよぉ。ずっと姉さんの傍に」

「そ。じゃあ邪魔しないで。早く明らかにしたいの、原因を」

 幽霊の正体を明らかにしなきゃ、と言う姉はモニターの光に照らされていつもより白く見える。まるで自分の方が憑りつかれているみたいだ。姉さんには幽霊は見えてないって言うのに。

 俺は溜息を吐いた。仕方ない。

「それってさぁ」

 あえて、意地悪な感じで言ってみる。

「別にあの子のため――ってわけじゃ、ないだろ?」

 ぴたりと、姉の手が止まった。

「……そうよ。これはあの子のためじゃなくて、自分のため。私が『見えないもの』を見たいから。私のエゴなの」

 懺悔のように吐露する姉に、俺は「良かった」と告げる。

「良かったって、何が?」

「姉さんがあの子のために頑張ってるって言ったら、止め辛かったから」

 そうじゃないだろうと思ったけど、と付け加えると「酷い弟ね」と姉は笑った。俺も「弟の忠告を聞かない酷い姉のせいかな」などと減らず口を叩く。

「とにかく、自分のためって言うんだったら不休で調子崩したら本末転倒でしょ」

「……そうね、休憩にするわ。うるさい弟のせいで集中力も削がれたし」


 姉は立ち上がりキッチンに向かった。ぼんやりとその様子を眺める。

 お湯を沸かす傍ら、コーヒーを挽く道具――ミルって言うんだっけか――に豆を入れ、ゆっくりと丁寧に、まるで何かの儀式のように挽いていく姉。ゴリゴリ、ゴリゴリ。心地よい音とともに豆が砕かれ、コーヒーのかぐわしい香りがこちらまで届いてきた。てきぱきとした動作で、しかし焦らず優雅に器具を駆使しつつコーヒーを淹れていくのが見える。やがて芳醇な香りと湯気を漂わせるマグカップを手に彼女は椅子に戻ってきた。

 マグは一人分だ。

「自分だけずるくない?」

「あんたコーヒー飲めないでしょ」

「そういうことじゃなくて、これは気分というか気遣いの問題で」

「はー美味し」

 ほろ苦い香りを吸い込みながら、姉はゆったりと黒い液体を味わっている。人の話を聞けい。

 ある程度コーヒーを堪能した姉は、マグを膝上に抱えながら天井を見上げ、深く息を吐いた。

「はあ……」

「分析、うまく行ってないんだ?」

「そうね……」

「じゃあさ、今どうなってるのか俺に説明してみてよ。問題整理に役立つかもよ」

 なんかそういう方法あったじゃん、ラダーバックって言ったっけと俺が言うと「ラバーダックね」と訂正が入った。

「……と言うか、あんたが暇なだけでしょう」

「あ、分かる? 俺姉さんが構ってくれないと暇で暇で」

「全く、いつまで経っても変わらないわね、あんたは」

 でも良いわ、構ってあげる。そう言って姉はあの実験の後の経過について話し始めた。




 あの後、怖がる被験者を落ち着かせながらあれこれと検証した結果発覚したことは以下の通り。


・装置を付けていると、何もないはずの空中に『色』が浮かんでいる。

・『色』には実体がなく、ただもやのように浮かんで見えている。

・(他の物体との比較実験から)『色』は白に近い明るめの色。

・カメラにはそれらしきものは映っていない。

・装置を付けていない時は『色』は見えない。

・研究員らが装置を装着しても、『色』は見えない。


 まとめると、「装置を付けている時にだけ、少女には白っぽいもやのようなものが見える」ということで、姉はこれを『幽霊の色』と呼称することにした。


「幽霊ねえ……」

 俺が言うのもなんだが、けったいな名づけだ。

「で、その『幽霊の色』の正体がさっぱり分からないのよ」

 姉は言う。

「その子が『色』で見ている以上、装置による共感覚が見せているものであることは間違いないと思われるのだけど……他の人間に再現性がないことが疑問で」

「それこそ、共感覚の個人差って奴じゃないの?」

 俺の指摘は首を振って否定される。

「今回のプロジェクトは、そういう個人差をなるべく無くすことを目標にしていたわ。他の被験者や研究者同士でも概ね同じ色が見えてたし、『幽霊の色』以外に関してはその子と他の被験者とで同じように見えてるらしいことも確認できてる。『幽霊の色』だけが明らかにおかしいの」

 普通の色と同じなら、他の人間にも多少何かしら見えていてもおかしくなさそうなところだ。少女以外には全く見えないというのは確かに奇妙なものがある。


「ちなみにあの子霊感とかは」

「念のため聞いてみたけど、今までそういう経験は全然出そうよ」

「聞いてみたのか」

「聞くでしょ、それは」

 以前に似たような経験があるなら個人に起因する問題の可能性があるのだから、と姉は話す。あくまでもドライな科学者の態度だ。

 そんな姉の様子に思うところがあって、俺は疑問を投げかける。

「姉さんってさ……幽霊の存在は信じてるわけ?」

 その質問に対し、姉はしばらく考える素振りを見せた。いや、考える素振りと言うよりは……どう答えるべきか、言葉を探しているといった方が適切かもしれない。

 しばらく無言の時間が過ぎる。姉は手の中のマグカップを無意味に回転させながら思考をしている。


「実在していてほしい……というのが正直なところ、かしらね」


 ややあって、姉が零したのはそんな言葉だった。


「曖昧だね」

「否定も肯定も、断言に足る根拠をまだ持ち合わせていないから」

 科学者として断言することは逆立ちしても出来ないが、それはそれとして願望はある、みたいな感じらしい。

「私はね、幽霊のことを共感覚とか色に近いものじゃないかって考えてるの。個人的にね」

 共感覚や色? それはつまり。

「脳内に存在するってこと?」

「そう」

「……それって幻覚扱いじゃない?」

「そうじゃなくて……例えばそうね、マイクロ波聴覚効果というものがあるんだけど」

 と姉は説明を始める。


 それは、人工テレパシーとも比喩される技術の根幹にある現象だという。

 第二次世界大戦中、レーダー機器の傍で作業する人間によって報告されたそれは、近くの他人には聞こえず、特定の人物にだけ「声」が聞こえるというものだった。

 まるで怪談噺のようなそのエピソードだが、原因は特定されている。


「マイクロ波よ」

「マイクロ波って……電子レンジとかに使われてるやつだっけ?」

「よく覚えていたわね、それよ」

 姉の説明によると、パルス波形のマイクロ波を人間の頭部に照射することで音を聞かせることが可能なのだという。原因としては頭部が音響トランスデューサとして機能することでマイクロ波を音波に変換し、それによって脳内に直接音がうんぬんかんぬんと言っていたが、正直複雑で理解しきれなかった。ただ、姉が言いたかったであろう部分はなんとなく分かる。

「他人には聞こえなくても自分にだけは聞こえる音っていうのはありうるってことだよね」

「そう、まるで幽霊の声みたいにね」

 マイクロ波によって聞こえる音は、音波としては存在せずただ人間の脳内でのみ音になりうる。

 だからといって幻聴とは明らかに違い、それを誘発するものがきちんとある。

 幽霊という現象もそれに近いものではないかと姉は言った。


「幽霊って、特定の感覚器にだけ働きかける何かじゃないかと思うの」

 見えるのに触れられない。何もないはずなのに音が聞こえる。誰もいないのに足を引っ張られた。原因は分からないが、血のような匂いがする。

 幽霊話のパターンとして語られるこれらは、確かに言われてみれば一部の感覚だけが刺激されている状態と言えるかもしれない。

 視覚、聴覚、触覚、嗅覚。

 それらの感覚を刺激する、目には見えない『何か』。

「実体としては電波でも磁場でもマイクロ波でも、あるいは素粒子なんかでもいいのだけれど……人間の死によって、そういった『人間の感覚を刺激する何か』が発生する場が出来ることがあるとしたら……」

 幽霊は実在する、と言えるんじゃないかしら。

 姉はそう締めくくった。


「なるほどねぇ」

 幽霊と呼べる現象が存在する可能性は否定しきれない――。

 それが、研究者である姉が幽霊に対して取ることの出来るギリギリの態度らしかった。

 それはそれで、少し寂しい。

「あくまで仮説、ですらない一つの考えよ。実証も何も出来ていないんだもの」

 姉はそう告げた後目を伏せて。

「……幻覚や幻聴なんかじゃなく、確かに存在する何かがあってほしい、とは。私も思うのだけど」

 祈るように、そう呟いた。

 ……ま、今はそれで良しとしよう。

「ちなみに俺は幽霊実在すると確信している派ね」

「言わなくても知ってる」

 というかそうじゃないと困るわ、と言いつつ姉はずずっとコーヒーを啜った。


「ところでその考えだと人によって見えたり見えなかったりするのも、個人の感覚差ってことで説明がつくね」

 耳が聞こえづらい人がいるように、色の見分けがつきにくい人がいるように。

 その逆に、耳が良く聞こえる人がいるように、色の見分けに他人より敏感な人がいるように。

 霊感と言うものの正体も、特定の現象に対する感受性の差異と言えるだろう。

「そうね」

 姉も肯定する。

「特定の人間だけが知覚できるような何かの存在が実証出来て、それが死者に起因するとしたら――その時初めて『幽霊』は存在する、と断言できるわ」

 そのためにも今回の『幽霊の色』の謎は解明したいところだけれど、と言いながら姉は改めてモニターに向き合った。

 その表情はコーヒーを飲む前よりは落ち着いていて、どうやらリラックスできたようだ。話に付き合った甲斐があった。

 にしても、感覚差か。ふと思いついたことを言ってみる。

「そういや猫が何もないところを見つめてるのも幽霊見てるからって話があるけど、あれも感覚差異の理論に則るならあながち間違いじゃないのかもね」

「……そうね。猫の目は人間のそれとは差異があるもの。動体視力と暗視能力に優れているし、色覚も2色型が一般的だし」

 姉もモニターから目を離しはしないが、話には乗ってきた。

 なんとなく嬉しくて、知ってる知識を披露してしまう。

「猫除けの装置も、猫にしか聞こえない音を出してるんだったよね――」


 瞬間、姉がガタリと音を立てて立ち上がった。

 な、なになにどうした。


「……本当、馬鹿だわ」

「何急に!? 確かに俺は姉さんほど頭良くないけど、いきなり罵倒されるようなこと言ったかな!?」

「ああ、違うの。今のは自分に対してであって……あんたに言ったわけじゃないわ。紛らわしくてごめん」

 言いながら姉はPCの電源を落とし、上着を羽織って出かける準備らしき装いだ。

「え、何々急に。どしたの。馬鹿って何が」

 混乱する俺をよそに、姉は出かける支度を手早くしていく。

「あんたのさっきの台詞で気付いたのよ。こんな単純な可能性に思い至らないなんて……私としたことが冷静じゃなかったわ」

 靴を履いて扉を開け、姉は言い放った。


「研究所に戻るわよ。『幽霊の色』が見えたかもしれない」

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