その三 幽霊の色
「わあ……!」
少女の口から上がったのは歓声だった。
「これが……色! これが『鮮やか』……!!」
感動のあまりか、声が震えている。無理もない。生来モノクロの世界しか知らなかった彼女は、今生まれて初めて色をその目で——正確には耳で、なんだけど——見ているのだから。
「凄い……世界ってこんなに賑やかで……『明るい』と『暗い』だけじゃないんですね!」
モニターにどんどん映される写真を見ながら彼女ははしゃぐ。「りんごってこんな色だったんだ!」「絵じゃない虹って、初めて……!」などその様は本当に楽しそうで、何の関係もない自分でさえなんだか嬉しくなってしまう。この実験の主導者である姉であれば尚更喜ばしいだろう……と横に居る姉を見やれば、当人はこんなの何でもないわよとでも言いたげにいつものすまし顔を浮かべていた。だが弟である俺は見逃さない。その眼尻が潤んでいることを。
ひとしきり様々な写真を見て少女がはしゃいだ後に「そろそろ始めるよー」という研究員の言葉で本格的な色覚実験が開始した。たまに検査で見るようなドットの中に数字が描かれている絵などを使って、少女が本当に色の見分けが出来ているかを判別していく。一つやるごとに所感を聞き、それを研究員がメモしていく。カメラの検出機能や音への変換についてフィードバックしていくのだろう。
ここに至っては姉のやるべきことはないらしく、ただ少女が溌溂と答えているのを感慨深げに見つめるばかりだった。
「……良かったね、実験成功して」
「……当然の結果よ。今日までに何度も検証してきたもの。それに、この私がついているのだから」
「ったく無駄に強がって。たまには素直に喜んだら?」
「……まだよ」
姉はふるり、と首を振る。
「私が本当に見たいものは——ここからまだまだ先にあるんだから」
喜びはその時まで取っておくの、と姉は小さく呟いた。
「……じゃあその時はハグでもしてあげよっか」
「是非そうしてちょうだい」
「せっかくなら胴上げとかもしてあげたいところだけど」
「出来もしないことを言うのはやめておきなさい」
「わかんねーじゃん、それまでには出来るようになってるかもよ」
「そんな事しなくていいわ。見た目が変わっちゃったら嫌だから、そのままで居て」
「姉さんは過保護だなぁ」
少女の喜びの声をBGMに、俺達姉弟は囁くような会話を交わす。
実験の結果は概ね良好なようで、細かなフィードバックはあるものの、色の見分けはほぼ問題ないようだ。
一通りの色覚検査を終え、色を知ったばかりの少女は装置を脱ぐと大きく息を吐いた。
「普段の光景って、こんなにたくさんの色で溢れていたんですね。楽しかったけど、疲れたー」
モノクロの世界で生きてきた少女には、カラーの世界は情報が多かったのだろうか。確かに疲れているように見える。しかし疲れ以上の喜びが見えるのも確かだ。
「お疲れ様」
実験器具が片付けられていく中、姉が少女に声をかける。
「先生! お疲れ様でした!」
「私は何もしていないけどね」
「そんなこと言っても分かってますよ。今日の実験のために夜遅くまで頑張ってくれたんですよね? クマ、隠しきれてないですよ」
「……よく見てるのね」
「白黒だとはっきり見えるので」
くすくすとややブラックな――いやモノクロなジョークを飛ばす少女につられ、姉も笑った。
「それで――どうだった? 『色』のある世界は」
「凄かったです! みんな、こんなチカチカするようなものを見ていたんだなって……みんなの言う『赤』や『青』ってこんなだったんだって! 新鮮で楽しかった! けど、でもたくさんの色でくらくらもしちゃいました。みんなよく疲れませんね」
「私たちにとってはこれが普通だもの」
それもそっか、と呟く少女はどこか晴れ晴れとした表情だ。
「素敵だったけど、疲れちゃうから普段はいつもの視界でいいかなって思いました。この目で見る二色の世界も綺麗だと思うし、不便なことも多いけどずっと生きてきた世界だから。でも選択肢が増えるっていうのはいいことですね。もっと気楽に使えるようになったら好きに切り替えつつ世の中を見てみたいです」
「……そう言ってもらえたのなら良かったわ。まだまだ研究は続くけど、もう少ししたらこの装置はあなたにあげるわ。存分に使ってくれて結構よ」
「やったぁ! ……あ、そうだ」
喜びを表明する少女は、ふと思いついたように膝に乗せていたヘッドギアを持ち上げる。
「せっかくだから、先生のことも色付きで見ちゃいます」
「色がついたって、そんなに面白い見た目ではないと思うけど」
「いいんですよ、私が見たいだけだから!」
言いながら少女は装置をかぶり、ヘッドホンの位置を微調整。そして電源を入れた。
「……あれ?」
そして少女は訝し気な表情を浮かべる。
「どうかした?」
「いえ、あの……あれ?」
せわしなく視線を動かす様は落ち着きなく、やがてそれは恐怖を帯びたものへと変わっていく。
「あの……先生?」
「何?」
「先生の隣って……何も、ありませんよね」
「……ええ」
少女が指さす自身の隣に姉は顔を向ける。その瞳は何かを写すことはない。虚空だ。
「何も……何もないわ。それがどうかした?」
「色も……ありませんよね?」
……色?
姉も当惑した表情で聞き返す。
「ごめん、一体何を言っているのか――」
「分かってます、変なことを言ってますよね、私。でも見えるんです」
「見えるって……何が?」
「色が……」
少女はその言葉を繰り返した。
「明るい……もやみたいな色が、そこに浮かんでいます」
指さすのは先ほどと同じ虚空。
何もないはずのそこに、存在しないはずの色を見ているという少女。
聞いている限り、それはまるで。
「……幽霊?」
姉が、俺が思い浮かべたのと同じ言葉を呟いた。
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