その二 色を見る
姉は何を言っているのだろうか。色は見るものであって聴くものではないと思うのだが。
この子だってそんなことを言われても困るだろう――と思ったのだが、ここで当惑しているのは俺だけのようだ。前にも説明を受けているらしいし、そりゃそうか。
「それにしても凄い発想ですよね。『色を聴く』なんて」
「そんなことはないわ。既に先駆者がいるもの」
幸いにして、俺が尋ねるまでもなく少女の方から水を向けてくれた。姉が語りだすのを黙って聞く。
「『色を聴く』という試み自体は、2004年からニール・ハービソンという人物が始めているの」
世界初の公認サイボーグ、なんて大仰な呼び方をされることもある人物だけどね、と姉は言った。
「サイボーグ、ですか?」
「そう。彼はあなたと同じく生まれつきモノクロの色覚を持つのだけれど、『色』というものに興味を持ってね。独自に色を認識できないか実験を始めたそうよ」
そのために始めたのが『色を聴く』ことだったそうだ。
始めはカメラに映った色を音に変換することから始めたらしい。そこから変換した音を聞くために様々な実験を試みた。
「最終的には自費で頭蓋骨にアンテナとマイクロチップを埋め込む手術を行って、アンテナの光学センサで見た色を音に変換、骨伝導でそれを知覚する――というところまで到達したわ」
そのアンテナを埋め込んだ写真がパスポート用に認められたことから、世界初の公認サイボーグという呼称が生まれたそうだ。
「すごい人も居ますね……」
「そうね。でも安心して。今回の実験はそのヘッドギアを被るだけで出来る簡単仕様だから」
ドリルの音は聞かなくていいわ、と姉は少し茶化すように言った。
「……でも、それだけじゃないよな?」
俺は姉に問いかけた。
色を見る。確かにすごい発想だし、それをヘッドギアで簡易にしたのは凄い。
でもそれだけじゃ単なる後追いだ。
俺の姉は、天才である姉はそんなつまらないことはしない。
問いに応えるように姉が小さく、言われなければ気づかない程度に顎を引いて頷く。
「このプロジェクトの要旨はここからよ。あなたには色を聴いて……そして実際にその目で色を『見て』もらうわ」
告げられた少女が唾を呑む音が聞こえた。
……実際に、見る?
先ほどまでの話は、あくまでも『色を聴く』話だったはずだ。色を音に変換して、聴く。その結果色の違いを認識出来るようになる。だがそれは実際にその色が見えているというわけではない。視界は変わらず、ただ視界とは別の感覚で音を判別しているだけだ。それを『その目で見る』とは言えないだろう。
ただ、姉は実際に見てもらうと言っている。色を知らない少女に、実際の色を、その目で。姉がそう言っている以上、それは可能なはずだ。……一体どうやって?
「共感覚、というものがあるわ」
姉は語る。あくまで少女に向かって。
「ある種の刺激に対して、通常それを感じる感覚だけでなく、別の感覚も生じる知覚現象のことで……この共感覚を持つ人たちの中には例えば、ある単語に対して味を感じる人や、匂いに形を感じる人がいるわ」
……以前、漫画か何かで似たような感覚を持つキャラクターを見たことがある気がする。そのキャラクターは味覚が異常発達していて、他人の気持ちを味で感じていた。流石にあれはフィクション固有の誇張だとは思うが。
「そして、その共感覚の中でも数多く報告されているのが――」
とんとんとん、と姉が耳を叩き、それを見た少女が答える。
「音を聴くと色を感じる人、ですね」
「そう、色聴と呼ばれているわ」
今回あなたに色を見せてくれるメカニズムはこれよ、と姉は告げた。
「要するに、通常は光で刺激されるはずの色覚を、音によって刺激する――共感覚を用いて、入力経路を別に用意するという感じね」
ここに来る前にされた色に関する説明を思い出す。色は脳内にのみ存在する――その感覚を引き出せるなら、きっかけは光じゃなく音でもいいだろう、という話なのだろう。
「私たちは『全ての人類は潜在的に共感覚を持っており、多くの人はそれが抑制されているだけ』という仮説に則って、非共感覚者にも共感覚を生じさせる研究を進めてきたわ。その結晶の一つがあなたの手の中にあるその装置よ」
少女は、膝の上に置いているヘッドギアを握りしめた。
「でも本当に普通の人と同じ色が見られるんでしょうか」
被験者の少女は、ぽつりと不安を零す。
「先生に説明を受けてから自分でも調べてみたんですが……共感覚って、個人差が大きいですよね? もし音で色が見えるとしても、それが本当の色と違っていたら……」
「その点は気にしなくていいわ」
姉は少女の不安を、ばっさりと切り捨てた。
「あなたが言った通り共感覚には個人差があるものだけど。それは10人いれば10人ともが違う、というほどではないと近年の研究で明らかにされたの。色聴の場合は、高い音ほど明るい色に見えるという傾向があったわ」
それはつまり、千差万別と思えた共感覚にも共通項があるということだ。
そこから姉の研究チームは色聴の共感覚保有者たちの脳をスキャンし、音と色のマッピングを行っていったのだという。任意の色を見せるために何百人も集めて、コツコツと。
「その結果、微妙な違いこそあるものの、概ね狙い通りの色が見える音への変換コードが完了したわ。これは一般的な色覚者の多数で確認済み。だから見え方のブレはそこまで気にしなくていいの」
「そうなんですね……! 凄い!」
「それに」
ぱあっと顔を明るくする彼女に、姉は続けた。
「そもそも一般色覚者だって本当に同じ色を見ているのかなんて、分からないしね」
「……? そう……なんですか?」
「クオリアと言うんだけどね」
例えば、と姉はケーキの話を始める。
「ケーキは甘いわよね? 色んなケーキがあるけども、そこは一旦置いておくとして」
「そうですね、ケーキは基本的に甘いと思います」
「でも、その『甘い』が他人の『甘い』と同じだと証明出来るかしら?」
「……え?」
どういうことかと問いたげに、少女の眉が上がった。
「例えば、私の言う『甘い』はあなたが思う『美味い』かもしれない。私がケーキを食べたときに感じる味は、あなたが焼き肉を食べたときに感じる味かも」
私が生まれてからずっとあなたにとっての焼き肉の味を『ケーキの味』と認識していても、それを判断する方法はあなたにはないはずよ、と姉は言う。
「ええと……私の甘いが先生の美味いで、ケーキの味が焼き肉の味で……?」
「要するに、こういう主観的な感覚……クオリアについて違いを確かめることはまだできていないということよ」
混乱する少女にそう結論を告げ、「だからね」と姉は続ける。
「自分が見ている色が本当に他人と同じものか……なんて気にしてもしょうがないということよ。それよりも、この実験が上手く行ったらあなたは初めて色を見ることが出来るのだから……目の前のそれを楽しんでほしいわ」
「……はい!」
力強く頷く少女に姉はにっこりと微笑みかけ、
「じゃあ準備が出来るまでもう少し待っていてね」
こまごまとした実験の準備をする他の研究員の邪魔にならないよう、壁際に移動した。話に聞き入っていた俺も着いていく。
「お疲れ。説明分かりやすかったよ」
「ありがと」
俺の労いに対し、姉は小声で返した。
「それにしても、姉さんがこういう社会福祉的な内容の研究をするのは意外だな」
「そういう建付けがあった方が予算が通りやすいのよ」
私としては多数派の感覚に少数派を合わせることにあまり意義は感じないのだけど、と姉はぼやく。
姉の信念からすれば多数派に合わせるようにするのではなく、そもそも少数派が困らないような社会にするべきなのだろう。確かにそれが理想だとは思うが、社会全体を作り変えるのはコストが嵩む。こういうアプローチもあっていいのではと俺としては思うが。
まあ社会に参画していない身分である俺があーだこーだ言っても詮無きことだ。代わりに姉に質問する。
「じゃあなんでこの研究を?」
「見れないものを見えるようにしたくて」
即答だった。まあそんなところだろうとは思っていたが。
「これで成果を上げたら、もっと感覚の研究を進められるでしょう? そうしたら今は見えないものが私にも見えるようになるかもって、そう思ったの……」
「……ふーん」
何かもっと気の利いた言葉を言えたら。あるいは茶化すことが出来たら。そのどちらも出来ずに、俺はただ相槌だけを返した。
目の前では実験準備が進んでいく。コードが何やらよく分からない機械に繋がれたり、色を見せるためなのだろうか、モニターが運ばれている様子をぼんやりと二人で見つめていた。
「先生、準備完了しました」
研究員の一人が声をかける。
頭に装置を取り付けた被験者が、どことなく緊張した面持ちでこちらを見ていた。
「分かったわ。それじゃあ始めて頂戴」
姉の言葉に、少女は前に向き直り。
そして装置が起動した。
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