第39話 変わり者を自称は罪悪か?

 若いエネルギーの溢れるふるまいへの、人々のまなざしは両義的である。ある面では、青春として憧憬され、ある面では、嘲笑の対象となる。

 さわやかにバンドを組んで音楽活動に挑戦していれば、好意的に見られるが、そんな俺は周囲のヤツとは違っていて(或る意味変わり者で)カッコいい、という空気が発せられていると感じられれば、ひねくれ者と見なされる。

 後者は、(悪い意味で)成熟していないという風にも見られるのだと思う。……成熟にかかわる話題を書くには、やはり江藤淳の『成熟と喪失』を再読しなければと思いつつ、その気力まではないのだが。

 欧米(特に米国)では「父性」が強くて、日本では「母性」が強いという風に読むとすれば、悪くない見立てだと思う。

 遠藤周作が指摘していたことも思い出す。日本のキリシタンたちは、マリア信仰に傾いていった。昼は、自分はキリスト教とは関係ないとふるまい(つまり嘘をつき)、夜は、肖像等に向かってそれを悔やむのである。それを許してくれるのは、厳しく律する父ではなく、マリア様だ。

 「母性」的(強いリーダーが引っ張るのとは違う)社会とそこでの成熟というのもありえるだろうと僕は思うが、なかなか難儀そうだ。強いリーダーが引っ張るのとは違う社会というのは、下手をすると空気の読み合いだけのゲームになるかも知れない。

 実際にそういう面のある社会だからこそ、「そんな俺は周囲のヤツとは違っていて(或る意味変わり者で)カッコいい」と思う人は余計に浮いてしまう。

 他者との差異を過度に意識し、自分自身を特別視しているのを見ると、空気の読み合いゲームに参加できていないようにも見えるだろう。

 確かに、ひねくれ者はもう少しは成熟すべきだが、どう成熟するかが問題だと思う。空気が読めることが成熟というのでは悲しい。

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