七色書房の七色処方 ~その始まり~
PRIZM
第1話 七色書房は夢の中に
二人だけの合唱隊の歌声が、
歌に合わせて、春の新芽と川のせせらぎ、夏の高原、秋の紅葉や冬山の白い風景が浮かび上がってくる。
ひとしきり歌った洋子さんには、もう迷いは無い。一緒に歌っていたもう一人は中学生時代の洋子さん自身である。五十代後半の女性とセーラー服の少女の二人だ。
過去への旅から戻った洋子さんは、ゆっくりと目を開けた。
あらためて深呼吸をしながら、胸にそっと両手を重ねて少し上気した顔で微笑んでいる。中学を卒業する頃の自分との出会いをようやく果たしたのだ。
「忘れてしまっていたの。いつの間にか、自分の本当の気持ちも夢も願いも……」
カウンターの奥にあるキッチンで淹れた二杯目を、
「この匂いがそうさせたのよ。桜のお茶、懐かしかったわ。ずいぶん長い間、あの頃の私は待っていてくれたのかしら。今の私を」
「ちょうどよいタイミングが来ることを待っていらっしゃったと思います」
「あの頃の真っ直ぐな気持ちで……。今の私にも出来るかしら?」
「もちろんです。これからは、その頃の洋子さんと一緒に」
「ありがとう」
洋子さんは、もう一度、歌うことを決めたようだ。
「深い森みたい。あなたの瞳は、忘れないわ」
最後にひと声かけた後、急ぐように洋子さんは扉を開けて出て行く。
片方だけ耳にかけていた、肩にかからないほどの白銀色のまっすぐな髪がほどけて揺れている。
からん、ころんからん
後ろで扉が締まる音がする。
日常が待っている街の方へと洋子さんは歩いて行く。その後ろ姿は、先ほどまで歌っていたセーラー服の少女のそのままの姿に見えた。
手離していた大切なものを、もう一度手にすることにしたようだ。
「いってらっしゃいませ。いつでもお待ちしております」
「昼の地球で、どうぞ新しい旅を」
___________________
それは地球という星。広い宇宙の多くの星々の中にあって、そのひとつの太陽系の中に存在している「感情」というものを体験する極めてめずらしいと言われている星でのこと。
森と街の、その境目に静かに存在している場所。あるいは地球と遠い星々との間の何処かに存在しているという「
訪れた人の過去の物語が起き上がり、星々の働きや色彩の持つ力が時々にその人を解き導く。忘れていたことを思い出し何かを取り戻すような、ここではそんなことが静かに起き続けている。
「当店では、本はお求めいただけませんが、あなただけの特別な物語をご案内させていただきます」
書房で起きるのは、訪れた人の中にひっそりと沈んでいる過去の記憶と感情との出会いの物語。それは時と場所を超えて起きる解放である。
「色とは、溢れ続けている感情そのもの」
「色彩、それは人間の感情……」
出会ったいくつかの物語を振り返り、書き終えた手元の手帳から窓の外へ目を移す。見上げながら、軽く掲げた右手とその指先にあった白銀色のペンが、空色という青に重なる。ペンの色は、肩に掛かるかかからないかの
ここは
しかしどこを探しても、どこにも無い書房である。
この小さな書房は、どこにでもありそうな少し山手の田舎の風景にあるようなよくある風景の中にある。書房を挟んでその両側に広がっている「山」側と「街」側が対のようになっていて、書房はちょうど境目に存在している。
あるいは見上げる大空の向こうの太陽系という宇宙空間に存在する数々の「星」とたったひとつのこの「地球」との間のどこかに存在している、という場所。本屋のようでもあり喫茶店のようでもある。
ここは夢の中。地球に生きる人々が毎夜眠る時間の中で、あるいはうっかり眠ってしまった電車の中で、夢を見ているような瞑想のような意識状態の時にだけ行ける場所。そんな限られた時間の中にのみ、
そして
会う人によっては「頼れる男の人みたいだったような気がする」と言う人もいるし「まるで無邪気な子供だった」と言う人もいて、印象が皆それぞれ違っている。
時には「お婆さんみたい」という人まで出てくる。「元気で声が大きい」「おとなしくてもの静かな人だった」という人もいて、その見え方は一定していない。
だが、ここを訪れる人たちの記憶の中に共通していることがあった。
「あの白銀に光る髪を見ていると始まるんです、物語が」
「特別なお茶を淹れてくれるんだ」
「待っててくれてる、ずっと今までも、これからも……」
「私だけの特別な場所。忘れたくないって思うのに、すぐ忘れちゃうんです」
「ぼうっとしてる時や寝起きに、吸い込まれるような緑の瞳を思い出すんです」
地球のとある大地に生きる様々な人間たちは、
人生の日常の時間からすると、それはほんの少しの間の出来事。ここを訪れる人は、昔のことを思い出したり、探していた宝物を見つけたりしていくが、書房に来たことを忘れることも多い。それは、見た夢を思い出せないのとも似ている。
(そろそろ次の方がいらっしゃるようですね)
何か音が聞こえたわけでは無いが、次の準備を始めねばと、カウンターの奥へと入っていった。その人だけの特別なお茶の準備を始める。
「
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