物理と猫とお婆ちゃん(黒歴史2)

那智 風太郎

 Misunderstanding

 高校時代、理系なのに物理が超苦手でした。

 いついかなるテストでも赤点ギリギリ。

 なんですか、弾力性による位置エネルギーって。

 電場と磁場ってどう違うんですか、教えてマクスウェル先生。

 ていうか、なぜ高校生が人工衛星の速度を計算せにゃならんのですかッ!


 はあッ、はあッ……。


 まあ、これぐらいにしておきましょう。


 というわけで、高校二年生の二学期末テスト直前、なんとか赤点を回避しようと足掻いた僕はその甲斐あって物理超得意のHくんに教えてもらえることになりました。


 訪れたHくんの家はずいぶんと由緒と時代を感じさせる旧家でした。

 瓦が載せられた真っ白な漆喰塀が広い敷地をぐるりと囲み、正面の入り口は厳つく大きな長屋門。 

 そこを潜れば不揃いな石で設られた石畳とそれを囲う和風な庭園、いくつかの石灯籠がポツリポツリと立ち並び、おまけに錦鯉が悠然と泳ぐ池までありました。

 そして極め付けはたどり着いた屋敷の風貌。

 それは「城かよ」と思わず呟いてしまうほどに堂々たる威厳を放つ古民家だったのです。

 その威圧感に気後れしながらも前を行くHくんに続いて玄関に入るとこれまた自分の部屋よりもずっと広そうな土間があり、その先には眩しいほどの光沢を放つ板張りの廊下がまっすぐに伸びておりました。

 もうなんだかよく分からないテンションになった僕がいちいち花瓶や壺を見つけては「いい仕事してますね〜」などとほざいているとHくんが苦笑いをしてすぐ近くの部屋を指差しました。


「ちょっとここで待っててよ。参考書とか持ってくるから」


 それは上がりかまちで靴を脱いですぐの縁側に面した和室でした。

 もちろん畳敷きで部屋の真ん中にはでんと大きな家具調コタツがありました。

 まあ、待てと言われれば待つほかはありません。

 キョロキョロと壁や天井に目を配りつつ、とりあえずコタツの前に膝を着いたそのときでした。


「いらっしゃい。大輔の友達かね」


 いきなり聞こえてきた声に驚いて正座のまま飛び上がりそうになりました。

 いや、実際1センチぐらいは浮き上がったかもしれません。

 そして落ち着いてよく見ると右手にコタツ布団とそっくりな柄の座椅子があり、そこに白髪頭の小柄なお婆さんが座っていたのです。

 一瞬、視えてしまってはいけない人だろうかと慄きましたが、どうやらそういう存在ではなさそうです。

 ようやく呼吸が整った僕は恐るおそる口を開きました。


「あの、お邪魔してます。Hくんのクラスメイトで那智と言います」

「ほうですか。そりゃ、いつも大輔がお世話になって」

「いえいえ、お世話になってるのはだいたい僕の方で」


 などと当たり障りのない会話をしていると不意に右肘のあたりに何かがそっと触れた感覚があり、目を向けるとなんと真っ白な猫がゴロゴロと喉を鳴らしながら擦り寄っていました。

 動物は嫌いではありません。

 というか大好きです。

 家ではビーグル犬を飼っていました。

 けれど猫は飼ったことがなく、以前から触ってみたいと思っていました。


 そっと首筋から背中を撫でると猫は尻尾を立てて、顔を袖口に擦り付けてきます。


 おおっ、にゃんて可愛いんだ。


 と感動して、思わず尋ねました。


「名前、なんていうんですか」


 お婆さんはちょっと間を置いてから答えます。


「チヨです」


 那智は猫の顔を撫で摩り、戯けた調子で声を掛けました。


「そっかあ、チヨちゃんか。チヨちゃんはなあ」


 その様子を微笑ましく眺めていたのでしょう。

 お婆さんは何も言いません。

 僕はかまわず猫を抱き上げ、膝に載せて頭頂部に鼻を押し付けます。


「よしよしチヨちゃん、ちょっと匂い嗅がせてなあ」


 すると香ばしいような、日向の匂いが鼻腔をくすぐりました。


「ええ匂いするなあ、チヨちゃんの頭は」


 さすがにちょっと気恥ずかしくなり、お婆さんに照れ笑いを向けるとどういうわけでしょう。彼女は座椅子の背もたれに目一杯体を押し付け、さらに目を大きく見開いて表情をこわばらせていたのです。

 その挙動に不審を覚え、何か、気に触ることでもしてしまったのだろうかと不安になり始めたそのとき、背後でどさりと何かが床に落ちる音が聞こえました。

 そして振り返るとそこにHくんが表情を無くした様子で立ち尽くしていました。

 目を移すと床には散らばった何冊かの参考書。


「那智くん、キミ、ばあちゃんの頭の匂い嗅いだの?」

「え?」


 唐突に襲った混乱がとんでもない羞恥に変わるまでにさほど時間は掛かりませんでした。そして勘違いが分かって笑い転げるチヨさんに顔を真っ赤にしてひたすら頭を下げ続けたのはいうまでもありません。

 あのときのことを思い出すと今でも床にへたり込み、頭を抱えてダンゴムシのように丸くなってしまいます。


 ちなみに猫の名前はミルクでした。

 

 また健闘虚しく物理のテストは赤点。


 そして後日、那智がHくんのお婆ちゃんを口説こうとしたらしいとクラスで噂になりました。

 

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物理と猫とお婆ちゃん(黒歴史2) 那智 風太郎 @edage1999

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