第35話 #帰りたい④

 良い学びを得たことに口元を緩ませ、清巳は小瓶を一つ一つ鞄に収めていく。そして、用途不明の円柱状の缶を手に取った。


「ところで、これは?」

「だいたいなんでも効く特製軟膏」


 収納から取り出した缶の蓋を開けた。使いかけの軟膏を掬い取り、それを清巳の頬にぺたりと置く。そして薄くのばすように指先が円を描いた。

 薬が塗られた所から肌の違和感がすっと消えて、清巳は驚愕に目を見開く。


「痛みがひいた」

「気休めだけどね。……、……でも、わかってて手を出さなかったこと、不愉快なのは不愉快だよね」


 ぽつりと静が奇妙なことを口走った。どこか不機嫌そうな顔で、もう一度顔に塗ろうとする静をやんわりと制止して貰った軟膏を塗る。

 顔と首、そして手に塗りおえて息を吐いた。痒みがなくなっただけでイライラの三割が消えた。

 蓋を閉めて軟膏を鞄に収める。不意に、頬に華奢な指が添えられた。え、と目を瞬くうちに上を向かせられ、額に柔らかい物が押し当てられる。

 思考が停止した。

 目の前にある細い首筋。燃えさかる炎のような匂いが鼻腔をくすぐる。永遠にも似た時間の中で額の温もりに囚われ、――けれども、すぐに離れていく温もりに清巳は我に返った。


「何を……⁉」


 満足げに口角を上げて鼻を鳴らした静を押しのけて距離を置こうと下清巳は、しかし静の目が清巳よりももっと高い位置を見ていることに気が付いて口を閉ざした。


「これで素知らぬふりはできないよね」


 静の視線を追って視線を上げるが、清巳の目には何も映らない。周囲の気配を探るがなにかいるような気配もなく、胡乱に眉をひそめた。


「静、どういうことだ」

「めっ」


 両手の示指を交差させて口の前にかざす。

 頭を抱えてため息を吐いた。なにが見えているのか、なにに素知らぬふりをするなと警告したのか、額に口づけることを何が意味するのか。

 言う気はない、という意思表示がある以上、静が説明することはないだろう。それはかまわない。たぶん、静の事だから害のあることではないだろう。首を突っ込んだらいけない気がする。


「わかった。聞かないでおく」

「警告するわりに、悠長ね。もともと持病があったんじゃないの」


 かなえの挑発に清巳はそうか、と短く返答した。


「監督責任があるから回復を待っててやったが、いらないのなら先に帰る」

「なっ……、待ちなさいよ! そんな勝手なことが許されるとでも思ってるの⁉」


 清巳は深々とため息を吐きだした。

 自分の事を棚に上げて良いご身分だ。江川という苗字は家との関わりを隠すための仮のもので、本当に良いご身分の息女なのかもしれない。だからといってかしこまるつもりはさらさらないが。


「俺の弟妹の方が素直だし反省できるし責任転嫁しないし、億倍かわいいよなあ」


 かなえの頬が引きつった。


「麗華様を襲っておいて反省がないって聞いてたけど、噂以上のクズ野郎ね……!」


 話の流れからしておかしなことだが、噂とやらで先入観があったことは理解した。それを信じて、初対面の人間をここまで虚仮にするのは、若さゆえの過ちというよりも、単に彼女の幼稚さゆえ。浮き彫りになった彼女の人間性には憐れみすら覚える。

 閑話休題。

 彼女が麗華様と呼ぶ人物が思い浮かばなくて清巳は眉間に皺を寄せた。記憶をたぐり寄せるが、身近にそんな名前の知り合いはいない。


「……………………誰だ?」

「清山院麗華様よ! 知らないとは言わせないわ。所用で出向いた麗華様に突然襲いかかって怪我させて……! 職場復帰すら難しいって……っ、あんたのせいで‼」


 投げられた石の破片を首を傾けるだけで避ける。

 せいざんいん。誰だったか。協会で清山院の苗字を持つ者は複数いるが、そのなかでも女性といえば。


「……あぁ、あの誘拐犯」

「誰が誘拐犯よ! 麗華様がそんなことするわけないでしょう⁉ いいがかりも大概にしなさい!」


 清巳は目をすがめた。


  [弟妹さんと座敷童子ちゃん以外にはバチバチ戦闘態勢な兄]

  [やっぱり兄のあの奇妙な行動はそういうことか。近場の奴は逃げろ]

  [三徹明けの兄が元気すぎる件]

  [麗華様が四肢麻痺になったって、犯人お前か]

  [ゆるすまじ]

  [誘拐犯ってw どんな認識だよwww]


 静ではなく清巳がやったとされているのは、静のランクを聞いたからだろう。現役の黒鉄探索者に元とはいえ金青パーティーの一員が一撃で沈み、あまつさえ日常生活もままならないほど再起不能になったとなれば、とんだ醜聞である。

 だから、清巳に全ての罪を被せて貶めたかったのだろう。

 もっとも、落ちるほどの名声なんて持っていないが。


「誘拐されそうになったの?」


 じわりと殺気を滲ませた静に、清巳は肩をすくめて見せた。


「なってただろう、静が」


 しゅん、と殺気が消えた。かわりに困惑を隠せない顔で静が問う。


「私? ……あ、変なこと言われたから私が蹴り飛ばした人? なんで大きいのがやったことになってるの?」


 口を開いて、清巳は目を瞬いた。

 大きいの、とはなんだ。流れからして自分のことを指しているのはわかるが、なんでそうなった。

 訝しみつつ、話の腰は折るまいと清巳は自身の見解を述べた。


「静だとわかると都合が悪かったんじゃないか?」

「なんで?」


 純粋な問いに答えるか否かを逡巡し、庇い立てする理由はないなと思い至る。


「考えられる一番の問題はランクだな」

「ランク?」


 空間収納から水晶の玉環を取り出した静は光沢のある黒い石を見下ろし、清巳の前に差し出した。

 黒鉄がはめ込まれた水晶の玉環を、配信用のカメラはしっかりと捉えており、視界の隅でコメントが川のように流れていく。


「このままじゃダメなの?」

「だめっていうことはないな。ランクを上げた時に付随する利点が欲しいなら上げたほうが」

「じゃあいいや。ダンジョンにごーほーてきに入るのに必要なだけ、っておっちゃん言ってたし」


 投げるように玉環を空間収納に投げ納め、こてんと首を傾けた。


「ごーほーてきに入れれば一緒でしょ? なんでランクが問題になるの?」

「それは見栄とか体面とかいうやつだと思うぞ」


 静は右の拳を左の手のひらに打ちつけた。


「あぁ、人間がよく気にするやつ。意味がわからなくて理解できないんだけど、それなら仕方ないね。よくわかんないけどわかんないなりに仕方ないよね」


 歯に着せぬものいい。噂を流した協会側からしたら、歯牙にも掛けないこの扱いはさぞかし腹立たしいことだろう。


「誘拐犯を蹴飛ばしたの私なのに、よくわからないことを理由に大きいのが悪いって言ってる馬鹿な協会は、考えてたよりももっと馬鹿だったってことだね。ひとつ賢くなった!」


 心の底から嬉しそうな声で、胸を張って顔を輝かせる姿に、清巳は耐えきれずに吹き出した。

 あまりにもまっすぐで負の感情もなく綺麗な瞳に毒気が抜かれた。

 口元を手で覆い隠して肩を振るわせる清巳に、静は首を傾げた。


「あれ、ちがう?」

「認識は人それぞれだ。いい印象がない、っていう静の考えならいいと思うぞ」

「いい印象あるの?」

「うーん……どうなんだろうな? 俺らにはわからないだけで、他の人の目には良いところがいっぱいなんだろうから、あくまで俺と静の個人が協会は憎たらしいほどの感情しかないというのは理解してたほうがいいが、わかるか?」

「おっちゃん言ってた。協会批判はおっちゃん個人の感情もあるから穿った見方はするなって。その話をするたびに悲しそうだったから好きではなかったけど、協会の人間がおっちゃん陥れた。だから私も好きじゃなくなった。そういうことでしょ?」

「そうだな。わかってるならそれで良い」


 陥れたとか不穏な言葉については綺麗さっぱり忘れることにする。個人にできることなどなにもない。あったとしても、弟妹以外に差し伸べる手も実力も自分にはない。

 ずいっと目の前に静が頭を差し出した。


「……これは?」

「賢くなったご褒美」


 自己申告に苦笑を零し、綺麗な方の手を乗せてそっと撫でた。


  [合法的に入れればって、そうだけど、そうなんだけどっ!]

  [いろいろごたごた確定なやつぅぅぅぅ]

  [温度差ぁ]

  [さっきまでの緊張感とこの緩さのギャップよ]

  [警告した人が早く逃げてって話なんだけど]

  [ア・オ・ハ・ルゥゥゥゥゥウ!]

  [なんだかんだ待っててあげてる兄。なお手は貸さない]


 五回ほど撫でたところで静は満面の笑みで顔を上げた。鼻歌でも歌いそうな様子で上半身を左右に揺らす。

 目元を和めてそれを数秒見つめたのち、清巳は表情を一転させて調査隊の面々を睨みつけた。


「――で、いつまで座り込んでるんだ? 上ではもう緊急避難が始まってるのに悠長だな」





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