金青の剣士と緋色の幼子
瑞野 紅月
橄欖石に思慕を織る
第1話
黒い人間が地面を這っていた。まるで獣のように四足で歩き、目も鼻も口もない顔で瓦礫の下敷きになり逃げられない人間を食む。
あるところでは、三メートルはあろう狼の魔物が逃げ惑う人間の首に噛みついて押し倒し、その肉と骨を貪っていた。
至る所で響く断末魔は激しい雨に打ち消され、用水路では赤い雨水が轟々と流れている。
滑り落ちそうになる妹を青年はしっかりと抱え直して大通りを駆けていた。自宅から最寄りの地下シェルターまでは二キロあり、もうすぐ四分の三が過ぎる。
遠目に見えた役所の建物に僅かに肩の力を抜いた。異様な雰囲気を察して首に腕を回してしがみつく、生まれて二年も経たない妹をあやすように、その背中に右手首の付け根を当てた。
「もうすぐシェルターです。二人とももう少しだけ頑張ってくださいね」
咄嗟に引っ掴んできた剣を握る右手を小さく動かしてあやす。ちらりと横目で弟を確認すると、友人の腕の中で妹と同じく体をこわばらせていた。
再び視線を戻した青年はもう一度、努めて優しい声で大丈夫と二人に、何より己に言い聞かせる。
「大丈夫、大丈夫ですから。私たちが守るから」
すぐ目の前にあるのに、シェルターが遠い。
最後の交差点を過ぎたところで、不意に右腕を強く引かれた。引っ張られるがままにバランスを崩す。せめて妹だけは守ろうと、空になった右手でも彼女を強く抱きしめて身体を捻った。右肩を強か打ち付ける。青い鞘の剣が地面に甲高い音をたてて転がった。
ぱん、と乾いた音が雨音を裂いて響いた。
いつ襲われるかもわからない恐怖に喉を引きつらせながら身体を起こして、肩に走った痛みに小さく呻く。その左隣に、友人に預けていたはずの弟がぺしゃりと尻餅をついた。咄嗟に妹を右腕に抱きかえて弟を引き寄せた。
再び、ぱん、ぱん、と弾ける音が雨音を立て続けに切り裂く。
そこでようやく音のした方へと視線を向けた青年は、魔動拳銃の引き金を引きながら強ばった顔で叫ぶ友人を見た。
「逃げろ!」
その叫声は魔物の口の中に消えた。
撃ち抜かれた肩から血を流しながら、紫色の奇妙な毛並をした熊は首を振って肉を引きちぎり咀嚼する。肉を噛み潰し骨を砕く音が、雨に紛れてやけに大きく聞こえた。
「にい、ちゃん……」
どこか現実味のない光景に茫然としていた青年は、弟の恐怖に引きつった声に我に返った。慌てて拾い上げた剣を弟に押し付け、左腕で抱え上げる。しがみつく弟妹をしっかりと抱きとめて立ち上がった青年は、強者が弱者を捕食する音から必死に遠ざかった。
後ろで誰かの悲鳴が上がる。どこかで助けてくれと誰かが叫んでいる。だが、振り返ることなく足を進める。
耳の奥で反芻する音が己の罪を叫んでいた。悪夢のような光景は現実であると、肩の痛みが無力な己を嘲笑う。
青年はぐっと奥歯を噛みしめて、ひたすら前を見続けた。
――だって、私には弟と妹がいるから。
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