#4 『鳥の天国、イーレイ』



 鳥の天国。


 今回は神話伝承の英雄ではなく、この不思議な響きを持つ場所について語ってみましょう。

 そこは暖かい海にぽつんと浮かぶ小島で、冬になれば渡り鳥たちが星々に沿って向かい、蛇たちは木々の梢を伝って渡っていく。そして厳しい冬を平穏のうちに過ごすのです。そして、死者の魂もまた、鳥になってその楽園へ飛んでいくのだと。


 鳥の天国は主に東欧のスラヴ圏、つまりはロシア、ウクライナ、ベラルーシなどの旧ソ連諸国において語り継がれてきました。

 この西方浄土信仰とも呼べる概念は、地理的にそう遠くない北欧の伝承、例えば叙事詩『カレワラ』を擁するフィンランド神話などとは随分と印象を異にするものです。『カレワラ』における死者の国トゥオネラは三途の川の向こう側にあり(三途の川の概念は洋の東西を問わず存在するのが面白いですね)、暖かさや穏やかさとは無縁の場所でした。

 東スラヴ圏での死者の国が陽性のイメージを伴っているのはキリスト教的な価値観が多分に影響しているのも大きいですが、あの地域の人々が抱いている『温暖さへの信仰』が反映されているように思われます。

 それではスラヴの西方浄土、鳥の天国についてもう少し追ってみましょう。


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 スラヴ諸国において、鳥の天国は「イーレイ」「ヴィーライ」「ヴィリイ」「ヴィレイ」あるいは「ライ」と呼ばれてきました。名前が複数あるのは地域や言語によって表記が異なるからですが、ややこしいので今回はイーレイと呼ぶことにしましょう。


 イーレイは冬の訪れに伴って渡り鳥が飛び去る先、つまり西南の海にあると伝えられています。とはいえ現世に実在する場所だと考えられていたわけではないでしょう。スラヴ圏で天は九つの層に分かれており、そのうち最も重要な第七の天は生ける水を湛えた天空の大洋であるとされます(キリスト教やイスラム教にも至高の天を意味する「第七天(セブンス・ヘブン)」という表現がありますね)。そこから鳥の天国イーレイは空の彼方の海の果て、第七天の大洋に浮かぶ島なのだ、とする解釈もあるようです。


 東スラヴ圏において死後の魂は鳥となり、あるいは風と一体になって飛び去るものだと考えられてきました。東欧の古い葬礼歌では死者を白鳥などになぞらえ、あるいは小鳥と共に飛んでいくものとして歌います。厳しい冬を前に南方へと去っていく渡り鳥と死者の魂を重ねて「鳥たちが向かう先には暖かな楽園があり、死者も鳥となってそこで穏やかに暮らすに違いない」という素朴な信仰が生まれたのでしょうね。


 もっとも、実際にイーレイがどのような場所なのかは、あまりよく伝わっていません(あるいは現地には伝わっているのかもしれませんが、我が国でそれを知るのは少々困難です)。とはいえ、イーレイに纏わる最も有名なモチーフならば、この場でお話することも出来るでしょう。二羽で一対の半人半鳥、アルコノストとシリンの話であれば。


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 アルコノストとシリン(シーリン)は、鮮やかな色の翼と鳥の下半身、女性の顔と豊かな乳房を備えた胴体を有する、半人半鳥の存在です。頭には王冠を被り、普段はイーレイで暮らしていますが、時折人間の世界を訪れて歌を歌うとされていました。スラヴ伝承には他にも知識を司るガマユンなどの女顔の鳥が登場するあたり、半人半鳥は普遍的なモチーフだったようです。


 ところで彼女たちの伝承は、遡ればギリシャ神話の鳥人伝説に行き着きます。旅人を誘惑して死に至らしめるとされたセイレーンのことですね。ギリシャの怪物にルーツを持つ鳥人の歌はスラヴ伝承においても凶兆とされ、聞き惚れた者は命を落とすとされました。彼女たちの歌を掻き消すため、昔の人々は大砲や鐘の音を盛大に鳴らしたということです。


 しかし時代が下り、17世紀を過ぎると、彼女たちの受け止められ方は徐々に変化していきました。歌が死と結びついているのは変わりませんが、鳥の天国に住んでいる彼女たちは、むしろ楽園からの使者であると考えられるようになったのです。シリンは朝に現れて悲しみの歌を歌い、アルコノストは昼に現れて喜びの歌を歌うとされ、悪魔の誘惑を警告すると共に幸せを人に与えるものだと、時代と共に肯定的な解釈がなされ始めました。彼女たちは二羽一対として宗教画のモチーフにも取り入れられ、現在でも二羽を描いた多くの絵を見ることが出来ます。


 とはいえ、幸せへと誘う歌は、やはり死と隣り合わせのものです。それを示す最も有名な作品は、オペラ『見えざる街キーテジと聖女フェヴローニヤの物語』でしょうか。ロシアの作曲家ニコライ・リムスキー=コルサコフの手により、ワーグナーの『パルジファル』や『ニーベルングの指環』の影響を受けつつもロシアの伝承を題材として書き上げられたこのオペラにおいて、アルコノストとシリンはヒロインに死を告げる役目を与えられています。


 それでは簡単にではありますが、オペラ『見えざる街キーテジと聖女フェヴローニヤの物語』のあらすじをお話しましょう。

 現在のロシア西部、ヴォルガ川のそばの森の中に、フェヴローニヤという少女が住んでいました。彼女は清らかな心を持ち、誰に対しても優しく、動物と語り合うこともできました。

 ある日、森に傷付いた狩人の青年が現れます。心からの思いやりをもって彼を介抱するフェヴローニヤ。最初は頑なだった青年も、彼女の真心に触れて心を開き、次第に彼女へ惹かれるようになっていきます。彼の正体はこの地域で最大の都市である大キーテジ、その領主ユーリ公の息子フセヴォロドでした。フセヴォロドはフェヴローニヤに求婚し、フェヴローニヤもそれに応えます。


 フセヴォロドが大キーテジへ帰った後、フェヴローニヤは婚礼のため、フセヴォロドの家来たちと共に大キーテジへ向かう途中、小キーテジの街を通りかかりました。小キーテジでは庶民のフェヴローニヤが公子に嫁ぐのは身分違いだと噂されており、グリーシカというお調子者の酔っ払いがフェヴローニヤをからかいますが、フェヴローニヤは意に介しません。

 しかしそんな平和な時間は突如として終わりを告げました。タタール人が攻めてきたのです。街の人々は殺され、フセヴォロドの家来は目を潰され、フェヴローニヤとグリーシカは囚われの身となります。タタール人に拷問を受け、小キーテジから大キーテジへの道を話してしまうグリーシカ。フェヴローニヤは祈ります。大キーテジがタタール人の目に映ることがないように、と。


 タタール人襲来の報は、大キーテジにも届きました。緊張感が高まる中、不思議な霧がキーテジに立ち込め、街の姿を見えなくしてしまいました。フセヴォロドは配下の軍勢を率いて、見えざる街となったキーテジから出撃し、タタール人との戦いに臨むのでした。


 グリーシカに案内させて大キーテジがあるはずの場所にまで辿り着いたタタール人たちですが、街の姿は何処にもありません。混乱の中、フェヴローニヤの元にフセヴォロドの服が届きます。大キーテジの軍勢はタタール人に敗北し、フセヴォロドはその戦いの中で命を落としたのです。悲しむフェヴローニヤ。その夜、グリーシカはフェヴローニヤに脱走を持ちかけます。逃げ出した二人ですが、グリーシカは湖の底に大キーテジの街の幻を見て、自分がタタール人を手引きした罪悪感に耐えきれず発狂してしまいました。


 グリーシカが何処かへ去り、疲れ果てて一人森の中に残されるフェヴローニヤ。そんな彼女の元に、半人半鳥のアルコノストとシリンが現れ、歌を歌います。すると、フェヴローニヤの前に死んだはずの公子フセヴォロドが現れたのです。そのそばにはフセヴォロドの父ユーリ公や家来たち、キーテジの人々の姿もありました。再会の喜びの中、フェヴローニヤとフセヴォロドは婚礼を挙げます。死を告げる異形の鳥、アルコノストとシリンの歌に誘われた天国で。


 前述の通りロシアの伝承を元にしたこの物語は、悲劇でありつつも儚く美しい余韻を鑑賞者に与えます。そのクライマックスで重要な役割を果たすのが、半人半鳥のアルコノストとシリンです。彼女たちの歌はフェヴローニヤに死を告げますが、同時にそれは楽園への誘いであり、永久の幸福を約束する歌でもあるのです。


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 遥かなる西方の楽園、鳥となって飛び去った魂が舞い降りる島。

 異形の鳥たちが幸せの歌を歌う、永久に冬が訪れることのない穏やかな地。

 鳥の楽園イーレイには、死者を悼む人々の祈りと幻想が込められているように感じます。

 渡り鳥の飛び去る先にはどんな世界が広がっているのか。

 たまには空を見上げて想いを馳せてみるのもいいかもしれません。


 いかがでしたでしょうか。

 今回は鳥の天国をテーマに解説させていただきました。

 これが鳥達の囀る西の果て、楽園への道しるべになれば幸いです。

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