第四話 期待

 午前三時。隅に灯るスタンドライトの明かりだけが、広い客室を照らす。男のスーツにしまわれていたタバコに火をつけながら、私はどこかぼうっとしていた。ベッドに横たわる上裸の男は、今さっき死んだばかりだ。口紅に毒を仕込んで、口づけした。         

 この殺し方は嫌いだ。男と口付けをすることが不快なのもそうだが、何より楽しくない。口づけをした瞬間、白目をむき、泡を吹いてひっくり返る姿は、夕方に会場全体を揺らすほどの拍手に歓迎されながら演説を終えた威厳のある姿とどうにも重ならない。目を閉じて、先日の仕事を思い出した。泣きわめく男の首筋にナイフを押し付け、迸る血しぶきが命を垂れ流していくその様子は、腹の底が震えるような快感をもたらす。刈り取る命が最後に抗おうとするエネルギーに、自分の命を感じる。自分は生きている。許してくれと懇願するような命の叫びに、己の命が共鳴する。あの感覚は、眠るように一瞬で死ぬ毒殺ではあまり感じられない。

 ゆっくりとタバコの煙を吐いた。残された時間はあと2時間。もうじきホテルの下に迎えの車が来る。表の扉から出ると男の護衛に怪しまれるから30階の窓からどうにかいくつか下の階に移動し、そこからエレベーターを使えば良い。

 面倒だが、そんなことがどうでもよくなるくらい、今日は気分が良い。先月の食事会で主がラムエルに指示していた男。情報を掴むことすら難しい、この国の裏社会で絶大な力を持つ、宗教団体の教祖。弱弱しい光に醜い死に顔を晒すこの男とも関係を持っていたらしい。その男と、偶然にも今日顔を合わせることができた。ラムエルの仕事を奪ってしまうことになるが、彼もこのターゲットには頭を悩ませていたから悪い気はしないはずだ。彼は頭脳に優れているが、契機は案外偶然の出会いであり、釣り糸は男の本能を刺激するもののほうがよく釣れるときもある。

 男に渡された名刺を眺める。ヘンデルという名を確認する。事務所の所在地の下に、手書きでもう一つの住所が書かれている。ここに来いということだろう。念のため事前に視察に行き、敷地の構造を確認しておこう。

 タバコの煙をたっぷりと吸い込むと、灰皿に押し付けた。ゆっくりと息を吐きながら立ち上がり、ベッドを整える。見開かれた男の目を閉じる。毒を仕込んだ痕跡もなく、暴れた痕もない。男は心臓の持病があったそうだから、持病の悪化で死んだことを誰も疑わないだろう。扉は内から鍵をしてあるから、何者かが忍び込んだとも思われない。窓の鍵が開いていても、こんな高層階の窓から出入りできる普通の人間はいない。今日も完璧だ。仕事は簡単で、単純で、私に生きている価値を与える。

 窓を開け、片足を踏み出す。夜の空気は刺すように冷たく、鼻の奥がつんと痛む。下を見ると、およそ10階あたりから建物の形が変化しており、足場となる場所がある。ここからは20階の差があるが、大したことはない。この距離ならば、飛べる。両足を踏み出し、窓枠に手をかけてぶら下がる。片手で窓を閉め、手を離した。ふわりと内臓が持ちあがる感覚。耳元を冷たい風が暴れる。すぐにその速度が落ち、私は落下しながらも風に乗れるようになる。背中から何かに持ちあげられているような感覚は、いつも不思議だ。私の身体能力は並外れているが、空中をある程度自由自在に移動できるこの能力に、最も恩恵を受けている。

 60メートルほど落下したにも関わらず、ヒールのかかとを傷つけることもなく、こつんと軽い音を立てて屋根に降りる。下をのぞくと、見慣れた黒い車が止まっている。このまま下に降りてしまおうと、またひらりと身を投げ出した。

 夜風が気持ち良い。今日は良く眠れそうだ。冬の冷たい空気を吸い込みながら、私は目を閉じて微笑んだ。

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