第三話 契機

 街中で一番のラグジュアリーホテルは、昨晩からいつもに増して高級車が行き来を繰り返している。車から降りてくるのはテレビや新聞で目にする著名な政治家や実業家、資産家たちだ。上質なスーツを纏った中年の男たちの合間を縫って、華やかな女たちが次々とやってくる。ホテルのロビーはてきぱきと視線を飛ばしながら仕事にいそしむホテルマンの張りつめた小声、偉そうな男たちの笑い声、女のヒールの音に埋め尽くされていた。 


 午後9時。立食パーティーは終盤に差し掛かる。冒頭に国を変えることが我らの使命だと言わんばかりに胸を張って演説をしていた男たちも、今やロゼワインのように顔を染め口だけは政治や事業の話を続けながら、ちらちらと女のドレスの背中や胸元に目をやっている。男の資産は地位と資産だけではない。今晩部屋に迎える女の格が、明日からの彼等の順位を変えるのだ。国中から集められた生まれや育ち、容姿と頭脳に恵まれた女たちが、男の視線に気づかないふりをしながらシャンパングラスを傾けて談笑している。

(今日はどうやらはずれだな。)

男は思った。さっきから視線を集めるのは、会場の真ん中の席で一際華やかなドレスを身に纏う、背の高いよく笑う女だ。栗色の髪がふわふわと縁取るその顔立ちは、今一番の人気を誇る女優に引けをとらない。財閥の隠し子だかなんだか、裏についている力も相当なものだろう。彼女を今晩引き留める人間は、パーティーが企画されたときにすでに決まっている。

「あの娘が気になりますか?」

一人でつまらない顔をしながら酒を舐めていると、白いスーツに身を包んだ初老の男が、胡散臭い笑みを浮かべて近づいてくる。名前を覚えていないが、おそらく以前顔を合わせた裏社会の権力者だ。パーティーの主催者は政治家だから、表の社会で力を持つものたちが多数派だ。表の者が表立って関わろうとしない者たちは、必然的に一つのテーブルに集まるようになる。

「あれが今晩の目玉か?」

女の顔を見る。大きな茶色の目を細め、口元に手を当てて笑う女の顔を遠目に眺めながら男は眉を顰める。ああいう女の何が良いのだろか。自分では何の力も持たないような、見てくれだけの女が、この世界では価値があるのだろうか。

 白いスーツが何か話している。当たり障りのない返事をしながら、男は欠伸をこらえた。退屈だ。資金が、企業が、国が、女がなんだっているのだろうか。人間は持ち物でしか勝負ができない。自分は何も力を持たないのに。退屈を持てあますばかりに、頃合いを見て中座しようかと考えながら出口の方を向いたその瞬間、二つとなりのテーブルの脇で一人佇む女の姿に目が留まった。見ない顔だ。いつからここにいたのだろうか。服装は質素で、他の女のようにシャンデリアの光をそのまま反射するような華美な宝石や豪華なレースは身に纏っていない。しかしシンプルな紺色のドレスに、絹糸のように流れる黒髪、その合間を除く白い首筋が無性に目を惹くのだ。男が首を伸ばそうとするとちょうど前にいたホテルの従業員がいなくなり、顔がはっきりと見えた。真っ白な肌に真紅の唇が映え、外国製の人形のように端正な横顔が、目を釘付けにして離さない。引き込まれるように、男はその女に近づいた。白スーツの怪訝な顔が、目の端に映るがもはや彼のことなどどうでもよかった。

 彼女の存在を目にとめた男がもう一人いた。どんな動きをしても皺の一つもつけない見るからに上質なスーツを身に纏い、年の割に量の多い髪を撫でつけた男が笑みを浮かべて近づく。この会場で彼を知らないものはいない。彼は政治家を裏で操る表社会の真の権力者だ。男の「お得意先」でもある。

 女が振り返った。驚いたような表情が、取り繕ったものであることを男は察した。そういうことが、彼には分かるのだ。

 二言、三言言葉を交わすとグラスを重ね、彼らは酒に口をつけた。目を伏せると長い睫毛の音がこちらまで聞こえてきそうだ。真紅の唇がグラスから離れ、シャンパンに潤されてよりいっそう艶っぽく光って見える。その唇が何かささやき、目をそらして微笑む。どこか恥じらっているようにも見える顔だ。

(あれは―)

本能的に男は察した。あの女は、偶然を装って彼に誘われるためにここに来ている。自分が誰かの目に入ったら最後声を掛けられることを分かり切っていながら、彼にだけ目に留まるように計算していた。背筋がぞくりと震える。

 女は男の手に自分の手を重ね、意味ありげな目線を送った。スーツの背中からも、手を握られた彼がとろけるように笑う顔が思い浮かぶ。何度かうなずいたあと、満足気に笑みを浮かべたスーツの男がテーブルから去り、元のテーブルに戻っていく様子をうかがってから、男は前に進んだ。女はグラスを置き、少しうつむいている。髪が顔にかかり、表情は分からない。

「ねえ。」

衝動的に声をかけてしまった。なぜだか分からない。この女のことが、気になって仕方がない。驚いたように女は少し息をのみ、男を見上げた。陶器のように体温を感じさせない肌に、真紅の唇。長い睫毛に縁どられた、漆黒の瞳がこちらを射抜いた。

 束の間、声が出なかった。一見作り物のガラス玉の様に生気を感じさせないのに、一度奥を覗くとどこまでも吸い込まれそうな瞳。深く、濃く、生き物もいないような深海に沈み、その奥に宿る業火に手に触れそうになる感覚に、男の背筋は再びぞくりと震えた。

(この女は―)

力を持っている。内に宿す強力な力。確実だ。他の見てくれだけの女とは違う。いや、他の人間と違う。

「同類か?俺の。」

口が勝手に動く。久々の感覚だ。また同朋を迎えることができるかもしれない。しかも、これは相当強力なものに違いない。心臓が高鳴る。

「隠さなくていい。俺は味方だ。この世界にも、君の味方はいる。」

しかし、女は怪訝な顔をした。

「なんのことかしら。」

鈴のような声だった。

「分からないですわ。あなたが何をおっしゃっているのか。」

怪訝そうに見上げる目には、もうさっきまでの深く危険な沼の底から誘うような光はない。隠したのか、思い過ごしなのか。

「でも、味方と言ってくださったのね。嬉しいわ。私こういう会は初めてですから、お知り合いの方もいなくて心細くて。」

眉を下げてほほ笑む女の表情は、今はもう栗色の髪の女と何も変わらない。それでも、彫刻のように整った顔立ちの危険な美しさに、男は目を離すことができなかった。

「すまない。人違いだったようだ。でも―」

「私のことが気になって?」

黒髪を耳にかけながら、上目遣いで女は見上げた。困ったような眉はそのままだが、真紅の唇が浮かべる笑みは自信に満ち溢れている。男はなにも言えない。

(情けないじゃないか。)

自分にあきれた。目に入った初対面の女に、自己紹介もせずに近づいて口説くなんて、この場に呼ばれる男の許される行動ではない。ここで食い下がったら猶の事意味が分からない。男はスーツの内ポケットに入れていた名刺を取り出すと、ちらりと確認してから女に渡した。

「気が向いたら。」

名刺を渡す様子を白スーツに見られているかもしれない。はやくその場を離れようと足先の向きを変えた。

「今晩とは言わないでちょうだい。でも、いつか必ず。」

頷いて男は女に背を向けた。俺が何者かも知らずに家を訪れようとするなんて、この女は案外大した者ではないのかもしれない。その異様な雰囲気に思わず買いかぶりすぎたか、と後悔はしたが、面倒な女だったら二度と表れないようにしてしまえば良いのだ。この会場でグラスを交わす女もいないようでは、きっと重要な立ち位置の者ではない。少なくとも男の行動に逆らえる程度の者ではないだろう。

 

 元いたテーブルに足を向けると、白スーツの初老の男はもういなかった。面倒だしこのまま帰るかとため息をつく男の背中を、黒髪の女はじっと見ていた。

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