第二話 鳥籠

 夢を見ていた。 

 私は食卓を囲んでいて、目のまえには絵に描いたような豪華な食べ物が広がっている。こんがりと揚げて甘酸っぱいタレをかけた魚の大皿。葉の先まで瑞々しい野菜と、透き通ってきらきらと光る宝石のような不思議な果物。見たことも、食べたこともない食材が、テーブルの端から端まで埋め尽くしている。

 誰かが、何か話して、両隣から、笑い声があがる。こんなに優しい声で笑う人が、どこにいるのだろうか。皆が手を合わせて、食器が一斉に音を鳴らす。銀のフォークに手を伸ばす前に、向かい側に座る人影が、私の取り皿に料理を盛った。目のまえに置かれた白い小皿には、魚の柔らかい身に油の浮いた金色のソースが伝ってしみこんでいる。

 ここは、私の知らない世界だ。こんな暖かくて、良い匂いのする世界を私は知らない。それでも太陽に干された布団のような埃っぽい匂いは、どこか懐かしい。優しくて暖かいのに、やり場のない切なさが胸にこみあげる。優しいのに、暖かいのに、どうしようもなく苦しい。逃げたい。ここに私はいてはいけない。


 目を開けると夢の世界は一瞬にして消えた。灰色のコンクリートがむきだしになった天井に、日の落ちた後の薄暗い外の光が鉄格子の影を落としている。

 まどろむ間もなく、私は身を起こし、冷たい床に足を下ろした。殺風景な狭い部屋の片隅に、金属製のロッカーが置いてある。ひんやりとしたロッカーの扉を開けて、紺色のサテンのドレスを取り出す。夜着を脱ぎ捨てて身に纏うと、シンプルなドレスは体のラインにぴったりと張り付き、何も着ていないような不安な気持ちにさせる。ロッカーの扉についた鏡でチェックをするとすぐに、黒いファーコートを羽織った。見た目に依らず、コートはずっしりと重い。内ポケットにあらかじめ仕込まれた銃とナイフのせいだ。

 鏡に向き合う。櫛を通さずとも一糸の乱れもないまっすぐに伸びた艶のある黒髪。白く小さな顔には、長い睫毛に縁どられてガラス玉のような大きな瞳が二つ並んでこちらを見ている。

 今日の任務は、パーティに忍び込むことから始める。ターゲットは国を治める偉い人らしい。良く分からないけれど、分かる必要はない。ただ、会場の様子や相手の趣味はよく知っておく必要がある。怪しまれてしまったらこの仕事はおしまいだ。失敗したら、命はない。

 

 けたたましいベルの音が鳴り響く。二秒も経たない間にさび付いた金属製の受話器を手に取り、黙って耳に当てる。

「おはよう、ナタリー。」

芯の抜けきったような、男にしては高く柔らかい声がする。

「分かっているね。二分後に出発だ」

朝のベルは、目覚ましのつもりらしい。だがこれが鳴ってから遅くても5分後には、任務が開始される。だからこれは目覚ましの役割を持たない。私はベルの鳴り響く2時間前に目覚め、身だしなみを整え、今日の仕事に必要なものを準備して待っている。

 化粧は普段ほとんどしないのだが、今日はパーティの参加者に合わせたほうが良いかもしれない。仕事場まで送ってくれる運転手が来るのをまっていた私は、ロッカーの鏡に戻って一本しか持たない口紅をひいた。真っ白な肌に真紅の口紅が映えて、生気のなかった顔は一瞬の笑顔で男の懐に入り込めるような、艶めかしい美しさを纏う。

「お前は人形のように美しい。この仕事をするために生まれてきたに違いない。」

雇われたばかりのころ、主にそう言われた。人と関わったことがほとんどないから、美しいとか醜いとか、そういうことが良く分からない。けれど、今まで私が話しかけて、微笑んで、唇を寄せた相手を仕留め損ねたことは一度もない。だからきっと、主の言っていることは間違っていない。私は美しく生まれた。人を殺すために。


 重い金属の鎖が外れる音がしたあと、扉が開いた。白い手袋に黒スーツ姿の中年の男が扉を開け、こちらを見ている。

「時間です。」

私はうなずいて、ヒールを履いた。一歩踏み出すと硬い床にヒールの音が響く。外に出ると、男はすぐに振り返った。扉を背にして私の前に立ちふさがると、首に手を回す。ひんやりと冷たい感触がして、黒い首飾りがずっしりと重く首にまとわりついた。

「今回も、時間には十分気をつけるように。」

前を向いて進み始めた男が、無機質な声でそう言う。言われなくても分かっている。時間内に戻らなければ、首輪は少しずつ細くなり、しまいには絞め殺されて首が飛んでしまう。この首輪に絞め殺された遺体の回収に出たことも何度もある。主から逃げ出したのか、任務が終わらなかったのか、しくじったことを咎められるのを恐れて帰れなかったのか。理由は分からない。ただ、私は決してそうはならない。今日の制限時間は6時間。主は私を信頼して他よりも時間に余裕を持たせているし、今日の任務も難しいことはない。こうして仕事に従事していれば、寝るところと食べ物がもらえる。なぜ逃げ出したくなるのか分からない。私はこの暮らしにとても満足している。


「ナタリー。」

良く知った声がした。廊下の向かいから、背の高い男が歩いてくる。

「お疲れ様。ラムエル。」

任務が終わったのだろう。仕事後の人間の様子はよくわかる。血の匂いと、殺気のひかない目は、まるで獣のようだ。

「ああ。これからかい?明日は食事会だから、早めに片づけて寝るんだよ。」

ラムエルと私は、この組織での一番の古株だ。といっても、使い捨てのように働かされるこの組織では、1年以上続く者はそうそういない。彼も私も、同僚の死体を何度も回収した。驚異的な身体能力と美貌を持つ私と、頭の良い彼だけは、5年間一度も仕事を失敗しなかった。使い捨てのように人を扱う主も、4年目には私たちの名前を覚えてくれた。私も彼も、自分以外の名前を知ったのはお互いが初めてだ。五年目になる今では、私たちは稀に主の外出に付き合ったり、食事をしたりするようになった。

「分かってるわ。報告を頑張って。おやすみなさい。」

任務が完了したラムエルは、主に報告をして眠ることができる。その間に私は別の仕事を片付ける。明日のこの時間には、二人で主の身の回りの準備をこなし、食事会に行くことになっている。

ラムエルを見送ってしばらく歩くと、すぐに扉が近づいてきた。二重の鉄格子を南京錠で開けると、鉄製の扉がある。ここは番号を入力すると開くようになっている。もちろん、私にその番号は分からない。

 重厚な音を立てて扉が開き、裏口に出た。時刻は18時頃だろうか。街灯の少ない道に通じる裏口は薄暗く、冬の空気を一層冷たく感じさせる。用意してある車に乗り込むと、男が運転席に座り、扉に鍵を掛ける。任務に就いているとき以外、私はいついかなるときも逃げ出せない状況下を作られている。逃げ出すわけがない。私の居場所はここしかないのに、といつも不思議に思う。

 車が発車した。薄暗い通りから、すぐにビルの立ち並んだ明るい大通りに出る。太陽の代わりにあちらこちらのビルに電気が灯り、日が落ちたというのに、一日はこれから始まるようだ。私も、この街も。

 今日の任務も楽しみだ。これをこなせば、私は今日も存在する理由がもらえる。また主に褒めてもらえるし、明日はラムエルも交えて食事だ。ずっとこれで良い。これが私の幸せだ。

 目的地のホテルまではもう少しかかるだろう。背もたれに身を預けて目を閉じた。起きてからまだ二時間も経っていない頭は、容易に眠りを誘う。任務前に寝るのはよくないが、少し目を閉じた方が頭も冴えるかもしれない。

 1時間ほど経っただろうか。車が減速し、豪華なホテルが見えてきた。背を伸ばして深呼吸をする。扉を開けるとホテルの使用人が待っている。ヒールの足を一歩踏み出して、ホテルのロビーに向かう。今日も失敗は許されない。いつも通り、任務を終えよう。

 あの暖かい食卓は、夢に現れなった。



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