翼を宿す君たちへ

瑠奈

第一話 使命

暖かいコーヒーの匂いで目が覚めた。ぼうっと開いた瞼の間から、白いマグカップを持ってこちらに向かってくる赤毛の人影が映る。

「ようやく起きたね。」

鈴のような、耳に甘い雫を落としたような声。聞きなれた、落ち着く声。

「昨日、仕事が遅かったからさ。」

透き通るような赤い瞳が、心配そうに陰をおとす。マグカップを受け取りながら、その手をそっと包み込む。柔らかく、なめらかな皮膚が触れ合う。艶のある赤い髪から、ほのかに花の香りがする。新調したシャンプーの香りだ。

「仕事、頑張ってるんだね。」

するりと手を引き抜いて、顔にかかる赤い髪を耳にかけながら、彼女も自分のカップを持ちあげた。


 起き抜けのぼんやりした頭は、ふとした瞬間に意識を現実から追いやる。赤く艶のある唇をカップにつけ、香りを堪能するように目を閉じ、こくりとコーヒーを飲み下すその白く細い喉元が、引き裂けるほど震え、聞くものを絞め殺すような、おぞましい叫び声を鳴り響かせる。赤い髪が炎のように広がり、天地の全てが炎に包まれ、爆風と地べたに縛り付けられるような重さが全身を襲う。津波のように押し寄せる煙の焦げ臭い匂いが鼻を指し、胸苦しさに思わず首に手をかけ、震える手に収まる冷たいナイフの感触を確かめ―


「ねえ」

彼女の甘い声に、意識が現実に引き戻される。焦げ臭い爆風は、手にもつコーヒーから香る香ばしい湯気に変わる。

「大丈夫?ほんとに、ちゃんと寝れているの?」

大きな目は心配そうに上目遣いになると、もはや零れ落ちそうなほどだ。

「いや、ごめん。俺が寝起き悪いの知ってるだろ?」

笑いながら俺は、コーヒーを一口啜った。鼻に抜ける香ばしさは、上等な豆を淹れる直前に曳いたからこその、手の込んだ美味しさだ。ぼんやりとした頭が冴えわたるような、力強い味わいに、一日の始まりを感じる。

「今日も美味しいでしょう。最近淹れ方のコツが分かってきたのよ。」

粉を先に少し湿らせてから―とコーヒーの淹れ方を説明する彼女に相槌を打ちながら、俺は朝の陽ざしに目を細めた。レースのカーテンが風に揺れて、差し込む金色の陽光が、部屋の全てを明るく見せる。少し散らかったキッチンは、これから朝食を用意する彼女が調味料を探していたのだろう。


これは、日常だ。

それを実感するたびに、傷跡にしみこむような切なさが胸に広がる。

俺が、何もかも犠牲にして、必死に手に入れた宝物だ。


 ベッド脇の机に、紙の束が置かれている。びっしりと書かれた文字は、昨晩の努力の痕跡だ。

 俺の仕事は小説家だ。ファンタジー小説の連載を始め、爆発的なヒットを生み出した。俺の作品を読む人は、発想力、設定、緻密な表現に感服を受けるらしい。ファンタジー作家として最高の評価だが、これは俺の才能ではない。俺の作品は、俺が作り出したものではない。実話になってはいけない、存在してはいけなかった歴史を、そこに生きた命を、作品として残すこと。これが、俺の使命だ。今ここに生きる俺の使命だ。彼らの命が無かったことにならないよう、永遠に輝き続けられるよう、今日もペンを握る。俺にできることはそれだけだからだ。

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