第7話 ドッペルゲンガーと死神
心理学的な、
「症候群」
と呼ばれるものの中に、いろいろと不可解なものもあったりする。
たとえば、前に一度聴いたものとして、
「カプグラ症候群」
というものがある。
「自分の近しい親族であったり、身近な人たちが、悪の秘密結社のような連中によって、悪の手先と入れ替わっているのではないか?」
というような妄想を抱くということである。
ちょっとした、
「中二病」
のような感じであるが、そんな中二病のようなものも、どのようにして流行るのかということが、なかなか理解できなかった。
これを、自殺菌のようなものが影響して、人間を疑心暗鬼にさせ、あたかも、
「自分は病気である」
というような感覚にすることで、余計に、幻覚や妄想を見ることになるというものである。
それを考えると、一口に、
「自殺菌」
と言っても、いろいろ相手によって変異するという、一種の、
「ウイルス」
のような働きをするものも出てくることだろう。
ウイルスというものは、自分で細胞分裂をするものではないので、変異することで、相手が特効薬であったり、強固になっても、対抗できるようにできているのだ。
だから、伝染病でも、普通は、
「一度罹れば、抗体ができるので、次は罹らない」
と言われているのだが、しかし、それは、同じ種類のウイルスに限ってのことである。
「同じウイルスでも、変異してしまえば、種類の違うウイルスだ」
と考えれば、
「同じウイルスに、何度でも罹ってしまうということは、普通にありえることなのだ」
と言えるのではないだろうか?
特に、ここ数年世界を震撼させている、
「世界的なパンデミック」
と呼ばれるウイルスは、何度となく変異を繰り返し、数年の間に、10回近くもの波を引き起こし、結果、世界中を大パニックに陥れているのであった。
それを考えると、
「ウイルスというものを甘くみていてはいけない」
と言えるだろう。
そんな世界において、ウイルスを撃退するワクチンや、特効薬がなかなか作るのは難しい。
いくら急遽だとはいえ、治験をしっかりとしていない薬を、簡単に摂取するというのは、無理があるだろう。
それでも、何とか今は、ワクチン効果もあって収まっているが、そのうちに、
「ワクチンが、無意味と言われるようなウイルス」
が新しく出てくるか?
あるいは、今のままウイルスで変異の段階で、そういうウイルスが出てくるということだ。
ウイルスというものが、変異を繰り返している以上、世の中は、そう簡単にうまい方向に行くわけではない。そういう意味で、
「ウイルスというのは、実に怖いものだ」
ということを、どれだけの人間が理解しているかということである。
最初は、何も分からない状態で、結構国民も、楽天的に考えていたが、ある有名芸人が死んだのを見て、
「これは他人ごとではない」
と思ったのか、国家の指示に素直に従っていた。
国が、
「緊急事態宣言」
と言われる、比較的軽い都市封鎖を行った時も、ほとんどの国民は従ったものだ。
だが、それから一年経って、一番のピークを迎えた時。
つまり、
「医療体制が崩壊」
し始め、病院の病床がいっぱいになり、ひどい時には、
「救急車を呼んで、病人を運びこんでも、受け入れ病院が見つからない」
ということで、そのまま応急手当を受けただけで、間に合わずに、そのまま死んでしまったという悲惨なことが平気で起こっていた。
確かに、医療従事者も大変だったとは思うが、中にはひどい病院もあり、
「患者を受け入れる」
ということで、政府から補助金を貰っておいて、実際に受け入れ要請があれば、簡単に断るという、いわゆる、
「支援金詐欺」
を平気で行うような、医療機関もあったりした。
政府も政府で、対応はいい加減で、
「混乱だけさせておいて、的確な指示ができない」
という状態を作り続けた。
分かりもしない政府が、有識者で作っている、
「専門家委員会」
の人たちを抱えておきながら、何かを判断する時、絶えず、
「専門家の意見を聞きながら」
と言っておいて、実際には、自分たちの都合だけで勝手に決めているのだった。
専門家としては、政府と国民の板挟みで、完全に、貧乏くじを引かされたといっても過言ではないだろう。
それを考えると、
「何のための専門家委員会なのか?」
ということになるのだ。
名前があるだけで、意見が通らないのであれば、政府による、
「やってますアピール」
のダシに使われているというだけのことなのだ。
それを思うと、
「政府というものは、結論を出すことはできるが、それに対しての責任に関しては、まったく関与していない」
ということなのであろう。
要するに、
「やりっぱなし」
ということである。
そんな国家は、次第には、
「経済を回す」
ということを理由に、今度は、まだまだ猛威をふるっているウイルスがあるにも関わらず、
「マスクもしなくていいし、今度から、特定伝染病から、季節性インフルエンザ並みの対応とする」
と、勝手に決めたのだ。
要するに、
「支援するための、金がもったいない」
ということなのだ。
「金がもったいない」
という理由で、政府は国民を見捨てたのだ。
「自分の命は自分で守れ」
と言ったのと同じで、今までは、治療費やワクチンも、国家負担だったものが、すべて個人負担になる。
きっと、そんなことをしてしまうと、変異を繰り返すウイルスが、さらに変異を重ね、収拾がつかなくなるほどに、なるのではないかと思うのは、少数派なのだろうか?
しょせん、民主主義というのは、少数派は負けるのだ。
だが、思い出せば、1年ちょっと前だったか、
「オリンピックをやりたい」
というだけで、国民の8割近くが反対していた、1年延期されていた、
「東京オリンピック」
なんと、開催されることになったのだ。
これこそ、民主主義の概念を、政府自らで崩したという、暴挙以外の何物でもないだろう。
それほど目立った流行がなかったからよかったものの、何といっても、最悪な時期においての問題だったのだ。
「医療従事者が足りないと言っているのに、さらにその上、オリンピック開催で人を取られる」
ということになり、どんなにひどい状態だっのか?
ということである。
しかし、それでも、問題なく、
「結果オーライ」
だったのは、
「ただの偶然だ」
と言ってもいいのだろうか?
今回の、
「世界的なパンデミック」
が蔓延った時期に、実際に自殺者は増えたという。
これは、ある意味当然のことで、
「都市封鎖であったり、人流抑制。さらには、時短営業などと言った政策により、店舗経営をしている人にとっては大打撃だ」
ということである。
ただ、実際に打撃を受けたのは、飲食店だけではない。製造業、サービス業、物流、すべてにおいて、直接的な大打撃を受けたのは必至のことである。
だから、
「経済を回さないと、破綻する会社が続出する」
というのは、当然といえば、当然のことである。
それが分かっているから、会社の方も、
「人員削減」
などで、何とか生き残ろうとするのだ。
当然のことながら、会社を首になった人は路頭に迷う。経営者などは、首が回らくなって、文字通り。
「首を括る」
というわけだ。
電車に飛び込んだ人も多いことだろう。
そんな時、自殺菌と呼ばれるものが、猛威をふるったということではないだろうか?
逆を考えると、恐ろしい発想も出てくるのだが、ここでは伏せておきたいと思う。
自殺菌は、間違いなく影響している。
そこで思い浮かんでくるのが、
「死神」
という発想だ。
日本の昔話や妖怪伝説などの中に、
「死神」
というものの存在がある。
「死神」
というのは、座敷わらしとは逆の存在である。
座敷わらしというのは、
「家にいるとその家が反映し、いなくなるととたんに没落するという、家にいてほしい妖怪の代表」
のようなものだ。
しかし、逆に、
「死神がいると、近い将来、死んでしまうことになる」
といって、恐れられているものだ。
いきなり事故に遭ったり、病気になってしまったり、あるいは、事件に巻き込まれるなどの、偶発的なものあれば、偶発的に、
「自らで命を絶つ」
という人もいる。
それこそ、自殺というものであり、
「ほとんどは偶発的な偶然なのかも知れないが、何かの力が働いていると考えると、この偶発的なものも説明がつく」
と言われるものである。
自殺するということがどういうことなのかというと、
「この世を憂いて、このまま生きていても、いいことなど何もない。むしろ死ぬことで、楽になりたい」
という感情から、自殺をしたくなるのだろう。
そうなると、一番の感情は、
「楽になりたい」
ということであり、
「じゃあ、どうやって命を絶つか?」
ということを考えるようになる。
しかし、実際に、
「楽に死ねる」
などというものは、そうもいかないのが、実情なのだろう。
昔のマンガなどで、死神が出てくるマンガがあった。妖怪もののマンガで死神というと、どちらかというと、
「ギャグ性が豊かな死神」
というイメージが多いような気がする。
というのも、死神自体、いや、それよりも、
「死後の世界」
というか、
「あの世」
というものに、
「ノルマ」
のようなものがあるというのだ。
しかし、これはある意味おかしな発想であり、本当であれば、
「死後の世界に行く人間というのは、最初から運命が決まっていて、その日の死者の数も決まっている」
ということになる。
だから、死神の仕事は、
「死んだ人間を、ちゃんと迷うことなく、死後の世界に導くというのが本来の仕事であり、言われているような、死神が行くと、人が死ぬというのであれば、本末転倒だ」
ということになるだろう。
しかし、
「ノルマ」
というものがあるのだとすれば、そのノルマというのは、
「死ぬ人間というは、決まっているわけではなく、少しでも死神が仕事をすれば、死の世界に送る人間が増える」
ということで、あの世に死んだ人間が増えると、何がいいのかということは分からないが、数多く、あの世に送り込むことを仕事としている以上、何かがあるのだろう。
だから、宗教的にいえば、
「死神はあくまでも、死後の世界への案内人であり、死を呼ぶという立場ではない。そういわれるようになったのだとすれば、これは、座敷わらしの発想のように、見ると、死を迎えるために、死神が待っている」
という発想にはならないだろう。
もし、そう感じられるとすれば、似たような存在で、
「見ると、死を迎えてしまう」
というものの存在に近づくとすれば、そこにあるのは、
「ドッペルゲンガー」
という存在ではないだろうか?
そう考えると、このお話も、
「どこかで話が繋がっている」
ということになるであろう。
ドッペルゲンガーというものは、まさに、
「見ると、近い将来、命を絶たれる」
と言われているではないか?
そういう意味でいけば、
「ドッペルゲンガーというものは、自分自身や、自分の身近な者にだけ通じる、死神のようではないか」
と言える気がするのだった。
ドッペルゲンガーの正体が、どういうものなのかというのは分からない。
「脳に障害があって、そのため、幻を見ていて、死にたくなるのもそのせいではないか?」
ともいわれている。
ただ、今まで実際に、著名人の中に、
「ドッペルゲンガーを見たので、自分も死ぬことになるかも知れない」
と思っていて、実際に死んだ人もいる。
自殺をした人もいれば、暗殺者に怯え、自分を狙っているというウワサがないかと確認したその日に、暗殺された人もいるくらいだ。
そういう意味で、
「ドッペルゲンガーというものを、まるで死神」
という認識で見ていた人だっていたに違いない。
マンガなどでコミカルに描かれる死神とは、まったく違った性質のものではないだろうか?
ただ、ドッペルゲンガーと死神とは、
「切っても切り離せないものではないか?」
と思うのだった。
「ドッペルゲンガーと死神」
という発想から浮かんでくるものとして、前述の、
「カプグラ症候群」
というものであった。
「自分のまわりが、皆敵に見えてくる」
あるいは、
「敵だと思い込んでしまう」
という発想が、一種の四面楚歌のような状態となり、
「自分のことを、全否定する人たち」
しか、周りにいないような気がしてくるのだ。
そうなると、
「死神の出番」
なのかも知れない。
そして、その死神というのは、どんな姿をしているというわけではない。あくまでも、
「得体の知れない未知の生物」
を考えると、
「可変的な生物だ」
ということになり、結局最後は、その姿かたちは、自分になってしまうのではないだろうか?
だから、
「ドッペルゲンガー」
の正体は、
「もう一人の自分」
なのかも知れない。
逆の方から、死神や、ドッペルゲンガーを見たとすると、どちらも結果として、
「行き着く先は、自分しかない」
ということになるのだ。
「もう一人の自分」
という発想を感じたのは、夢の中だった。
というのも、
「夢を見た」
という感覚が残り、その夢に毎回出てきているキャラクターが、
「もう一人の自分」
なのである。
元々、夢に出演している自分がいて、さらにその夢を客観的に見ている、
「もう一人の自分がいる」
ということであったが、さらに、また自分がどこから見ているのかというと、
「まるで箱庭のような限られた世界の中にいる自分たちを見ている」
というもので、最初は立体の箱庭のように見えていたにも関わらず、よく見てみると、「そこは、平面だった」
という発想である。
つまりは、
「3次元の自分が、平面である2次元を見ている」
という発想で、子供の頃はそれが動かない本の中のように思えたが、大人になるにつれて、
「映像作品ではないか?」
と感じるような世界に誘われているかのように思えるのだった。
そんな世界の中において、
「2次元と思っていた世界が、実は3次元の我々の世界よりも、さらに複雑な線を持った多次元である」
と考えると、
「夢の世界というのは、皆が漠然と感じているような四次元の世界、あるいは、さらにその世界に広がる宇宙ではないか」
と思えるのだった。
「異次元」
というものを考える時、
「四次元には、時間軸が加わる」
と言われているが、ただそれだけのことではないような気がするのだった。
ドッペルゲンガーというものに、時間軸が加わった、
「四次元の世界」
という発想が繋がったとしよう。
時間軸の盲点として考えられるものに、
「タイムパラドックス」
というものがある。
自分が、例えば過去に行って、その過去を変えてしまうと、未来が変わる。そうなると変わった未来では、自分が過去に行くということが不可能になるかも知れない。下手をすると、自分が存在していない可能性だってあるわけだ。
だから、過去に行くことはない。すると、歴史は変わらない。自分は過去に来て、過去を変えてしまう。
というのが、いわゆる、
「タイムパラドックス」
というものである。
これは、循環する流れに、
「捻じれが生じる」
ということであり、まるで、
「メビウスの輪」
のようなものである。
それを考えると、循環の際の矛盾をいかに解決するか? ということが、問題になってくるのだった。
この解決法として浮上してきたのが、
「パラレルワールド」
という考えだ。
「宇宙には、並行して進んでいる、もう一つの空間が存在し、過去に帰って歴史を変えるというのは、パラレルワールドを変えるだけなので、いくら未来を変えても、それが、こちらの世界に影響を及ぼすことはない」
という、実に都合のいい考え方の世界であった。
「世界がもう一つ存在する」
という考え方であれば、そちらにもう一人の自分が存在するのは当たり前のことであり、
「同一時間に、同一次元で、違う世界」
という考え方だといってもいいだろう。
そういう意味では、
「異次元世界の創造」
を考えるよりも、よほど、理屈に合っているといえるのではないだろうか?
ただ、ドッペルゲンガーというのは、このパラレルワールドに存在している自分だといってもいいのかという問題があった。
まだ、異次元であれば、同じ人間が存在したとしても、理屈としては合うと考えられても、同一次元の同一時間ということであれば、いくら空間が違うといっても、その考え方は、無理がある。
つまり、そもそも、パラレルワールドという考え方に無理があるといえよう。
確かに、
「タイムパラドックス」
という問題に対しての解決法だといっても、本当にそれでいいのだろうか?
都合のいい考え方に対して、さらにその解決法を、都合よく考えていけば、
「負のスパイラル」
に入り込んでしまうのではないだろうか?
それを考えると、パラレルワールドという考え方が、どこまで信憑性のあるものかということになるのだ。
一つ言えることとして、
「パラレルワールド」
という世界は、
「本当に一つしかないのか?」
ということである。
存在する世界というのは、
「可能性の数だけある」
という考え方になると、
「マルチバース理論」
のようなものが出てくる。
そう、
「無限に限りなく近い世界」
と言えるのではないだろうか?
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