第6話 自殺菌
桃子がそう感じるようになったのは、どれくらい前からであろうか?
実は、ちょうど同じ頃からだったと思うのだが、桃子は編集者の仕事に、少しずつ疑問を感じるようになっていた。
もちろん、そんな気持ちを顔に出すようなことはしなかったが、顔に出さないのは、
「顔に出してしまうと、自分で自分を追い込みそうな気がする」
という思いからであった。
嫌だと思っていることを顔に出してしまうと、自分で自分を後ろから背中を押しているかのようで、嫌だということを認めている自分がそれこそ、嫌になると思うからだった。
確かに、自分が嫌だと思うことはいいことではないが、
「それを認める勇気を持つことも大変だ」
と感じるようになっていた。
その意識を持ち始めたのは、確か高校の時だったか、その頃友達だった女の子から、ある男の子を紹介され、
「私の彼氏」
と言われた時だった。
最初は、
「あっ、そう」
とばかりに、意識しないふりをしていた。
本当に意識していなかったといってもいいのだが、そのせいで、友達に対して、何やらいやらしさを感じるようになっていた。
「何で、わざわざ、彼氏だって、私に紹介する必要があるのよ?」
と感じるのだ。
それは、あたかも、
「自分には、彼氏がいて、いないあなたから見れば、羨ましいでしょう?」
と言わんばかりであり、マウントでも取りたいと思っているのであろうか?
と、感じさせられるのだった。
「マウントを取りたがる人は若干数いる」
ということと、
「マウントを取ろうとする方法にも、いくつかのパターンがある」
ということが、分かってきたのだ。
その友達は、彼氏を紹介してきてからというもの、何度も何度も、
「手を変え品を変え、マウントを取ろうとしている」
と感じられるようになっていたのだった。
一つ一つ、ここで列記するつもりはない。そんな細かいところまで覚えているはずもなく、それだけ昔のことを、まともに覚えているわけではないということだ。
これが夢の中であれば、その頃に戻った気分で味わうことができるのだろうが、起きている時に思い出すのは、ハッキリとした記憶ではあるが、本当に思い出したいと思うことだけしか思い出せない。
しかし、夢で見る場合は、自分にその選択権がないかのように思えるのだが、そうではなく、思い出したくないことであっても、思い出してしまうその感情は、自分の中の意識している部分を揺さぶっているかのように思えるのだった。
それだけ、意識していることに忠実になれるのであれば、いいのだが、それでも、思い出すことに意味があると思うと、やはり、
「都合のいい記憶」
というのが、夢の中のことであり、
「潜在意識のなせるわざ」
という考え方をするのも、無理もないことに思えて仕方がないのだ。
夢でも現実でも、マウントを取られるという行為は、
「嫌なものは嫌だ」
と言えるのではないだろうか?
そんな中、夢は、潜在意識という感覚があるため、夢の中で見てしまうと、
「都合よく解釈するんだろうな?」
と夢を見ている自分は感じている・
ただ、夢の中に、
「出演」
している、
「主人公としての自分」
は分かっていないのではないだろうか?
そんなことを考えていると、その時の友達に対して、実に嫌な気持ちを持っていたのは、否めない。
友達にも、こちらの嫌だと感じている感覚は伝わるものなのだろう。お互いにぎこちなくなり、結局、友達関係はフェードアウト。どちらから嫌になったという感じではなく、お互いに気まずさから逃げるように、意識しなくなっていったといっても過言ではないだろう。
「別れ方としては、一番スムーズだった」
と言えるかも知れない。
「別れ方にスムーズも何もない」
と、一刀両断で考える人もいるが、別れ方を間違えると、次の出会いに対しての、枷になってしまうことだってあるだろう。
また。ネガティブかも知れないが、
「次の出会いがうまくいかず、別れることになった時、またいろいろ考えてしまう時、一から考えなければいけなくなり、せっかくの経験が、生かされないというのは、腹立たしいことだといえるのではないだろうか?」
そんなことを考えていると、
「出会いと別れを、これからいくつも経験していくことになるんだろうな?」
と、漠然と考えてしまう。
漠然と考えるというのは、
「考えてはいるのだが、まだ経験が浅いからか、どこか、他人事のように思えて仕方がない」
と感じるからであった。
本当は、
「そんなことはない。真剣に付き合っていける人だって、そのうちにきっとできるはずだ」
と感じているのだが、それは友達というだけではなく。彼氏というものに対しても感じることだった。
そして、
「友達であれば、出会いと別れを繰り返すことになっても仕方がないが、彼氏に関しては、別れなど考えたくもない」
と思っていたのだ。
「失恋すると、ドラマやマンガのネタになるほどの、衝撃的なことを、自分が主人公として火中に身を投じなければいけない」
と感じるのだった。
当然、ドラマで俳優が演じる失恋シーンなどは、
「シナリオの効果と、俳優の演技力によって、かなり誇張されて描かれているに違いないんだろうな」
と感じるが、まさにその通りである。
どうしても、学生時代から、何かのシチュエーションを頭に思い描く時、ドラマであったり、映画の一場面を思い出すのは、無理もないことだと思っている。子供の頃から、マンガを見たり、ドラマやアニメなどの映像を見たりして育ってきたのだ。
「逆にそういうことをイメージするのは、当たり前だというわけではない」
と考えると、無意識に意識しようとしている自分が、変わっっていると言われても仕方がないように思えてくるのだ。
だが、そのおかげで、いろいろ頭の中で想像することが多くなった。
その中でも意識しているのが、
「自分に対して、何やら、独り言を言っているかのように思えていた」
ということであった。
どんな独り言なのかというと、その時々で違うので一概には言えないのだが、気が付いた時は、
「自分に何かを言い聞かせているような気がした」
という時が多かったような気がする。
たまたま、そういう感情になった時、意識してしまうのか、四六時中独り言を言っていて、自分に言い聞かせているシーンは、実は毎度のことなのかというのが、疑問ではあるが、その時の感情を支配しているのが、
「自分に言い聞かせている」
という行動であった。
「じゃあ、誰が言い行かせているのだろうか?」
もちろん、自分自身だということは分かっている。
しかし、夢の中で言い聞かせているという感覚は、一つではない。
なぜなら、
「夢の中に出てくる自分は、一人ではないからだ」
と思っているからであった。
というのも、
「まずは、夢の中の主人公である自分」
「夢を全体的に、視聴者として見ている自分」
と、少なくとも二人はいると思われる。
視線は、あくまでも、視聴者としての自分なのだが、主人公は夢の中の自分ということなので、
「自分の意思というものが、どちらの自分に影響してきているのか?」
ということが問題なのではないだろうか?
「夢の中にいる主人公である自分の目線で、夢を見ているわけではない。だが、夢を見ているという意識が、すべてではないのは、視聴者としての自分が、夢を見ているからなのであろう」
と感じるのだ。
そんな中で、友達との間での、
「自然消滅」
と言える関係消化は、結果として導かれたのが、自然消滅であって、その過程において、自分が夢の中で、一つ一つの感覚を味わってきたからだと思う。
それが、糧になり、人生の教訓となっているのではないかと思うと、
「夢というのも、ある意味必要なのではないか?」
と感じるのだ。
それが、
「客観的な目と主観的な目」
を養うということであり、その感覚が、成長するにおいて、思春期に、
「夢には、この二つがある」
ということに気付けるのではないかと感じるのだった。
子供の頃に見た夢で、今でも忘れられない夢というのも、あったりする。
そんな夢が、結構怖い夢だったりするわけだが、その怖い夢の正体について考えることは結構あった。
「何をもって、怖いというのか?」
という発想である。
正直、子供の頃に感じていた恐怖というもの、その正体を分かったのが、この思春期の時であった。
そうまさに、
「複数の自分が存在している」
ということに気づいた時、
「自分が一人だというのは当たり前のことであり、まるで石ころが目の前にあっても、それを当たり前のことだとも思わなくなるほど、意識に同化してしまっていることが、その理由なのではないか?」
と感じたのだ。
その感覚の中で、
「ドッペルゲンガー」
というものの存在を聴いた時、
「ああ、なるほど。自分の意識の中に、最初からあったんじゃないか?」
と思うのだった。
「ドッペルゲンガー」
というものは、
「もう一人の自分」
と言い換えることができる。
それは、
「世の中には、3人の自分によく似た人間がいる」
といわれる、
「よく似た人間」
ということではないのだ。
完全に、もう一人の自分ということであり、同一次元、同一時間に存在してはいけないものだと思われていたことなので、ドッペルゲンガーというものの存在は、
「許容できるものではない」
と言えるのではないだろうか?
もっと言えば、
「常識で考える範囲で、許されないということを認めるというのは、オカルトの世界に、自分が足を踏み入れている」
ということになると感じてしまうということであった。
だから、ドッペルゲンガーにはいろいろな謂れがあるが、その一つ一つに深い意味がありそうなのだ。
そんな中でも一番、伝説として強調されているのが、
「ドッペルゲンガーに逢うと、近いうちに死ぬことになる」
という、都市伝説的な話であるが、これまでに、数多くの著名人が感じてきたことだということになると、
「そんなのは、都市伝説に過ぎない」
と言って、断罪することもできないだろう。
都市伝説というものが、どういうものなのか分からないが、結構、曖昧なものが多い。
だから、証明しようにも、漠然としすぎていて、捉えどころのないものがほとんどだといってもいいだろう。
それを考えると、
「ドッペルゲンガーというものが、いかに自分の生活に忍び寄ってきているものなのか?」
と感じると、怖くなるのも、無理もないことなのかも知れない。
普段であれば、意識するようなことではない。
意識の中にあることであって、何が怖いのかが、漠然としている間は、
「まだまだ知りたい」
という好奇心が勝っていることだろう。
しかし、その一線を越えてしまうと、
「どこまで知ればいいのか?」
ということが分からなくなり、
「知ってはいけないことというのが、あるのではないか?」
と考えるようになると、もう好奇心が出張ってくる余裕はなくなってくる。
つまりは、
「これ以上知ると、命にかかわってくる」
というものがあるのではないかと思うのだ。
それは、
「誰かに殺される」
という意識の元ではなく、
「自らに、命を絶つ」
という発想からである。
自分の命を絶つということは、そこには、絶対に、
「意識の葛藤」
というものがあるはずだ。
その結界と越えて自殺するというのは、それだけ、本人の意識の他に、自殺することへの躊躇がなくならなければ、難しい。
「完全に、無意識になるか」
あるいは、
「自分の意思に関係のないところで、別の何かが暗躍しているか?」
ということではないかと思うのだ。
そこで、桃子は、自分の発想として勝手に考えたこととして、
「自殺菌」
なるものの存在であった。
これは、
「たぶん、自分だけでなく、他の人も同じような発想を抱いている人はきっといるに違いない」
ということであった。
しかし、逆に、
「実際に自殺菌なるものがあったとしても、普段が皆それぞれで違うように、自殺菌による影響も人それぞれ。リスカを繰り返す人もいれば、一思いに、電車に飛び込む人もいるのだ」
ということである。
もちろん、今までに、
「自殺」
などということを考えたことはなかった。
「いや、なかったはずだと思う」
と少しトーンダウンしていた。
これは人から聞いた話であったが、
「躁鬱症の人が自殺を考える時というのは、鬱状態の時よりも、躁状態の時の方が多くて、そういう意味で、躁状態というのは、怖いものだ」
ということであった。
というのも、
「躁状態」
というのは、
「気分がハイになっていて、何でもできるという意識があることで、つい自殺を図ってしまうような精神状態になる」
ということであった。
しかし、これも、
「背中を押す何かの存在があったればこそであり、その正体が、自殺菌なるものだと考えれば、それも分からなくもない」
と言えるだろう。
以前、インフルエンザの特効薬として使われるようになった、
「タミフル」
であるが、
「衝動的な自殺をした人の中には、タミフル服用者が多かった」
という話もあった。
「自殺を誘発する」
という副作用があると言われていた。
今では、普通に医者が処方することから、その問題は、だいぶ解決したということなのかも知れないが、要するに、
「特効薬であっても、いや、特効薬であるからこそ、強い副作用というものが存在し、それが恐ろしい結果を招く」
ということになりかねないということであった。
躁状態において、まずは、
「自殺誘発」
ということが一番怖いというのであるが、躁状態における精神状態というものが、まるで、麻薬によるハイな状態のようなものであるとすれば、扱いが難しい。
もし、それを強引に抑えようとすると、今度は一気に、鬱状態という奈落の底に叩き落すことになり、
「抑えが利かない」
ということになると、それこそ、本末転倒な結果に導かないとも限らないのである。
それを思うと、
「自殺の誘発」
というものが、どのような結果を導くのか?
それが問題なのだが、本当に自殺してしまい、
「遺書もない。差し当っての自殺の原因も見当たらない」
ということで、遺族にとっては、
「何が何か分からない」
と思う人もいるだろう。
もし、どこか陰で苛めにでもあっていた可能性もある。自殺をするほど追い込まれていいて、なるべく抑えてきたものを、躁状態になることで、自分でも分からないうちに死んでしまったということなのかも知れない。
「目が覚めれば、あの世だった」
という笑えないギャグに、凍り付いた雰囲気になってしまうことだろう。
それを思うと、
「自殺菌」
というものも、その存在だけでは、それほどの力はないが、躁状態であったり、精神的に希薄な状態で、何かに侵されるに十分な状態であれば、そのような人間を探し、誘発することに長けているとすれば、
「立派に自殺という本懐を遂げる」
ということもありなのだろう。
そういう意味で、自殺菌というのは、
「まるで死神」
のような存在ではないだろうか?
「死神と呼ばれているものの存在こそが、自殺菌なのかも知れない」
と言えるのではないだろうか?
そんな自殺菌というようなものが、実際に蔓延ってくるのかどうかは分からないが、昔から存在していて、人間の心を蝕んでいるのかも知れない。
「自殺菌」
として、一言でまとめてはいるが、ひょっとすると、いくつかの種類があって、
「人の心を不安にして、世の中のすべてが敵に見えるような菌」
あるいは、
「心細さから、幻覚を見せようとする菌」
さらには、
「自殺ということに対して、背中を押す菌」
など、いろいろな役割を持った菌が存在しているのかも知れない。
それを考えてみると、
「世の中において、自分だけが正しい」
という思い込みに付け込んできたりする菌もあるだろうが、最後には、
「自分が正しいと信じることが大切だ」
ということで、菌の侵入を防いでいる人もいるだろう。
いくら菌であっても、すべてのことにおいて、弱点のないものがあるとは言い切れないだろう。
そう考えると、
「自殺というものだけでなく、人間を不安にし、疑心暗鬼を募らせることで、犯罪者にさせるような菌があるとすれば、そっちの方が恐ろしい」
と言えるのではないだろうか?
つまりは、
「人間同士が殺し合う」
という恐ろしい地獄絵図が、目の前に迫っている。
そんなことを考えてみると、
「そんなのは、太古の昔からあることであって、その証拠に、今まで、必ず世界のどこかで戦争をやっているではないか」
と言えるのだ。
ただ、一つ言えることは、
「信じるもののために、殺し合う」
という理解不能なものもある。
解釈の違いなのだろうが、
「自分たちが信じるもののために、自爆テロもやむなし」
ということである。
「死んで花実の咲くものか」
と言われるが、自分が死ぬことで、確実にまわりを殺傷できる確率が高まるというだけで、
「どうして、生きていてはいけないのか?」
ということである。
昨日まで仲間として、一緒に活動していた人が、明日には、自爆でいないのだ。理不尽といってもいいのではなだろうか?
確かに戦争というのは、
「殺し合い」
という背景がある。
「しかし、何のための戦争なのか?」
ということを、平和ボケした我々は思うのだ。
大日本帝国において、大東亜戦争は、表向きには、
「東アジアの植民地とされた国を、欧米列強の宗主国から解放し、東アジアに、大東亜共栄圏を築いて、欧米列強に対抗できる勢力を建設する」
というものであった。
要するに、
「解放戦争」
である。
その裏にあるものを、アメリカによる、
「押し付けられた民主主義教育」
によって、
「日本は東アジアに侵略し、領土拡大を目的に、進駐している」
と言われるようになった。
しかし、実際に当時の東アジアのほとんどは、列強によって、そのすべてと言っていい国は、植民地にされていた。
だから、日本が進出したとしても、侵略というよりも、他の国の権益を脅かしているというのが正解なのだろう。
しかし、日本という国は、国家運営に対して、致命的に資源が乏しいといってもいい。だから、朝鮮や満州は、いわゆる、
「清国を含む中国、ロシアを含むソ連」
との間の、
「安全保障の観点」
から、どうしても、
「朝鮮半島、満州を勢力下に収めておいて、軍を駐留させておく必要がある」
ということである。
さらに、満州事変から、満州国建国までの計画は、そもそも、
「中国側の半日運動の激化によって、日本人に土地を売ったり、貸したりすれば、死刑になるというような差別的な法律が施行されたり、満州において、朝鮮人を含む日本人に対しての常習的な暗殺事件などと言った、究極の治安の悪さによって、情勢悪化になったことと、日本側の不作などの問題によって、人口問題が関わってきたこと」
前述にもあるような問題から起こったことであった。
これは、ある意味、
「自衛のため」
と言えるのではないだろうか?
国際連盟による、
「リットン調査団」
の調査において、
「満州国の承認はできない」
と国連決定が出たのだが、それはあくまでも、きっかけになった、
「柳条湖事件」
の調査だけしかしていない結果ではないだろか。
結局、認めると、日本の大陸進出を認めることになり、植民地を抱えている国にとっては、由々しき状態に違いない。
そんな日本という国を、日本人だから擁護しているというよりも、そもそも、裁く国の側が、自分たちの事情だけを考慮するのだから、溜まったものではない。
「植民地を抱えている国に、何をいう権利があるというのか?」
というのが、関の山である。
今でこそ、世界情勢は分かりやすくなっているのかも知れないが、さらに複雑化したというのも否めない。
今の戦争は、サイバーテロであったり、国家間の兵器による戦闘というよりも、戦闘はテロ行為のような小さなものであり、あまり、大っぴらな戦争はないと思われたが、どうもそうでもないようだ。
何と言っても、核を保有している国というのは、戦争に巻き込まれると、
「使わないことが、抑止である」
と言われていたのに、使用しないといけないような立場に追い込まれたとすれば、
「第三次世界大戦」
となってしまえば、
「数日で、世界は滅亡する」
という事態に陥ってしまうことだろう。
もし、自殺菌なるものが本当にあり、その病気に、
「世界各国首脳が掛かってしまったら」
という恐ろしい世界滅亡絵図が、現実のものとなってくるのである。
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