第5話 夢見の悪さ
体調の悪い時に、夢を見ると、その時は、本当にリアルな夢を見ていて、夢の中では、時間の辻褄もあっている気がする。
本当にリアルな夢を見ているのだが、どうもそのうちに、
「何かおかしい」
と感じると、まっさきに気づいた理由というのが、
「夢を見ているんだ」
という思いだった。
だが、それでも、何かいつもと違っている。その違いというのは、時間的な違いで、頭が痛くもなく、感覚がマヒしているということから、
「これは夢だ」
ということを感じているので、冷静に一歩下がって見ることができると思っていると、確かに、その辻褄は、記憶の中とピッタリ嵌っているのだった。
しかし、少しだけ、感覚が微妙に変わったと思った時、急に、何かが音を立てたような気がする。
その時に見た感覚は、たった今まで見ていた夢と時系列なのか、何かが違っているのだ。
辻褄が合わないのか、それとも、自分の中で考えている理屈が合わないのか、自分でも分からない。
そんな中において、
「その辻褄がどこから来るのか?」
と考えた時、
「一度目を覚ましたのではないだろうか?」
と感じるのだった。
一度感じた夢の中というのは、最近の夢の中では、確かに、
「体調の悪い時に見た夢」
だったのだ。
熱があったというわけではないが、嘔吐や吐き気、さらに頭痛という、あまり楽なものではなかったと思う。
ただ、体調が悪くなる前に、会社の仕事で、
「本来なら、数日間かかってすることなので、毎日、キリのいいところでケリをつけて帰っているので、夢の中で仕事の切れ目が気になるのか、自分で確かめようとする夢」
というのを見ることがあったという。
実際に、その夢がどんな夢なのか、毎日時系列として少しずつではあるが前に進んでいるので、進み具合などは、一番分かっている。
そう思って夢を思い出そうとすると、思い出したその瞬間というのが、
「今のことなのか、前の日のことなのか?」
ということが分からなくなっているということであった。
そのことを考えてみると、
「辻褄が合わないということではなく、狂った感覚を戻そうとしているのだから、一度意識を元に戻さないといけない」
という意識が働き、その思いが、夢を正しい、時系列に導いてくれるのではないかと感じるのであった。
体調の悪い時、特に、リアルな夢を見るというのは、
「自分の体調が悪いのも、どこか、夢に関してのリズムが合っていないからではないか?」
というようなことを感じたりしていた。
体調というものが悪いと、意識が現実に近づいてくると、せっかく夢の中に入ることで体調の悪さを忘れていたにも関わらず、
「体調が悪いという現実に、無理やり引き戻されるのではないだろうか?」
と、感じるのだった。
本来であれば、完全に覚めてしまう夢をギリギリのところで思いとどまることができるのは、
「目が覚める寸前で止まっているからではないだろうか?」
と感じるのだった。
本当に目が覚める時だけ、
「ああ、体調が悪かった」
と感じることで、今までは、寸前で夢の世界に戻っていたものが、今度は戻ることなく、現実世界に引き戻されるということを分かるのだった。
「一日のうちで、どういう時が一番うれしくて、どういう時が嫌な時だと思う?」
と聞かれた時、迷うことなく、
「嬉しい時は、気持ちのいい眠りに就ける時、嫌に感じる時というのは、目が覚めようとしている時だ」
というだろう。
それは、体調の良し悪し関係なく、隔たりのない感覚だと思うのだった。
ただ、その度合いの違いは確かにある。
「体調のいい時は、それほど気にすることはないけど、体調が悪い時ほど、眠りに就けるのが嬉しくて、現実に引き戻されることが嫌なことはない」
と言えるだろう。
眠りに就く時は、前述でも書いたが、目が覚める時に嫌な感覚になるのは、前述にあった、
「体調が悪かったと感じることで、分岐点において、また夢の世界に戻れるか? あるいは、一気に目が覚めるようにいってしまうか?」
ということの違いのように思えるのだった。
実際に、体調の悪さを感じていると、
「夢見が悪かった」
と感じることが結構ある。
「夢見の悪さ」
というのは何であろうか?
いわゆる、
「寝ている時に見ていた夢の内容が、後味の悪いものだった」
ということで意識されるものだということであった。
つまりは、
「少なくとも、夢の最期がどういうことなのかということを意識しているということであり、その夢の後味の悪さが、リアルな意識や記憶に、どのような影響を及ぼしているかということではないだろうか?」
と考えるのだった。
「後味が悪い」
というのは、
「ただ、怖い夢」
というだけのことではないのではないだろうか?
つまりは、ハッピーエンドに見えたとしても、
「本当にそうなのだろうか?」
と感じさせるとすれば、どういうことであろう?
「自分のまわりの人はハッピーに終わるかも知れないが、自分に近しい人の中に、ハッピーでは済まされないというような気持ちになる人がいたとすれば、自分の中ではハッピーではない」
ということであろう。
それを考えると、
「あくまでも、事情は自分の目からしか見えていないことなので、そのまま進むことが、すべていい方に行くとは限らない」
ということであった。
ただ、それが夢だということになると、
「都合よく考えてしまうのが夢というものだ」
と考えるようになり、ハッピーな夢でも、考え方によっては、その都合よく考えることで、後味の悪さを残すのではないかということになるのだった。
そう考えてしまうと、夢見の悪さというものが、いかに夢から見た現実の世界に、悪影響を及ぼすのではないかと考えられるのではないだろうか?
体調の悪い時は、自分の身体を正常に治そうと、身体が、必死になって戦っている。
それは、頭が働いてのことなので、夢であっても、すべてがリアルな意識がよみがえってきて、
「何とか、辻褄が合っている」
というような、ハッピーな形にしようと考える。
しかし、その中で、ふと気を抜いてしまったりすると、夢の中での辻褄が合わなくなり、それを合わせようとして、リアルな現実に戻ろうとする。
しかも、戻ってしまうと、その間に体調が悪かったことを思い出し、
「このまま戻ってはいけない」
と感じたことで、寸でのところで、また夢の世界に戻ろうとする。
それが、夢と現実の狭間を意識した時の、
「具合が悪い時」
の感覚であり、
夢と現実の狭間のその距離について、
「全然距離を感じない」
という時と、
「宇宙の果てまでの距離のような、とてつもない距離を感じる」
という両極端なことがあるのだった。
夢を見た時というものは、
「意識をしていないつもりでいても、夢と現実の狭間の距離というものを、意識しているものである」
と感じていた。
「体調の良し悪しで、どれだけ違うのか?」
ということを感じさせられるが、
「体調の悪い時ほど、距離が近いような気がするのは、圧迫される感覚が、体調の悪さに結びついてくるからではないか?」
と感じるのだ。
体調のいい時というのは、
「却って、距離が遠くても、辿り着けるような気がする。体調が悪い時は、まるで、足枷がついているかのように感じられるのに、体調のいい時は、まるで、背中に羽根でも生えて、飛んで行っているような気がする」
ということからであった。
体調の良し悪しが、
「夢見の悪さ」
であったり、
「現実と夢との距離」
という感覚であったり、それを目が覚めるまでの間に感じさせるようであった。
その日の、桃子は確かに、
「体調が悪かった」
と思っていた。
しかし、目を覚ましてみると、スッキリとしている。
眠っている間に復活したというのであれば、それはそれでいいことなのだが、どうやら、そうではないようだ。
眠ろうとした時も体調が悪かったような気がしないのに、一体どういうことなのだろう?
その時に感じたのは、
「体調が悪いという夢を見ている」
という夢を見ていたのではないか?
ということであった。
つまりは、合わせ鏡かマトリョシカ人形のように、
「中が入れ子になっている」
というような感覚である。
桃子が見た今回の夢は、まったく関係のないと思えるようなものが繋がっていって。一つにヒモになるような感じで、しかも、入り口と出口は、まったく関係のないものであったのだ。
要するに、
「風邪が拭けば桶屋が儲かる」
という言葉であったり、
「わらしべ長者」
のようなお話にイメージとしては近いものだっただろう。
まったく繋がってもいないような話が、どこを通ってか、最後には一つになるというような感じだったかも知れない。
だか、その途中で、何度か、夢から覚めようとしたのを思い出したのだ。
その時の感覚として、夢から覚めた感覚があるが、すぐに眠りに就いた。そのおかげで、目を一瞬でも覚ましたという意識が曖昧になっていて。目を覚ましたということを自分でも覚えていない。
「どんどん、繋がっていく夢は。わらしべ長者のように、必ず大きくなっていくというものではない。
だから、途中で急に小さくなったり、価値が落ちたりしたものもあったので、そこで一瞬不安になるのだ。
その時に、
「目がハッキリ覚めてしまっていれば、二度と同じ夢を見ることはできない」
と感じたのも事実である。
実際には、夢の中で、
「目が覚めた」
という夢を見ているわけで、それが本当であれば、
「これ以上、目を覚ましてはいけない」
という部分があるはずではないだろうか?
それを考えると、
「目が覚めてくるにしたがって、よみがえる現実世界」
を飛び越してみれば、そこに見えるものは、本当の現実世界ではないはずなので、そこにあるものは、
「ギャップ」
なのか、あるいは、
「前後がしっかりしているわりには、意識が憶えていない」
というような世界なのか、考えさせられてしまう。
もちろん、夢の続きを見ていたいという意識があるのでそれ以上目を覚まさないようにしているが、
ただ、夢の続きを見ていたいというよりも、
「夢の中と現実に戻った世界のギャップ」
というものを、見逃したくないという感覚から来ているのではないだろうか?
そんな風に考えると、
「ここでは、絶対に目を覚ましたくないと思うような夢を見ているのであって、このわらしべ長者のような話しは、なるほど、意識を妨げるものではないといえるだろう」
と思うのだった。
わらしべ長者の話よりも、実に簡単な、
「出世ストーリー」
が完成するようなストーリーだと思えるのだった。
桃子は、今回の夢で、自分の仕事と、作家とが入れ替わっているようだった。普段は、作家を、
「先生、先生」
といって、おだてることで、作品を完成させるお手伝いをする。
しかし、作家がなかなか制作に行き詰っている時、逃げ出したくなるのを、何とか抑えながら、手綱を引いて、うまくコントロールする必要があった。
そもそもは、
「自分が作家になりたい」
などという思いを持っていたわけでもない。
今の仕事の方が、作家の先生よりも立場的には、気が楽だと思っていた。
実際に、そう思って今までは、
「縁の下の力持ち」
と演じてきた。
ただ、今から思うのは、
「どうして、この業界しか、自分にとっての選択肢はなかったのだろう?」
と感じるのだ。
他の業種であれば、もっと自分が目立てるようなところもあっただろうし、他に才能という可能性もあったかも知れない。
それなのに、なぜ、この業界しかなかったのかというと、一つは、
「本の製作に携わる仕事がしたかった」
という思いがあったということ、もう一つは、
「他の業種でやりたいと思えるようなところ、ピンとくる業種が、自分の中になかったところ」
というのが、この業界に骨をうずめる理由であろう。
実際に、いくつかの仕事を考えてみたこともあったが、それはあくまでも、
「出版業界のすべり止め」
というつもりだった。
それだけ、自分の中で出版業界は、花形であり、他に選択肢がないといえるほどだったのだ。
実際に出版業界に入ることができた。編集の仕事、企画の仕事、いろいろあるが、編集部にて、作家を担当し、原稿を貰ってきて、そこから先、入稿したりいろいろな仕事があるのも分かっていたので、やりがいを持ってこの仕事に当たっている。
今のところ、嫌になることはなかった。たまに、作家の先生のわがままに、ウンザリ来ることもあったが、毎回毎回わがままをいうわけではないので、嫌な感じはしなかったのだ。
以前、薬品業界の営業、プロパーの仕事というものの話を聴いたことがあった。
大学時代の友達が、薬品会社に入り、プロパーの仕事に就いた。その人は、彼氏ではなく、
「男子の友達の中で、一番親密な人だった」
ということになるのだが、お互いに恋愛感情を持つことがなかったことが、
「男女間の親友」
とでもいえるような関係で、他の人とは早く連絡が切れたのに、その人だけは、今でも交流があったのだ。
その人は、すでに会社を辞めていて、他の会社に転職した。あれだけ、
「薬品会社一本に絞って就活をする」
と言っていた人間が、会社を辞める時は、
「薬品会社だけは、もうまっぴらごめんだ」
と言っていたのだ。
かなり精神的に病んでしまっているようで、再就職までにも、しばらく病んだ気持ちを癒すために期間を費やしたほどだ。彼に限らず、
「医者を相手にするプロパーという仕事は、ロクなものではない」
と言われている。
というのも、それだけ、
「医者という人種から、人間扱いされていない」
というもので、なるほど、入社して1年以内に、新入社員の2,3割しか残らないというほどひどい世界だということなのだろう。
ウワサには聞いていたが、あれだけ、そんな話も分かったうえでプロパーになった人が、その他大勢と一緒に、すぐに辞めてしまうことになるとは、何とも、恐ろしい世界であろうか。
スポーツ推薦で入学し、ケガか何かをしたために、部活ができなくなり、学費免除も打ち切りになり、ゴミクズ同然とされ、退学していくしかない人たちを思い出すほどであった。
高校中退で、それまで野球しかやってこなかったので、普通に学校にいても、勉強にはついてこれない。
元々、高校受験もなく、
「スポーツ推薦」
昔でいえば、
「野球留学」
などという形え入った、言ってみれば、学力はそっちのけで、野球のレベルでのお誘いから入った学校なので、それまでのすべての、
「優先」
が、ないことになる。
つまり、
「成績が悪くても、野球で活躍できれば、それで進級も卒業も保証されるのだが、野球で落ちこぼれたり、あるいは、ケガで野球ができなくなってしまったりしても、それらの優遇は、まったくない。他の生徒と同じ成績重視となるのだ」
だから、当然風当たりも強い。
今までは、學校内でも、スター扱いされていたかも知れないが、今度は、ただの一生徒だ。
ただ、何が一番悔しいのかということになると、やはり、野球ができなくなり、目の前で野球ができていて、一歩一歩スターの階段を上がっている連中を、見たくもないのに、目に飛び込んでくる環境にいることであろう。
そうなると、學校にも行けなくなり、後は坂道を転がり落ちるように落ちていくしかないということになるのだ。
出版社であったり、作家の道も、似たようなものだ。実際はもっと厳しいのかも知れない。
土俵が違うので、比較にはならないかも知れないが、話をすれば、お互いに分かるところもあるに違いない。
素人が作家としてデビューするのに、一番の手っ取り早い道というと、
「文学賞や新人賞に入選すること」
というのが、一番であろう。
これはマンガの世界でも同じことで、昔だったら、10もなかったものが、今ではいろいろなところでコンクールなどが行われているので、それだけ門は広くなったことだろう。
しかし、問題はここからである。入賞作は確かにいいかも知れないが、実は問題は次回作にある。
作家の中には、
「入賞するために、必死になって書いてきて、これ以上ないという作品を書き上げたところで、すぐに次回作などできるわけはない」
と思っている人もいるだろう。
そういう人が、実際に次回作をもとめられ、プレッシャーから書けなくなってしまい、失踪してしまうということが結構あったりするのだ。
また、次回作を仕上げることができたとしても、求められているのは、
「受賞作よりも、さらに優秀な作品」
ということなので、実際に発表して売れ行きを見ると。
「まったく売れない」
ということになる。
何しろ、年間にいくつの文学賞があるというのか、そして、どれだけの人間がデビューするというのか、作家として生き残っていけるのは、ごくわずかの人たちで、一度デビューしても、発表作品はほとんどないまま、かといって、他の職に転職することもできないので、出版業界にしがみつく。
そうなると、
「文章塾の講師」
だったり、文学新人賞で、一次審査の時の、
「読む数で勝負」
と言われる、一種の、
「下読みのプロ」
と呼ばれるような、小説家とはほど遠い仕事で食いつなぐしかないという状態になる。
「何のために小説家になろうと思ったのか?」
ということである。
そういうのを聴いていると、
「作家になりたい」
というのは、本当に甘いものではないと思い知らされるのであった。
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