第4話 夢の正体
そんな時代において、今回体調を壊したのは、里村桃子という女性だった。彼女は、出版社に勤める編集者で、今年、33歳になっていた。一人暮らしをしていて、まだ独身だった。
彼氏は、3年前から付き合っている人がいるが、お互いに結婚を口にしない関係ということもあって、まわりの二人の関係を知っている人も、
「あの二人は、結婚しないかも知れない」
という意見の方が多かったのではないだろうか。
「最初から、結婚する意思があるようには見えないんだよな」
という人もいるくらい、二人の関係はドライに見えたようだ。
相手の男というのは、彼女の担当している作家の人で、そこまで有名というわけでもなく、ぱっと見、女にモテるというような男でもなく、まったく目立ったところのない、
「どこにでもいる男」
というところであった。
しかも、男の方が年下だったようだ。
「頼りない男性を支える大人の女性」
という感じだったのだろうが、彼女はそんな、
「ダメンズな男に引っかかるような女性ではない」
という話もあった。
付き合い始めたきっかけがどこにあったのか分からないが、
「3年経っても結婚しない」
いや、
「よくそんな男と3年も付き合っていられるものだ」
ということで、二人の関係は、知っている人から見れば、異様に見えたことだろう。
しかし、二人からは、何も聞かれることはない。
彼女から、
「別れたい」
などという話を聴くこともなく、見ている分には、まったく波風も立っている様子もなく、どちらかというと、
「惰性で付き合っているのではないか?」
としか見えないほどであったのだ。
もちろん、男女の関係もあるのは当たり前のことで、相手の男が、先に言い寄ってきたという感じをまわりからは感じられないので、
「誘惑したとすれば、桃子さんの方からなのかも知れないわね」
ということなのであろう。
桃子を知る人から見れば、桃子も、
「そんなに軽い女性ではない」
という。
だからといって、
「好きになった人がいれば、自分から行くこともあるんじゃないかしら?」
という一面も感じていて、要するに、相手のよって、どちらともいえない雰囲気を持っているということでもあった。
それだけ、分かりにくい女性だということであろうか。
確かに、友達もそんなにいるわけでもない。友達といっても、出版社に入ってから知り合った人ばかりで、学生時代の友達とは、卒業後、それぞれ忙しくなってからというもの、連絡を取り合うこともなくなっていたので、一人で孤立した時期もあったようだ。
特に入社、3,4年目という最初の仕事が面白いと思える時期、一人だったのは、彼女が自由に感じることができるという意味で、
「孤独も悪くない」
と思える時期だった。
だから、男っ気がなくても、まったく寂しそうに見えなかった。
それどころか、楽しそうにイキイキした表情を見せていた彼女に、彼氏なんか邪魔なんじゃないだろうか?
と、皆思っていたであろう時代を通り過ぎ、いつの間にか男と付き合っているのを知ると、
「ああ、彼女も人並みに彼氏が欲しかったんだ」
と、感じたものだった。
ただ、そのことで、彼女に対してがっかりしたということではない。あくまでも、
「彼女も女だったんだ」
と、いまさらながらに感じただけのことだったのだ。
彼氏ができたことを隠していたわけでもないし、今も別にまわりにバレないようにしているわけもない。
男の方も、同じように、隠そうという雰囲気はなく、普通のカップルといってもいいだろう。
だが、オープンな付き合いだったはずなのに、今でも、彼女に彼氏がいたということをいまさらながらに知って、
「えっ、そうだったんだ?」
と、
「いかにも、信じられない」
という様子を見せる人もいるほどだった。
もっとも、そんな人たちというのは、中年以上の男性がほとんどで、それ以外の人が、彼女が付き合っていることを知っても、
「ああ、そう」
という程度で終っていただろう。
もっとも、それが普通の反応であって、
「誰と誰がつき合おうが、俺には関係ない」
というのが、普通のリアクションなのではないだろうか?
ただ、男性のほとんどが、このリアクションということは、彼女に対して、男性陣は、彼女を好きだったという人がいないともいえるのではないだろうか?
確かに、彼女のことを大好きになるという雰囲気の男性がいるわけではない。ちょっとは気になった男性がいるにはいただろうが、
「真剣に付き合ってみたい」
と感じるような人は、きっといなかったのだろう。
そんな彼女は、外見から、
「気の強そうな女性」
と見えたことだろう。
といっても、あの年齢で、編集者をしているような女性であれば、気が強そうにみられるのも無理もないことで、それも仕方のないことだろう。
実際に、彼女の性格は、
「男勝り」
なところもあり、その性格が、明暗を分けることもあったようだ。
強気で行って、担当作家のやる気を出させることに成功したこともあれば、強気が禍して、作家の中には、
「担当を変えてほしい」
と、編集部に直訴して、プライドをズタズタにされながらも、泣く泣く変わったことも過去にはあった。
それも最初の頃のことであり、もし、今同じように、自分を変えてほしいなどという作家がいたとすれば、
「こっちから、あんたなんて願い下げだわ。どうせあんたが大成することなんか、永久にないでしょうからね」
という思いを持ち、
「この作家も長くないわね」
と嘯いていることも多かった。
実際に、担当から、桃子を変えてほしいといってきた作家のほとんどは、自分から違う担当に変わってすぐに、作家を廃業する人が多かった。何があったのか分からないが、結果として、
「彼女と一緒だった方がよかったのでは?」
と言われることが多かったようだ。
そういう意味で、
「担当を変えてほしい」
といってきた作家に対しては、一応言われたとおりにするようにしていたが、出版社としても、
「この作家も長くないな」
という見切りを早くもつけていて、実際に、いつもの判で押したようなパターンになるのだから、おかしなものだったのだ。
そんな桃子も、今年で33歳、編集者生活10年以上になっていたのだった。
ベテランというほどではないが、今では、会社からも、作家からも一定の安心感を得ているようだ。
「彼女に任せておけば大丈夫でしょう」
ということである。
前から、そんな雰囲気はあったが、昨夏から、
「担当を変えてほしい」
という意見が多かったのは、彼女だったことから、
「なかなか作家とのコミュニケーションの取り方がうまく行っていないのではないだろうか?」
ということで、全面的な信頼には至っていなかった。
それでも、作家からも、会社からも、
「一定の評価」
が得られるようになると、何となくの余裕が感じられるようになり、
「どうしてなんだろう?」
というところで、
「作家と付き合っている」
ということになれば、
「人間が丸くなったことで、男ができたのかな?」
と思う人もいただろう。
ただ、
「男ができたから、人間が丸くなった」
と思う人は少なかった。
彼女の場合は、男ができるくらいで、性格が変わったり、雰囲気が変わるようなところはないと思われていたことで、そういう感覚が定着していたのだろう。だから、
「気が強い」
という印象を一様に彼女のまわりの人は思っていたようで、どこか彼女の中には、
「怖いもの知らず」
という雰囲気もあり、それは20代の頃であれば、
「まだまだ経験不足なことへの皮肉な言い方」
という感覚であったが、今の場合は、
「心に余裕ができたことで、強気が、少し増してきたからなのかも知れない」
と思われるようになったのだった。
彼女が、その作家と付き合うようになって3年ということは、ちょうど、例の、
「世界的なパンデミック」
が流行り出してからのことだった。
最初の一年目は、
「なるべく人と接触しない」
ということで、やり取りもリモートで行い、原稿もメールなどで行われていた。
だから、まさかこの時期に、しかも、桃子が男性と付き合始めるなど、誰も想像もしていなかったことだろう。
だが、桃子とすれば、リモートが却ってよかったのかも知れない。
それは、桃子にだけ言えることではなく、作家側にも言えることであった。
普段は、桃子も作家の側も、お互いに面と向かっているが、正面切って見つめ合うようなことはなかった。
作家の方も、どこか怖がっている雰囲気も否めなく、その雰囲気が分かるだけに、桃子の方でも、遠慮になるのか、気遣いになるのか、それとも、毛嫌いからになるのか、自分から相手を見つめるようなことはしなかった。
だから、リモートとなって、パソコンのモニター越しであれば、遠慮なく正面を見ることができたし、お互いの話も、まともに見つめ合わないとできないということもあったのだろう。
そういう意味では、
「相性が合わない人とも商談しなければいけない」
という人にとっては、リモートでの商談など、面倒臭くてやりにくいのは、他の人と変わりはないのだろうが、面と向かえるという点では、実にありがたいといってもよかったのだろう。
そういう意味で、二人は、そこで、実際の距離は遠くても、心の距離は縮まったのかも知れない。
そんな桃子は、二年目くらいから、リモートも徐々に解除され、普通の商談ができるようになると、お互いに、今までリモートがほとんどだったこともあって、普通に面と向かうと、お互いに照れた気分になった。
すると、桃子は、
「私にこんな乙女のような感覚があったんだわ」
という思いがあったのは事実だということと、相手の彼が、自分以上に照れているのを見て、
「ここまで、私のことを気にしてくれていたんだ」
と感じ、感無量になっていた。
彼女が彼に恋心を抱いたとすれば、この時だったのではないだろうか?
それを思うと、
「私、初めて男の人を好きになったのかも知れない」
と感じた。
学生時代を通して、男性と付き合ったことはなかった。
大学に入った時は、
「4年間もあるんだから、その間に、男の一人や二人」
と勝手に、妄想していたのだが、実際には、一人も付き合った男性はいなかった。
そもそも、男性と付き合うということに憧れがあったわけではない。
「付き合うに値する相手がいれば、付き合えばいいんだ」
という程度に思っていた。
そもそも、桃子は自分の体型にも容姿にも、コンプレックスを感じるようなところはなく、
「普通にモテるはず」
というほどに、自惚れと言っていいほどのものはあった。
もっとも、女性というのは、たいていの人がそれくらいの自負はあるというもので、彼女もその一人だった。
実際にモテたりはしなかったが、諦めのようなものはなかった。それよりも、
「自分にふさわしいと思える男性もいない」
ということで、
「別に焦ることはない」
と思うのだった。
その思いが成就したのが、30歳になってからというのは、本人としても、さすがに、
「遅かった」
とは思ったが、だからといって、
「別に悪いことだ」
という感覚もなかった。
自然とそういう関係になる相手が現れたということで、それはそれで、いいことだと思ったのだ。
この3年間の間で、本当の恋人気分を味わったのは、それほど長くはなかった。付き合い始めてから、半年くらいであろうか。
「それくらいは普通じゃない?」
と言われるかも知れないが、これまで30年、男性との関係がまったくなく、しかも、相手は自分の担当作家。
本人は隠すつもりはなかったが、少しは気を遣うところは普通にあった。そういう意味で、蜜月と言われるような時期が半年というのは、桃子の中では、
「短いじゃないかな?」
と感じさせるものであった。
最近では、実際に逢うことも少なくなった。もちろん、担当作家として、原稿の話などで寄ることはあったが、お互いに愛し合ったりということは、なくなっていたのだった。
どちらかが求めるということもなかったが、別に、
「倦怠期」
だとも思っているわけではなかった。
「こんなものなんだろうか?」
と、桃子は思ったが、相手の方が、何を考えているのか分からないと思えてきて、そこに距離を感じると、いつの間にか結界のようになって、それ以上、向こうにはいけなくなった気がした。
「これで付き合っているといえるのだろうか?」
と桃子は感じるようになってきたのだが、
「いや、付き合っているんだ」
と、根拠のない思いを抱いているということも分かっていた。
だから、最近の桃子は、何にでもオープンになり、隠し事のようなものはまったく見られない。
だが、却ってそれが、まわりに別のイメージを与えてしまい、ミステリアスな雰囲気を醸し出させているようだったのだ。
そんな桃子が、最近になって、心細くなっているのを、まわりの誰かが気づいただろうか?
何となく、雰囲気的に、変わってきて、むしろ、
「大人の女の魅力」
そう、
「妖艶な雰囲気」
を醸し出しているようだった。
それは、ある意味、
「心細く思っているのに、それを知られたくないという自衛の本能から、殻のようなものを作ってしまい、それが、まわりの人に、大人の女の妖艶さという感覚に繋がっていたのではないだろうか?」
と感じさせるのであった。
そんなことを考えるようになると、ここ最近、定期的にであるが、熱が出るようになってきた。
といっても、ちょっとした微熱であり、まったく仕事に支障があるというわけでもなく、微熱が出るというというのは、仕事が終わって、部屋に帰ってからしばらくしてのことであった。
「週に一度くらいの割合かしら?」
と思っていたが、実際には、2回はある計算になるようだった。
きついという感じがない分、精神的に、何かがポッカリと開いてしまっているかのように感じるのだった。
今年になってから、自分でも、
「週に2回くらい」
という自覚が出てきて、そう思うと今度は、自分の中に、何らかの心細さのようなものが芽生えてきたということに気づくのだった。
その心細さが、最近は顕著になってくると、
「心細くなってきたから、微熱が出るようになったのか?」
あるいは、
「微熱が出るから心細くなったのか?」
というどちらなのかということを考えてみると、本人としては、
「どちらともいえない」
としか思えなかったのだ。
仕事も、少し休み気味になってきた。
最近までは、まったく仕事に影響がなかったのに、熱が出た時に会社にいくと、午前中までは何とか持っても、午後になって仕事をしていると、急性の頭痛に襲われることが結構あった。
吐き気を催してきて、それが収まってくると、激しい頭痛に襲われる。最初は気づいていなかった会社の人たちも、みるみるうちに顔色が悪くなる桃子に、
「もう今日は帰っていいよ」
といって、帰らせる日々が続き、それでも、なかなかよくならないことで、頭痛があった時は、最初から休むようにして、それでもひどい時は、病院に行くようにした。
「偏頭痛」
ということで、女性にはありがちなので、処方した薬を飲みながら、様子を見るということになったが、先生も言っていたように、
「慢性的なものだから」
ということで、
「決して無理はしないように」
と言われたことを上司に話し、無理をさせないよう、上司も、時々顔色を見るようにしていた。
だから、ここ最近は、月に、2,3度、休むことがあった。
女性の身体はデリケートなので、そのあたりの休みは取りやすいようにと、会社からもお達しがあったので、それにしたがって、上司も処理をしているというところであろう。
休みをもらった時、そのままひどくならないこともあったが、結構な確率で、
「やはり、きつくなってきた」
ということで、微熱が出たり、身体の節々が痛むこともあった。
症状としては、風邪に似ているが、正直まったく違った感覚だ。
その時に、一気に心細くなってくる。
「誰かに看病されたいな」
というくらいに感じていたのである。
体調が悪くなる時というのは、自分でも分かるもので、特に、意識が遠のいていく瞬間が分かったりする。
「これから眠りに入るんだ」
という寝落ちの瞬間は、普通の時であれば、実に気持ちのいいものである。
しかし、体調の悪い時でも悪いなりに、気持ちがいいものだ。その思いを感じるのは、
「体調がよくても悪くても、眠りに入ってしまうと同じだ」
ということだからである。
体調がいい時と悪い時、どちらも、眠りに就く時は、スーッとした気持ちになれる。
ただ、体調の悪い時というのは、そんな心境になれるまでには、時間が掛かる。ひょっとすると、タイミングの問題なのかも知れない。
それを考えると、逆に、
「体調が悪い時に寝付く時の方が、よっぽど気持ちのよい状況なのかも知れない」
と感じるのだ。
桃子も、実際に眠りに就くまでに、どれだけの時間が掛かったのか、自分でも分からないくらいだ。
しかし、一度眠りに就いてしまえば、起きてから思い出そうとすると、きつくて眠れなかった意識はある程度消えている。
体調の悪さがそのままでも、そこは変わらなかったのである。
眠っている間には、夢を見ていたはずで、その前の記憶というと、かなり昔のように思えるはずなので、その間、夢の中で消えているということなのだろうか?
そんなことを考えていると、
「夢を見ていた記憶がある時とない時、どのように違うということなのだろうか?」
と考えると、いろいろな思いが頭を巡ってくるのだった。
夢というものは、いろいろ言われていたりする。
「夢というものは、目が覚める寸前の、数秒の間に、そのすべてを見るものだ」
という話も聞いたことがある。
「夢では、その続きを見ることは絶対にできない」
という話もある。
これに関しては、
「夢は憶えていないだけで、最後まで見ているものであり、一度見た夢を、再度見るということは不可能なんだ」
というような話をしていた人がいたが、
「本当なのだろうか?」
と感じたほどだ。
確かに、
「夢というのは、いつも、ちょうどというところで目を覚ましてしまう」
ということを聞いたし、いつも感じていた。
実際に、これは、怖い夢でも楽しい夢でも同じことで、怖い夢であれば、
「ああ、よかった」
と感じ、楽しい夢であれば、
「ああ、もっと見て居たかったな」
と感じるのだ。
ただ、このどちらも、本当は見ていて、目が覚めた時、いや、目が覚める段階で、忘れてしまっているだけだということであれば、夢の続きを見るということはできないだろう。
自分でも、
「見たい」
という変な意識を持ってしまえば、
「いくら夢でもできるわけはない」
と思うことで、実際に、見れるわけなどないのだ。
ということは、
「夢というのは、意識の中で、自分が夢を見ているという意識を持っているものである」
ということになるのではないか。
例えば、
「夢だったら、空も飛ぶことができる」
と思っていたとして、実際に夢で見ると、
「空を飛ぶことはできないが、膝くらいの高さを浮遊しているところを想像することはできる」
というものである。
これは、自分が、夢を見ているということを理解しているうえで、
「夢だから、空だって飛べる」
という意識があったとしても、その意識の隣には、通常の起きている自分、常識的な判断のできる自分の脳が存在していて、その脳が考えた時、
「人間は、空を飛ぶことはできない」
という、通常時の意識が邪魔をして、夢の中だということで、
「せめて、宙に浮くということだけはできる」
という、一種の、
「辻褄合わせ」
のようなものが考えられるということであった。
たぶん、これらの夢というと、体調のいい時に見る夢のような気がする。体調が悪い時に見る夢というのは、
「明らかに体調のいい時とは、違うものだ」
と考えるようになっていたのである。
それは、
「リアルな夢」
だったのだ。
それだけ、
「狭い範囲の夢しか見られない」
ということなのかも知れないが、だからこそ、
「今の自分の体調が悪い」
ということが分かっているということになるのだろう。
夢の中において、寂しさを感じる時があるが、それこそ、リアルな感情ではないだろうか。普段の時に同じ夢を見たとしても、
「寂しい」
などと、決して考えることはないように思うのだった。
「寂しさ」
というのが、どういうものなのかということを、いかに感じればいいのか、そのことを夢の中で感じているのだとすれば、それは、
「体調の悪い時に見ている夢だった」
といってもいいだろう。
つまり、体調の悪い時のリアルさというのは、何かを感じた時、その一歩先が、目が覚めている時と、酷似の発想をしている時だということになるのだと思えてならなかった。
ただ、体調が悪いという意識はないのだ。夢も時系列でうまくいっている夢を見ているのだが、
「現実には、こんなにうまくいくはずなどない」
と思うようなことも、ある程度まで許容範囲として感じるのだった。
その思いを、
「夢の中」
ゆえに感じることができない。
だから、うまくいっていることを夢とも感じずに、実際にリアルな感覚で、その流れに心地よさを感じるのだろう。
しかし、どこかで違和感を感じる。
そうなると、一気に感情が冷めていくと、急に現実に引き戻され、夢とのギャップに、
「あれ?」
と感じるようになるのだ。
夢というのは、前述のように、
「目が覚める直前の数秒で見るものだ」
と言われているが、ちょっと見れば、
「そんなバカな」
と感じるであろうが、冷静に考えてみると、
「それもありえなくもない」
と感じるのであった。
というのも、
「夢から覚めていく間、意識できる時とできない時がある、どちらかというと、体調が悪い時、あるいは、いい夢を見ていたような気がする時に限ってみる」
というような気がするのだ。
目が覚めるにしたがって、時間の感覚が戻ってくる。
夢の中でも時間の感覚は分かっているような気がするのだが、その感覚は、錯覚にしか過ぎないという思いであった。
どんどんと目が覚めてくると、それまで覚えていた夢の中のことが、何やら、どこかの箱の中に収められているような気がしてきた。それを、
「記憶の封印」
というのではないかと、思うのだった。
そして封印されていく時、夢を思い出しながら、まるで確認をしているかのように、格納している。
その時に、格納する範囲に限りがあるので、できるだけ、凝縮してしまうのが、当たり前ではないだろうか。そうなると、一度夢を思い出すためには、現実の時間が必要になる。現実の時間にも限度があるので、思い出すタイミングを増やして、短い範囲で思い出そうとするだろう。
そうなると、思い出した夢は小さなものなので、何度も思い出さなければいけなくなる。それを何とかするために、
「記憶の封印において、現実の意識の中に、夢を思い出すためのスペースを持つという空間が存在しているのだろう」
と考えられる。
夢を思い出そうとしてできるものと、できないものがあるが、それは、きっと、
「すべての夢を現実的に格納しているわけではない」
と言えるからではないだろうか。
どんなに思い出そうとしても、
「記憶の封印」
の中になければ、ない袖は振れないということになるに違いない。
思い出そうとして夢の中で、思い出せなかった夢がどういう夢かというと、そのほとんどが、
「楽しかった夢で、また見てみたい」
と感じる夢ではないか?
ということであった。
思い出そうとして思い出せない夢のほとんどが、
「もう一度見たい」
と思うような楽しい夢だったからである。
なぜそれだけ封印されていないのか、その理由までは分からないが、
「他にも同じように、すべてが封印されているわけではないのかも知れない」
と感じた。
理由は簡単で、
「それだけの容量がない」
ということで、
「限界がある」
ということに相違ないのだ。
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