第2話 限界
自信過剰な人間でも、そうではない人間でも、人生のうちで何回か、自分が感じている自分よりも、能力が高くなっていると感じる時がある。
特に、この20代前半は、ほとんどの人が一度は感じるものではないかと思うのだが、思い過ごしであろうか。
ただ、その時に、自分の能力が、先の自分を予見してしまって、さらに、自分の将来が見えてくるようになると、それをどこかで否定する自分がいるが、その否定する大義名分として、
「世の中の限界が見えてきた」
と感じるものであろう。
世の中の限界というものをいかに感じるのかというと、
「限界というものを感じた時、何に対して嫌なのかということを感じるとしよう。その時に、自分だけは限界がないと感じるだろう。そう思うことが、自分を予見してしまったことを否定する唯一の他義名分ではないか?」
と感じるのだった。
それを考えていると、
「世の中の限界と、自分の限界。天秤にかけると、どっちが思いのだろう?」
と考えてしまう。
普通なら、答えは決まっているはずなのに、青年期における、ある意味、
「絶頂期」
ともいえる時期を過ごしていると、そんなことすら分からなくなってしまうのだ。
それだけ、普段から見えている自分の気持ちが、世の中全体を、
「果てしなく大きなものだ」
という、無限感覚を持っているはずで、実際にそれが、
「恐怖というものの正体だ」
と分かってもいるくせに、認めたくないというところがあるのであった。
だから、モテるということに、
「焦り」
を感じるのも、恐怖に対して感じるものではなく、
「無限に広がっている世界であるにも関わらず、時間的な限界は絶対にある」
という感覚である。
そういう意味で、
「人間の、生き死に」
というものも、大いなる恐怖の一つではないだろうか?
どんなに世の中が無限に続いていこうとも、一人の人間には、
「寿命」
というものがあるのだ。
普通に考えて、
「100年以上生きる人間はほとんどいない」
ということになる。
ほとんどの人が、80歳前後というところであろうか。
「気が付けば、都市を取っていた」
というのは、あるあるではないだろうか。
ただ、20代前半くらいまでは、時間の進みが、まるで鈍重な鉛のようなものに感じられ、
「早く大人になりたい」
と思っても、いつまでも子供のままで。しかも、その途中には、思春期という、
「大人になるための期間を要している」
ということになる。
思春期の間にも、人間は、悩みや不安が絶えないものだ。
「ひょっとすると、一番最初に訪れる。理不尽なこと、自分では、どうすることのできないことというものを知る時期なのではないか?」
と感じるのだった。
というのも、悩みや不安というものが、子供の頃、つまり種春季前では、
「理解できないもの」
と最初から考えている。
大人などが、
「子供には分からない大人の世界」
というものを、植え付けてきているような気がするからだ。
だから子供も、
「分からなくてもいいんだ」
と思うようになり、分からないことに正当な理由を勝手に植え付けることで、納得させているところがあったりする。
だから、小学生時代に、不安や理不尽さを感じても、
「しょせんは、今だけのこと、もう少し大人になれば、そんなことはなくなるんだ」
と考えていたことだろう。
特に、大人は、
「人から叱られることはない」
と勝手に思い込んでいるもので、自分が親から怒られるようなこともなく、顔が真っ赤になって恥ずかしかったり、悔しかったりする思いが出てこないことを感じることであろう。
だが、それは勝手な思い込みであり、大人の世界は大人の世界で辛いところがたくさんある。
親などは、
「そんな姿を子供に見せたくない」
と思い、我慢をしているのだ。
そのことが自分で分かり。理解できるようになるまでに、どれほどの時間が掛かるというものだろうか。
そんなことを考えていると、思春期に突入する。
身体も心も、
「大人になる」
ということのための準備をする期間である。
おぼろげながら、本人もそのことは分かっていることだろう。なぜなら、それまで感じたことのない思いを。感じたことのない部分で感じるようになり、もっといえば、
「身体が正直に反応してくる」
のであった。
「身体の反応」
それは、思春期になってから、訪れる、
「身体の変調」
に近いものだ。
いや、そのものだといってもいいかも知れない。
そんな変調を感じながら、
「男と女の違い」
について考えるようになる・
主には肉体的な違いに言及しているといってもいいだろうが、それだけではない。男とすれば、
「自分の性癖」
というものに気づくようになってくる。
例えば女性の、どんな態度に一番身体が反応するか?
ということである。
「恥じらいのある女性」
であったり、
「やたら抵抗しようとする女性」
あるいは、
「自分の美に絶対的な自信を持っている自信過剰な女性」
など、いろいろその性格から、態度も違うのは当たり前だ。
そんな女性が、凌辱的な目に遭っているのを、男として見ていて、本来なら助けなければいけない場面であっても、
「もう少し見ていたい」
という、とんでもないことを考えてしまうこともあるだろう。
それが、フィクションであれば助ける必要もないし、見ていていくらでも、自分の男としての部分を確認しても構わないだろう。
それが、
「映像作品」
であり、それらの映像作品は、思春期の連中の、
「身体の反応」
を狙った作品を作るわけである。
ジャンルも、男性の性癖に対して、多岐にわたっている。普通なら、あり得ないようなことでも、
「映像作品なら」
ということで、内容が架空であると分かっていても、自分の性癖を満たしてくれる映像作品は、男にとっては、
「必須」
のものであり、逃げるというわけにはいかないといってもいいだろう。
映像作品で身体が反応してくるのを、
「興奮」
という。
これは男女でいえることであるが、興奮してくると、漏れる吐息も嫌らしいものになり、それが相手にさらなる興奮を与えるのだ。
それは性癖というよりも、
「男女共通のもの」
であるので、
「性癖」
という言葉で言い表せるかどうかということは難しいといえるだろう。
それを考えると、いわゆる、
「エロ画像」
「エロ映像」
というものも、完全な悪として断罪できるのだろうか?
これは何とも言えないことであるが、
「映像作品がこの世界からなくなれば、性犯罪が急激に増え、収拾がつかなくなる」
と言われるが、少し極端であろう。
しかし、一定数の中には、
「エロ動画」
で興奮を冷ますことで、犯罪に至らないというケースもあるだろう。
それは、
「男性と女性の違い」
といってもいいかも知れない。
女性というのは、一度絶頂に達しても、その後持続して、まだまだ興奮状態が残るものだという。
もちろん、男女ともに、個人差があり、
「すべてがそうだ」
とも言い切れないし、年齢によっても違ってくるので、ここも難しいところである。
今度は男性側の方であるが、一般的に男性というのは、
「一度絶頂に達すれば、そこから先は、興奮しないものだ」
と言われている。
というのも、
「一度達してしまうと、そこから先は、賢者モードと言われる感覚に陥る」
というのであった。
「賢者モード」
というのは、一種の放心状態であり、それまでの興奮状態から、一気に冷めてしまい、それまで興奮の絶頂だったところが、萎えてしまい、さらに精神的にも、
「お腹いっぱい」
という状態、いわゆる、
「飽和状態」
に陥るからではないだろうか?
いや、ここは一歩踏み込んで、飽和状態になったものを、吐き出した後なので、興奮の元になっているものを、一気に一か所に集中させて、それをエネルギー砲として発射してしまえば、エネルギーがまったくなくなり、エネルギーの充填までに、かなりの「時間を要する」
ということになる。
それでいけば、すべてを吐き出した状態というのが、放心状態だということは、それはそれで普通なのではないだろうか。
男というのは、そういうものであり、だから、溜まりに溜まったものを、発射できる相手がいないのであれば、架空の映像を使ってでも、発散させなければ、絶えず、興奮状態のまま、彷徨うことになり、それを発散させる相手が、女性でしかないと分かっていることで、我慢できなくなると、
「性犯罪」
と言われる犯罪が起こってしまうのであろう。
この性犯罪というものは厄介なもので。
「女性側には、かなり不利なことが結構あった」
特に、今はそうではないが、以前は、親告罪と言って、被害者からの告訴が必要だったりした。
しかも、裁判になれば、聴かれたくないことを聞かれ、言いたくないことを言わなければいけなかったりするので、果たして被害者の壊れた精神状態で耐えられるかどうかということから、弁護士による示談交渉において、
「告訴を見送る」
ということで、
「泣き寝入り」
ということがほとんどだった。
暴行された女の子は、
「車に轢かれた事故だと思って、早く忘れる方がいい」
ということで、事件から目を背ける傾向にあるというのも、無理もないことではないだろうか?
そんなことを思うと、
「自分がしっかりしているだけでいいのか?」
という思いから、いろいろ、考えなくてもいいはずの余計な不安が募ってくることから、ただでさえ、精神的にきついのに、余計な気持ちにさせられるのは、きついことなのだろう。
そんな性犯罪というものも、泣き寝入りしなければいけないのであれば、警察が取る手段というのは、一つしかない。
泣き寝入りに関係なく、事件というものに対しては、その大前提というもののはずである。
というのは、
「事件を未然に防ぐこと」
ではないだろうか?
もっといえば、
「事件を起こさせないようにする。そういう社会をつくる」
ということが大前提のはずである。
もちろん、そこまでくると、警察の仕事ではないのだろうが、どちらかというと、政府であったり、国家の仕事だといってもいいだろう。
犯罪さえなくなれば、犯人も被害者もいないわけで、被害者やその家族。犯人の家族は身内なども、ある意味被害者だといえるのではないだろうか?
昔から、
「罪を憎んで人を憎まず」
という言葉があるではないか。
まさしくその通りで、
「犯人が犯罪を犯さないように、そして、加害者となるべき人間が、犯人にならないようにする」
ということが、一番なのだ。
警察は、
「犯人を特定し、証拠を集め、容疑を決定づけ、そして、検察が起訴する」
そこから先は裁判となるわけだが、警察というところは、
「真実を見つける」
というところが仕事である。
しかし、事実というものが、すべて真実だということではないだろう。確かに、事実というものは、曲げられないもので、それが、
「動かぬ証拠」
となるのだろうが、真実が事実にあるかどうかということは、大きな問題なのかも知れない。
真実がすべてだということになると、事実を捻じ曲げることになる。
「真実は真実として、事実は事実」
として認識したところでの裁判を行うために必要なものが、
「警察の捜査」
というものだろう。
警察の捜査が、思ったよりも進んでいないと、特に、
「縦割り社会」
の警察は、さらに遅れてくることは必至である。
特に、横のつながり、いわゆる
「縄張り意識」
のようなものがあるために、なかなか捜査が続かなかったり、
「そこから先は、勝手に踏み込めない」
というものがあったりする。
特に、上司同士の葛藤があるところなどでは、なかなかそれに振り回される部下としては、気を遣ったり、意識過剰になったりと、捜査以外でも大変だったりする。
そういう意味では、
「中間管理職」
という立場では、警察だけでなく、一般企業を始めとして、特に官僚などになると、大変だということであろう。
警察の捜査というものにも、かなりも問題がある。
特に最近は、
「コンプライアンスの問題」
というものがあり、取り調べも、昔とはかなり違うようだ。
半分は、拷問に近いような取り調べが、昭和の時代には行われていた。
白状しない容疑者に、ライトを顔に向けたり、胸倉を掴んでみたり、さらには、タバコの煙を顔の近くで吐き出したりと、
「まさに、やくざ顔負け」
と言った様子だったりもした。
実際に、取り調べが行われると、どれほどひどい状態なのかというと、一番の問題は、
「取調室の扉を閉め切って、外に聞こえ合いようにして、何をしていたのか?」
ということである。
今であれば。
「人権擁護団体」
が、乗り込んでくる自体に発展することであろう。
というのも、一番の問題は、
「冤罪」
という問題があったからだ。
特に、痴漢やスリと言った事件では、冤罪が多く生まれ、もし冤罪だと分かり、警察が謝罪したとしても、一度逮捕されてしまった人間の運命は悲惨である。
まともに社会復帰もできず、結果、まともな社会復帰ができず、怪しい団体に身を落とすということだってあるに違いない。
それを考えると、
「警察が最初から、キチンと捜査をしてくれていたら、こんなことにはならなかった」
ということになるのだ。
犯人にされてしまった人間に対して、警察は、本当に悪いと思っているのだろうか。中には本当に、
「悪いことをした」
と思っている人もいるだろうが、ほとんどの警察官は、
「あれはしょうがない。そもそも、怪しまれるような行動をした方が悪いんだ」
と、明らかな自分たちのミスを棚に上げて、そう考える。
確かに、警察官が、一つの事件の尾を引いて、それ以降の仕事に支障をきたすというのはいけないことであろう。しかし、冤罪事件のような、
「あってはならないこと」
に対して、
「よくあることだ。酒でも飲んで忘れてしまえ」
などという上司がいたとすれば、それは、言語道断である。
逆にこういうことは忘れてしまってはいけないのだ。いかに、
「心の奥でかみしめるようにしながら、現場復帰できるか」
ということが問題なのに、楽な方、つまり、
「嫌なことは、忘れてしまう」
という方向に逃げるのであれば、また同じことが起これば、同じ過ちを犯すに違いない。
もし、そこで、
「酒を飲んで忘れることだ」
と言われて忘れてしまうと、その人は、そこに限界を作ってしまい、本来の警察官としての誇りであったり、自覚を捨ててしまったのと同じことなのではないだろうか?
それを思うと、
「そっちはそっち。こっちはこっち」
ということで、両方抱えて生きていくということができないのか?
ということになるだろう。
もしできないということであれば、きつい言い方であるが、
「警察官としての技量がない。限界だ」
ということになり、そのまま警察官を続けたとしても、一生苦しみぬくだけということになるに違いない。
それを考えると、
「限界というものを引くのは誰なのか?」
ということになる。
自分で引いてしまうと、それ以上は絶対に超えることはできない。なぜなら、
「その境界線を、自分で見えているからだ」
ということになるからである。
限界を知るというのは、確かに大切なことであるが、きっとそれを見切るには、
「時期」
というものが必要なのだと思う。
だから、上司がいて、その時期に、道を踏み外すことなく導いてやるものなのだろうが、今の上司の人に、果たして。
「そこまでできる人がいるものだろうか?」
と言えるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「警察にも限界というものがある」
と考えるようになってきた。
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