悪い菌
森本 晃次
第1話 体調不良
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年2月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。ただ、今回のお話はフィクションではありますが、作者の個人的な苛立ちが大いに入っていることをご了承ください。
季節が冬から春に向かう時というのは、いろいろな事情によってなのか、体調を崩すことが多くなる。
「温度差によるもの」
であったり、
「空気が乾燥している」
ということであったり。
「花粉や、黄砂などが飛んでくる」
などという時も、体調が悪くなる。
具体的なこととすれば、
「伝染病が流行っているということで、学級閉鎖になる程度のレベルであれば、具体例として、十分なことではないだろうか?」
と考えるのであった。
ただ、しかし忘れてはいけないのは、その状態を分かるというのは、
「本人にしか分からない」
ということである。
いくらまわりが煽ったとしても、その内容は、本人にしか分かることではなく、だからこそ、
「まわりの人には分かることではない」
ということになり、
「他人事」
だということになるのだ。
他人事だというと、いかにも、冷たい、
「塩対応」
のような気分になるのであって、特に、自分が体調が悪かったりすると、
「本当に他人事だな」
と思うことであり、さらに、他人だって、そんな自分のことを見て、
「なんて、他人事のような対応なんだ」
と思い、下手をすれば、相手に見切られてしまいそうな気がするのではないだろうか?
体調が悪いのは、この時期だけではない。
夏であったり、秋であったり、きつくなる時もある。
ただ、一つ言えることは、
「自分で感じる状況が、まわりが見えている状況とは違うということであり。時に、きつい時の方が、まわりとのギャップが大きいのではないか」
とも、感じるのであった。
しかも、体調が悪い時に、必ずしも、
「頭が回らない」
というわけではない。
意外と、何かに閃いたりするのだが、それが実践に役立たないというのは、
「思いついたことを、瞬時のうちに忘れてしまう」
ということからではないかと思うのだった。
それだけ、
「自分が何かを考えている時」
というのは、意外と発想が一気に変わっていくもので、
「その頭の状態に、身体がついていけないことで、頭もまわっていないんだ」
と思い込むことに繋がるのではないかと感じるのであった。
普通であればm体調の悪さに、頭の回転も比例しているということで、
「体調が悪いと、なかなか頭が巡らない」
と感じるのであった。
なるほど、確かに、
「あれほど、最近は頭が切れると思っていたのに、今日は、どうしたことか、なかなか発想がうまくいかない」
ということが多くなっていた。
それを考えると、頭と身体のバランスは、結構うまく行っているといえるのだろう。
しかし、中には、少しそれがずれて感じられることがある。
というのは、
「バランスが取れているということは合っても、決して、タイミングが合っているというわけではない」
ということから、発想となるのだ。
それを考えていると、
「自分の中でどこまでついていけるかどうか、疑問だ」
と感じることもあるだろう。
体調がよくなる時、悪くなる時と、それぞれに、カーブが違っているだろう。
というのは、病状によって違う時がある。
例えば、
「急変するような大きな病気の時であれば、体調が悪いと思ったその時に、救急車を呼びくらいの悪化の速度であり、徐々に体調が悪くなる、風邪のような症状の時というこは、それよりも、他に別の症状を拾ってくるかのような、状況になってしまうことがある」
と言えるだろうが、
「果たして、どっちが大変なのか?」
ということになれば、一概に言えることではないだろう。
「本当に大変な時というのは、体調が悪くなる場合に訪れる、節目のようなものを一気に調節するくらいの時が、その見極めところが、最初からそのタイミングだということが分かるかどうかで決まってくる。だが、それ以外のゆっくりの時も、油断していると、本当に最後通牒のような状態になった時、うっかりと見逃してしまうことがあるだろう」
と感じる、
「もう少し先に、落とし穴があるのでは?」
と思うと、それこそ、堂々巡りを繰り返すのである。
そんな体調の悪さを感じる時、一番最初に感じるのは、どうしても、五感の直結するものではないだろうか。
「視覚、味覚、触覚、嗅覚、聴覚」
というものである。
そのほとんど、いや、すべてが、
「顔面」
にあるのも特徴である。
「視覚であれば、目」
「味覚であれば、舌を隠し持つ、口」
「触覚は、肌触り」
「嗅覚は鼻」
「聴覚は耳」
ということであり、なぜ、顔面に集まっているのかというと、やはり、
「脳というものを保護している、頭がすぐそばになるからではないだろうか?」
これは当たり前の発想であり、確かに言われてみれば、肌を中心に、
「風が吹いただけで、ゾクッとするような敏感などころであり、何よりも、口にしても、鼻にしても目にしても、必ず、覆いかぶすものがあるという意味で、どれだけ敏感なのか?」
ということが分かるというものだ。
もちろん、脳であっても、頭がい骨の上には、皮膚があり、その上には、頭髪で覆われているという、実に厳重なものだといえるのではないだろうか。
そんな脳というものは、実はまるで豆腐のように、壊れやすく、やわらかいものだという。実にデリケートなもので、それを頭蓋骨を中心に保護していると考えただけで、実に怖くなるというものだ。
そういう意味でも、
「髪の毛一本でもおろそかにできない」
ともいえるのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「いろいろな五感がある中で、ほとんどのものに異常をきたせば、体調が悪いといえるのではないだろうか?」
と考えるのであった。
「一番軽いのは、どれかということに絞るのは難しいかも知れない」
と言えるだろう。
しかし、そのほとんどのどこが異常をきたしていたとしても、そのどれもに当て嵌まるとするのは、
「風邪の症状」
と言えるのではないだろうか?
というのは、
「鼻にくれば、鼻づまり、鼻水など。口の中であれば、喉の痛みに伴う、扁桃腺の痛み、それによって、咳やくしゃみが起こるというものであれば、目にくれば、眩暈や頭痛に繋がるもの」
と言った、その症状からくる異変が、風邪の諸症状ということになるということは、普通に生きているだけで、分かってくることであろう。
風によって、寒気がくるなどと言った。
「触覚」
に関するものも、
「いかにも風邪の諸症状」
と言えるのではないだろうか?
確かに風邪というのは、
「万病の元」
と言われ、風邪から来る派生型の病気を、
「バカにしてはいけない」
と言われるのも、当たり前のことであった。
特に触覚から来る、
「寒気」
であったり、
「悪寒」
を感じた瞬間から、他の症状を連想させ、それが現実となってくることも多いということであろう。
寒気もあれば、悪寒もある。その症状の派生型が顔に出てくる。
「顔色が悪い」
などというのも、その通りであろう。
「嘔吐、鼻水などの風邪の症状は、まさに、悪寒から来る、身体の反応ということになるのだろう」
そのような症状が出てくると、
「身体が危険信号を出している」
ということで、本人も、いよいよ、
「風邪を引いた」
という自覚を感じるようになり、
「病院へ行こう」
と考えるのだ。
そういえば、風邪の引き始めで、寒気が襲ってきて、熱を測ってみると、
「熱がある」
となったとしよう。
相手が子供であれば、
「すぐに、お布団に入りなさい」
ということで、布団で寝かせ、氷枕などで、頭を冷やそうとする。
そんな状態で、熱を測ると、さらに体温が上がっていて、その様子を見ると、
「もっと冷やさなきゃ」
と大人は行って、さらに氷枕などで冷やそうとするだろう。
だが、よく見てみると、子供は寒くて震えていることに気づかないのであろうか?
というのも、
「熱が上がっている時は、身体自体は寒気がしたままの状態」
ということである。
どういうことなのかというと、人間が、熱を持つというのは、身体の外から、
「悪い菌」
が入ってきて。その菌を身体から追い出そうとして、身体の抗体が戦ってくれているのだ。
だから、人間というのは、
「発熱」
というものを起こすのであって、本来であれば、
「熱が上がり切ったところで身体から、汗が出てくる」
ということなのだ。
つまり、この、
「発汗作用」
というものは、身体が、毒素を追い出そうとして戦った結果、その毒素が身体の奥からしみだしているのであり、汗を掻くことで、身体の熱を下げようとしているということなのである。
だから、ある意味、
「治った」
ということで。後は、上がり切ってしまった熱を下げる必要があるので、この時に冷やすことになる。
つまりは、熱が上がっている時というのは、身体を冷やすのは、逆効果なのである。せっかく身体が戦っているのに、それを妨害するようなものだ。だから、暑そうにしていても、逆に温めなければいけない。なぜなら、
「本人は、寒がっているはず」
だからである。
体温以上の熱さを身体に感じている時というのは、身体に熱がこもっている。その熱で一気に悪い病気を追い出すことができるまでは、身体を温めて、応援し、身体から、毒素が出始めた時には、今度は熱を下げるということに集中するようにする。
汗が出始めれば、それまでの苦しさからは解放されていて、
「早く毒素を追い出したい」
という一心から、汗を掻くのだとすれば、
「発汗作用は、応援する必要がある」
と言えるであろう。
そう思うと、
「汗を掻けば、こまめに着替えをして、そのたびに身体を拭く」
ということが大切で、だから、乾いたタオルと着替えがたくさん必要になるのであった。
体調が悪い時と一口ではいうが、それは、広義お意味でいう、本当の意味の、
「体調が悪い」
というだけではない時がある。
精神的に参っている時でも、
「体調が悪い」
と表現する人もいるかも知れない。
「病は気から」
という言葉があるくらいで、気力がなくなると、精神的に弱ってきて、体力もおぼつかなくなってくる。それを総じて、
「体調が悪い」
ということになるのかも知れない。
ということを考えると、
「体調の悪さから来る、気の弱さ」
というのもあるだろう。
風邪を引いた時であったり、熱が出た時には、心細くなって、
「人恋しい」
という気持ちにもなるだろう。
実際に誰かがいてくれれば、安心はするだろうが、気を遣わなければいけないということを考えて、
「却って疲れが来る」
と思う人もいるだろう。
そういう人は、
「俺は、そんな人と一緒ではないんだ」
と思うのではないだろうか。
それを考えると、
「身体の変調からくる、体調の悪さ」
あるいは、
「精神的な病んだ状態からの、体調の悪さ」
このどちらが、果たしてつらいといえるかということであった。
しかし、これらは、単純比較できるものではない。
「どっちだって、辛いことがあれば、つらさに変わりはなく、一緒にできるような次元ではない」
と言えるのではないだろうか?
特に、最近では、老若男女、いろいろと悩みを持っている。子供だって、學校の苛めであったり、小学生から悩みで、頭に、
「10円禿」
のようなものがあると言われるくらいである。
「中二病」
という言葉もあり、あれを、
「病んでいる」
というのは、体調の悪さという発想と果たして同じなのかということになると、分からない。
しかし、人間というのは、自分のこと以外は、そのすべては、
「他人事」
であり、どうしても、
「自分以上に苦しんでいる人はいないに違いない」
と思い込むことが、往々にしてある。
それを思うと、
「悩みを持っている人間を悪くいうことはできないが、中には、誇張して、わざと悩みがあるように装っている人もいるが、騙され合いようにしないといけない」
と考える。
自分のことで精一杯なくせに、そういうところは、他人と比較してしまうのは、それだけ、
「自分は、他人とは別であり、他人事だということを、心のどこかで持っていないと、不安に感じる生き物なのに違いない」
ということである。
何に精いっぱいなのかということを考えると、考えれば考えるほど、その正体が分からなくなり、得体の知れない不安に襲われることがある。
しかも、それが定期的に襲ってくるから厄介なのだ。そのことを自覚していればいいのだが、果たしてそこまで自覚できているかということが、問題なのではないだろうか?
精神的に弱ってくると、体力的に弱るのと同じように、心細くなってくる。果たしてこの時の、
「精神的なものから来る心細さと、肉体的に来る心細さでは、どのように違うものなのだろうか?」
と考えてしまうのだった。
精神的な疲れというと、基本的には、肉体的にも疲れを伴っていることが多いので、精神的な疲れの方が大きいような気がするが、肉体的な疲れというのも、ほとんど変わらないくらいに疲れていることの方が多かったりする。
つまりは、
「心細くなるという点においては、肉体的であっても、精神的であっても、大して違わない」
ということになるのであり、
「心細さの元となるところをいじるのは、肉体的な疲れであっても、精神的な疲れであっても、関係なく、それぞれが刺激し合うようになり、心細くなってくるものではないだろうか?」
ということで、結局、
「どんな疲れであっても、心細さということから逃れることはできないのだ」
ということなのであろう。
それを考えると、心細さを考える時に、一つ感じるのは、
「反発性」
という思いであった。
人というのは、
「やせ我慢」
をするものである。
特に、自分が好きになった相手であったり、自分を慕ってくれたり、頼ってくれる相手には、
「弱みは見せられない」
と思うものなのだ。
だから、相手が心細くなっている時は、その話を聴いてやり、わがままを言いたい時、他の人に対しての時は、少し厳しい言い回しになったとしても、
「そんなに寂しくなった時は、この俺がそばにいてやる」
という言葉を掛けるようにしている。
少し格好よすぎるかも知れないが、それはそれで本心なのである。
あくまでも、本人の気持ちとしては、
「ずっと、そばにいてやると口では言っているが、基本は、その人の行動を縛るつもりはない。精神的に心細くなったり、不安になった時、いつもそばにいるのが自分なんだと思ってもらっていれば、それでいい」
という思いであった。
これは、なかなか若い頃にはできないものだ。
なぜかというと、若い時分ほど、
「時間がない」
と感じるからであろう。
ここでいう
「時間がない」
というのは、頭の上に、
「今の自分には」
というものがつくのだ。
つまり、
「若い時間は、そんなに続くわけではない」
という自覚がある。
これを逆の意味で言えば、
「若いうちのイケメンである時期しか、自分は女の子からモテないんだ。だから、後数年くらいだろうか?」
と考えてしまう。
確かに、若くて、
「モテる」
という時代は、人生のうちでの若干の期間なのかも知れない。
本当のイケメンであれば、中学時代から、20代くらいまでの、十数年くらいは、モテるかも知れないが、普通であれば、大学時代から、二十代前半くらいの、5年ちょっとくらいがいいところではないだろうか?
それを思うと、
「あっという間に過ぎてしまう」
という思いがあるから、焦る人は焦るのかも知れない。
「では、元々、モテた経験もない人はどうだろう?」
正直、
「モテる」
ということに関しては、ムダな時期を過ごしていると考えるのではないだろうか?
だが、人によっては、その、
「無駄な時間」
というものを、自分なりに有意義に過ごしている人もいるだろう。
「何もこの時期は、モテるためだけにあるんじゃない」
という思いで、いろいろな勉強に勤しんでみたり、今後の自分の糧となるものを育むということに、舵を切っている人だっているだろう。
つまり、逆にいえば、その期間を、
「モテている」
というだけで、楽しく過ごすという、一種の受動的な人生と、
「自分のための教養を自らで取得していく」
という、自発的な人生と、どっちがいいかということである。
そもそも、自分でも分かっていたはずではないか。
「モテるための、時期というのは、短いものだ」
ということをである。
焦ってみて、何とか彼女ができたとすれば、どう感じるだろう。
「俺はやっぱりモテるんだ」
と自惚れてしまうと、せっかく焦ってまで、短い時期なんだ。
ということを自覚したはずのことが、
「自分の中で水の泡になってしまう」
ということになるのだ。
モテていることで、盲目になりかかってしまっているのだろう。
しかし。それでも、まだ自覚は残っている。
「俺はこの状態でいいのか?」
ということをである。
それが、心の葛藤となって、本当にそれでいいのかどうか、自問自答を繰り返す。自分の中で、
「押しては消える波」
というものが出来上がって、その波が砕け散るのを見ようとしない。
目をそらして、音だけ聴いていても感じる恐怖を、
「何を好き好んで、自分から見たりするものか」
という思いがあるからである。
特に青年期における心の葛藤には、
「結婚適齢期」
という、今では半分死後になっている言葉に対し、気持ちの中では、
「結婚願望」
というものがあるに違いない。
その結婚願望は、年齢とともに、気持ちが変わっていく。未成年の頃は、
「憧れ」
であり、手が届かない存在ではないだろうか。
18歳から、20代前半くらいには、それが少しずつ具体的になってきて、相手がいれば、その人との結婚を夢見ることになり、相手がいなければ、必死になって探そうとする。
その時に、自分の中で、
「リミット」
という年齢を決めているのかも知れない。
それは、自分が、
「絶頂である」
という時期を考えた時、その時期から逆算する形で、
「後、何年」
という、一種の目標を持つことになるだろう。
ハッキリとしたものでなくとも、時期を曖昧なまま、目標だけを定める人もいるが、結局、その時期は、次第に固まってくるので、そんなに意識することはないのだ。
しかし、その時期を通り越し、結婚に至らなかったとする。
その理由はいくらもあるだろう。
「結婚適齢期に達したにも関わらず、相手が曖昧な態度を取っている」
という場合、
「逆に、自分が、こんなはずではなかったと感じる場合」
この場合には、いくつかあるだろう。
相手本人に対して、
「こんなはずではなかった」
と、
「こんなはずではない」
ということを相手に対してではなく、自分の心境が結婚というものに対して疑問を持つようになった時。
そして、
「自分がまわりのことを必要以上に気づくようになったり、世の中の限界のようなものが感じられるようになった時」
というものがある。
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