(三)-6
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「重ね重ねの御親切、まことに忝く存じます。大久保様の御厚情のほどはそれがし生涯忘れませぬ。さりながら」
顔を上げたその表情は決然としていた。大久保は目を見張った。
「私には大志があります。イギリスに行って現地の様子を直に知り、学問を学びたいのです」
俊輔の言葉に、大久保はうなり声をあげた。
「そいはまた、豪儀な望みじゃのう! おそらく、薩摩でそがな夢を抱いちょる者はおりゃせんじゃろ。望みの太さではおいたちゃまとめておはんに完敗じゃ。簡単にはゆかんちゆうこつはわかっちょるじゃろうな」
俊輔は睨むような強い目で相手を見据えた。
日本を夷狄から守りたいというなら、ただ毛嫌いし昔ながらの武器に頼るのでは絶対に不可能だ。相手側の国に飛び込み、その文明をつぶさに知り、吸収して、日本を侵略を受けない強い国にすることこそが真の攘夷―――大攘夷である。
亡き師匠の思想である。師匠はそのために本気でアメリカに密航しようとし、失敗し、罪人となった。
それで国元に帰され塾を開くことになったのだから、密航に成功していたらあの塾はこの世に生まれなかったということになる。巡り合わせとは不思議なものだ。
だが師匠はおそらく、完全に国のためだけにそれを考え、実行したのだろう。自分は先生とは違う、凡夫の俗物だ。
「私は師匠のように無私無欲ではないし、大久保さまのように利他の心に富んでいるわけでもありません。自分のためだけにやるのではない、ですが、国のためだけでもないのです。その両方です。
この世に人として生まれ男として生まれて、何か大きなものに自分をぶつけ、両方を変えずして何の人生でしょう。自分を良くしたいし、国も良くしたい。どちらが欠けても成り立たないのです。
望みを叶えるためには、江戸にいれば多少は有利かもしれませんがそれ以前に、我が身の安全のみを図って故郷に引きこもるような男に、天が微笑むことは決してないと思います」
大久保は目を大きく見張って俊輔の言葉を聞いていた。この人の持ち味であろう常に白紙の感受性が、全力で今発揮されている。そう俊輔は感じた。大久保は口を開いた。
「今一瞬、おはんの身体が光って見えたとじゃ」
俊輔は本気で顔をしかめた。
「からかわないで下さい」
「からこうとりゃせん、ましてこがいなこつで出まかせは言わんわい」
大久保は満面の笑顔になった。その純真さと温かみに、俊輔はかえって胸が痛くなった。
「わかった、そがなこつならきばりやんせ。まこて大した男じゃ、優れた人物には何人も会うてきたつもいじゃが、おはんがごたる者は初めてじゃ。おはんは……ああすまん、こいだけ話しこんで、まだ名前も聞いちょらんかったの」
心中にわずかながら緊張が生まれる。名前を教えるというのは、自分の一部を相手に与える行為だからだ。俊輔は深い呼吸をして気持ちを落ち着けた。
「伊藤俊輔、と申します」
大久保の顔が、一拍を置いてぱっと輝いた。
「そいは良か名じゃなあ!」
亡くなった師匠から頂いた名です、と言おうとした俊輔は、続く大久保の言葉にどきりとした。
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