(三)-5
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「操立てするというのでもないのですが、あの先生以上に優れたり並ぶと思える師匠に出会えていないので、今は独学の有様です」
「そうかあ……おはん自身にもいろいろあっとじゃのう」と大久保は思い入れ深そうにうなずき、
「この江戸でどうしてもやりたかこつがあるというのでなくば、国に帰るのを考えてみても良かかもしれんのう」
俊輔は顔を跳ね上げた。大久保は真面目な顔で、
「おはんは優れた若者じゃ。目を見て、口の利きようを聞けばわかる。優れた人材、とりわけ若者はどがな黄金にも勝る国ん宝じゃでの」
自分もさほどの年ではないくせに、分別臭いことを言う。そんな不遜な思いが一瞬、俊輔の中をよぎった。相手のそんな内面には気づかぬ様子で、大久保は続けた。
「足軽の仕事は誰かがせねばならん、なければ藩が回らん大事な務めじゃ。そいどんおはんの場合は、出が百姓じゃちゆうて何かと嫌味を言われる。そいだけならまだしも、何かあればそいに目をつけられて責をかぶらされたり、汚れ仕事を押し付けられたりは十分ありうっこつじゃ。
国元にいれば安全とも限らんが、この時勢、江戸におってはどがいな変事が起こっかわかったもんではなか。とりわけ長州は名だたる勤王藩じゃしの……故郷で師匠について学問を究め、こん国がもっと風通しのよい生きやすい有様になるまで心身を養うのも、立派な尽忠報国の道じゃち思うぞ」
大久保の言葉が、俊輔の内面をかき回し、過去の記憶を次々と鮮やかに甦らせた。相次ぐ心痛に弱り果てていた欲望を掻き立て、さらに強大なものと化させて体内を隙間なく満たした。
欲望の復活は同時に理解でもあった。亡き師匠の語っていた思想が、字面での理解ではなく、今こそ精神で感得できた。これなんだ、と俊輔は思った。成否の見込みは度外視して、理想のために己の魂を燃やし尽くすこと。俊輔は両手を床につき、深々と頭を下げた。
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