(二)-1

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 文久二年(1862)夏。

 江戸には開幕以来の椿事に対する、かつてない緊張感が生まれていた。

 勤王の志士を根絶やしにせんとばかりに吹き荒れた大獄の嵐も、その報復に大老が路上で惨殺された事件も、どこ吹く風という態度でしゃれのめし忘れ去っていた江戸っ子の心にも、少しずつ不穏の影が食い入ってきたようだ。


 南の眠れる獅子薩摩藩が、国父久光を押し立て、兵士三千人を引き連れ上京してきたのだ。それだけでも前例のない横紙破りなのに、幕政改革要求案を携える勅使を奉じている。

 黒船来航には驚愕したもののそれに続く大獄、大老暗殺は受け流していたのだが、それらは連動し、江戸の太平の夢を突き崩す悪しき鎖であったのか。その思惑を含んで江戸の空気はようやく変わってきた。大獄のころから江戸にいる俊輔には、その変化はよくわかる。

 薩摩の率兵上京は前藩主斉彬以来の宿願だったそうだが、薩摩からこの江戸に来るまでの道中でも相当な悶着があったらしい。

 京都伏見で藩士の一部が、幕府を倒さんとする過激派と呼応した。それを国父久光が咎め、有無を言わさずなで斬りにしたという。どちらが過激派かわからないというやり口に公家たちは震撼し、しかしそれにより朝廷は久光を信頼し、幕政改革の勅を下した。

 そこに介入したのが長州である。薩摩に先を越されてはたまらないと、朝廷と薩摩が立てた幕府への要求案に、長州の要求案を滑り込ませた。

 朝廷は薩摩だけに抱え込まれたくはないから、これを受け入れた。薩摩も、私利私欲ではないという建前がある以上断れないが、腹のうちは煮えくり返っている状態だろう。

 俊輔にとっては自藩のことだから悪く言いたくはないが、薩摩が前例のない世界に果敢に踏み込み、同志の血を流してまで切り拓いた道に、長州がただ乗りで割り込んだ形だからだ。

 薩摩と長州は今やはっきりと競争相手同士であり、水面下では反目しあう仲である。しかしそれでも表向きは友好関係を保っている。朝廷を戴くという大義名分があればなおさらだ。

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