忍ぶれど色に
兵藤晴佳
第1話
だからさ、
「ここに書いてあるのは、クレヨンとか絵の具の色じゃないわけよ」
修行が嫌で、坊主の息子という立場を抜け出したくて、有名大学への進学を目指し、その結果、一浪している。
それでも捨てられずにまだ使っている参考書のページを、しなやかな指が勝手にめくる。
「はい、ここ見て」
一首の和歌があった。
忍ぶれど色に出でにけり我が恋はものや思ふと人の問ふまで
「
カルタ取りもろくにやったことがない身としては、予備校で自習室の机にかじりつくようにして勉強しても、志望校に受からなかったのは当然だという気がした。
同じ一浪でも目指すところが遥かに高い蓮見は、僕の理解を超えた解説を一方的にまくしたてる。
「忍ぶれど、つまり隠していたのに、表情に出てしまったんだなあ、私の恋は……好きな人がいるんだろうと人に聞かれるくらいに、って言ってるわけよ、倒置法を2回も使って。で、この場合は顔色のことを言ってるわけね。赤青黄の色じゃないでしょ?」
とりあえず、わかったような顔をしておく。
次の授業があるので、蓮見はそこで余計な一言を残していく。
「これ、家庭教師なんかだったら時給1500円じゃ利かないからね」
それと入れ替わりにやってきたのは、幸田李奈(こうだりな)だった。
「えっらそーに。あの女も浪人のくせに」
そう言う李奈は、蓮見と同じ大学への現役合格を目指す、進学校の生徒だ。
僕の見ているページを覗き込むなり、いきなり問題を出してくる。
「じゃ、
答えられるわけがないのを知っていて聞いてくるのだから性質が悪い。
勝手に10秒カウントして、さらさらと一首述べたてる。
花の色は移りにけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに
「花の色って、どんな色?」
赤とか青とか黄色とか、と答えると、意地悪く笑う。
「残念でした。確かに、桜の花が色あせてしまった、長雨が降るだけでなく、ぼんやりと物思いにふけってムダに年を取っていくうちに、って意味なんだけど、何色、ってわけじゃないんだよね。その花が持ってる風情も含まれてるって考えたほうがいいんじゃないかな」
そんなことまで入試で出るのか、と聞いたら、きっぱり言い切った。
「出ない」
お前、落ちたら責任取れよと罵ると、耳元で囁いてくる。
「いいよ……どんな?」
そこでずかずかと戻ってきたのは蓮見だった。
「ちょっと……こっちは責任もってやってるんだからね」
授業はどうしたと聞くと、急に時間割が変更されたという。
李奈も悠然と逆襲に出た。
「ご自由に。落ちたら、私が家庭教師やりますんで……つきっきりで」
落ちても受かっても、両手に花というヤツだ。
幸せと言えば幸せだが、自習室の男どもの視線が痛い。
僕は顔を伏せて、門前の小僧の習わぬ般若心経をつぶやく。
観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五縕皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色
観音様が深い知恵を得るための修業をしていたら
この世の全ては、本当はないのだと気付いて、全ての苦悩から解放された
舎利子君、あるものはないのと違いはなくて、ないものはあるのと変わらない
あるってことはないってことで、ないってことはあるってことなんだ
その春、志望校に受かった僕だったが、全ての苦悩から解放されることはなかった。
たぶん、これをないものとは思えないからだろう。
「幸田さん、舎利くん受かったんだから、取る責任はないんじゃない?」
「蓮見さんだって、果たした責任は、もうないんじゃないんですか?」
こうやって色に迷うのも、坊主の息子が修行を投げ出した報いだと思って観念するしかないらしい。
忍ぶれど色に 兵藤晴佳 @hyoudo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
作者
兵藤晴佳 @hyoudo
ファンタジーを書き始めてからどれくらいになるでしょうか。 HPを立ち上げて始めた『水と剣の物語』をブログに移してから、次の場所で作品を掲載させていただきました。 ライトノベル研究所 …もっと見る
近況ノート
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます