第17話 天国への扉

 高橋は居場所を失った。吹奏楽部の顧問だけではなく、音楽教師として、クラスの担任として、教員として。

 理由は誰にも明かされなかったが、久慈が臨時顧問に就任したことが彼の同期たちに広まり、その噂は吹奏楽と関係のない教員に伝わり、部員の親御さんまでに行き渡っていた。誰一人問題視しない、という現実は有り得なかった。

 新たな顧問は、誠光中学校吹奏楽部の現顧問である佐藤が就任する。ただし、四月からとのこと。久慈はこの決定を聞き、ある一つの決意を部員全員の前で口にした。


「三月まで、指揮を振らせてほしい。せっかく体制は整った。満田が帰って来てくれた。一、ニ年生は誰一人辞めず、問題も起こさなかった。だから、俺は取れると思う。一緒に、練習させてください」

 深く頭を下げた。部員からは温かさを感じる拍手とともに、仄かな笑顔が向けられる。久慈は約束通り、満田を一度退部に追い込んだ二年生は全員退部。そして、満田がパーカッションのリーダーに就任した。まだ不安が拭いきれないが、一年生部員の表情はどこか安心を漂わせていた。

 三月末に定期演奏会の開催を控え、新体制で舞台に立つのはこの日が初めてであり、最後でもある。久慈は不安を抱き、体に小刻みな震えがある。それでも、最後までやり切る覚悟をずっと、消さない。ただ、それは無理をしていたのかもしれない。事件は、年が明けた一月十二日の金曜日、朝に起きた。


 津丘中学校から南へ二キロ、高速道路が付近に聳え立つ歩道橋で一人の男子生徒が血を流して倒れていた。通行人の女性が発見し、早急に市内の病院へ救急搬送されたが、意識は戻らず、現在も集中治療室にいる。被害者の名は、クジハルト。津丘中学校三年生で、登校中に何者かに腹部を刺された外傷があった。警察は殺人未遂の容疑で、目撃情報のある黒い帽子に黒のダウンジャケットを着た男を捜索している。

 

 この一報が吹奏楽部に知らされたのは、一ヶ月後のことだった。部員に、久慈は逃げた、と思わせたかったのだろう。しかし、中学生を甘く見ると自分に返ってくる。そうだろう、校長。


 悠奈は、久慈が入院する病院へ駆けつけ、受付に涙ながら、顔を見せて、と訴えた。三階の集中治療室の前には、ベージュのセーターを着た彼の母親がハンカチで堪らえきれない涙を拭い、言葉を詰まらせていた。悠奈はその横顔を、ただ見つめることしかできない。

 医師はそれ以上、言葉をかけずに彼が眠っている顔を哀れな顔で見つめていた。そして、茫然と立つ悠奈の姿に気づき、近づく。


「その制服、津丘中学校の方ですか」

「は、はい」


 何を言われるのか、怖かった。口元を震わせ、乱れ打つ心音に両手を添えて落ち着かせようとする。


「裏切りの痛みを、どうか忘れないでください」


 医師は少し俯き、悠奈の固まった視線から目を逸らし、過ぎ去っていった。

 胸が裂けそうだ。目の前にいる彼の母は、ガラスに手を貼り付けて涙を流し、息子の動かない表情をずっと見つめていた。そして、悠奈は彼女の横に立ち、その表情を見た。頭が真っ白になった。何故、何故なのか。 

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