第15話 願望への招待

 神明原から三階の廊下で呼び止められて顔を合わせられたのは、久慈が臨時顧問として初めて部室に顔を見せた二日後のことだ。久慈は面倒は嫌いだと言って、二組の教室に戻ろうとする。それでも、神明原は彼の席まで追いかけ、机伏せて鼾をかいて寝たフリをする彼に、どうしてそこまで二年生の願いを聞こうとするのか、訴えるよう質す。


「別に、拒む理由がないからだよ」


 早く出ていってくれとばかりに、巫山戯た返事をする。神明原は「いや、あるだろ」と眉間に皺を寄せて呆れた声を漏らす。退部直後の全体朝礼でコンクールの表彰がある時も、腕を引っ張っても力で踏ん張って行こうとしなかった男が、吹奏楽部と関わるなんて拒む理由があるに決まっている。


「じゃあ聞くけどさ、今の後輩の姿を見て助けてやろうって思わないの?」


 伏せていた顔をすっと上げて疑いの眼差しを向ける久慈は、先輩としての想像図を伺った。引退したら後は放ったらかし。近いうちに宮木に命令した言葉だが、それは彼女が独占欲に塗れていたから。神明原は正反対で、自分と考えが寄っていると思っていたが、それは間違いだったか。唖然としたまま返答しない彼にやれやれと溜息を吐く。


「被害者の気持ちは被害者にしかわからないって、こういうことなんだ」


 もう一度机上に顔を伏せると、神明原は「好きにしろ」と諦めて怒りを滲ませながら出ていった。この日を境目に、二人は二度と顔を合わせなかった。久慈は外窓から見える青空に、歪んだ笑みを浮かベた。

 これで邪魔者はいなくなった。何も抵抗なく、指導ができる。あとは、彼を仲間にすればいい。その彼は放課後、一人で帰り道をゆらりゆらりと歩いていた。


「よっ、満田」


 家が近所である二年生、満田の背中から腕を回して肩に体重をかける。されている本人は痛みに苦痛な声を出すが、顔は嬉しそうだ。


「久慈先輩、どうしたんですか」

「どうしたじゃないよ。お前が元気にしてるか気になってさ」

「元気ですよ」


 満田が久慈と顔見知りであるのも、同じ退部仲間だから。加えて、在籍時代の昼休みに魔法の国を題材にしたテーマの映画で唱えられる幾多の呪文を再現し、久慈をツボに嵌まらせていた。その後、厨二病のような男子を嫌う女子達から毒を吐かれ、彼は退部した。


「今、何やってんの?」

「何って言われても、ゲームぐらいですよ」

「あー、俺と一緒だ」


 単調な声で同感する久慈は、自分のダラけた生活を脳裏に蘇らせた。そして、すぐに頭の中のゴミ箱に捨てた。


「辞めるって言った時、親に何か言われました?」

「言われたよ。でも、理解してくれた。今思うと、辞めて良かったよ。銀賞でガッツポーズするようなショボいクラブなんて、嫌だろ?」


 久慈は溜息混じり言うと、満田は真顔で「確かに」と少し眼鏡の位置を整えた。


「そうだ、戻ってこいよ」

「……はい?」


 話が右往左往して久慈の急な勧誘に目眩が起きそうになる。辞めて良かったと言ったくせに、なぜその言葉が出るのだろうか。


「俺、臨時顧問に推薦されたんだよ」

「誰に推薦されたんですか?」

「柳瀬さんから」

「柳瀬が部長なんですか?」

「らしいよ」


 軽く会話を交わす程度だが、悪い気を催すような人物ではない。しかし、パーカッションパート内での虐めは解決していない。好きな楽器と向き合いたい気持ちは山々だが、元凶がいなくならないと戻ることは不可能だ。


「そんなの、退部勧告すればいい話だ」


 久慈は臨時顧問になった上で自分に権限があることを自覚していた。同じ市内にある誠光中学校では、久慈と同じ学年のパーカッションパートの部員達が、一人の男子を集団で暴言による虐めを行い、このことが発覚すると顧問である佐藤は、即退部勧告を命じた。この話を母から聞いていた久慈は自分も顧問である以上、退部という名の追放を命じることが出来ると気づいてしまったのだ。


「でも、それはそれで僕が悪魔になるんじゃ」

「悪魔なんて表現するの、お前ぐらいだよ。それに、柳瀬さん達も言ってたぞ。退部に追い込ませた責任は私達にあるって」


 久慈は微笑を浮かべながら嘘をついた。しかし、本人達が口にしていないだけで本当に思っている可能性は二割程度ある。満田はそうと知らず、少し心を動かされた気がした。


「なら、あいつらを退部させてくれたら、考えます。嵌めたら承知しませんよ」


 満田の家の前に着き、ベージュの扉を開けて振り返ると、久慈は「おう」と自信満々の表情を浮かべた。

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