第8話 交渉

 十月一日の昼休み、職員室の前へと繋がる二階の廊下を一人、ぼんやりと歩く悠奈は、同じく一人で窓枠に両腕を組み置き、窶れたような目でグラウンドでキャッチボールをする同期の男子達を眺める久慈の姿があった。第1ボタンが外れ、髪は部活に顔を見せなくなってから切らず、襟足が学ランの襟に被さっていた。

 悠奈は怖気づきながらゆっくり一歩ずつ踏み出すが、その姿に気づいた久慈が表情を作らずに黒目だけを向ける。睨まれている。無意識に一歩後退ってしまうが、もう逃げられない。


「町田さん、元気?」


 あと数分で眠りに就きそうな低い声で久慈から問われると、声を震わせながら「元気です」と答えた。背筋が伸びきり、爪先に余計な力が入って踵が少し浮く。そもそも、面と向かって会話することもなかっただけに、目を合わせても勝手に逸らそうと動いてしまう。


「元気ならいいや、問題もないようだし」


 勝手に決めつけないでくれ、問題だらけで困っている。悠奈の口は、彼の言われるがままに「はい」と漏らされてしまう。問題があったから、彼は辞めた。自分でわかっているはずなのに。悠奈は、肩を少し震わせた。


「戻る気はないんですか?」

「ないよ。もしかして町田さんも、俺がいないと困る、とか言わないよね」


 核心を突かれ、心臓が一瞬激しく鼓動する。音が耳に伝い、言葉が出なくなってしまう。久慈は溜息を態とらしく吐き、上体を起こす。


「後輩だからいいけど、同期だったら殴ってたかも」


 目を閉じて不快そうに首の凝りをとるため、軽く左右に動かし、手を当てる。どうしてそこまで恨みを持つのか、理解ができない町田は「待ってください」と、殴られないとわかっても抑えるよう両手を突き出す。


「そんなに怖がらないでよ。俺だって、せっかく手に入れた自由を、暴力なんかで壊したくないんだから」


 久慈は一瞬笑みを見せると、また鋭い目つきをしてグラウンドの景色に目を向ける。目の前で見ていたのに、誰も助けなかったことを恨んでいる。彼の横顔が優雅にはそう語っているように見えた。


「すいません、何も出来なくて」


 咄嗟に浮き出る言葉と頭を下げる姿に、久慈は「えっ」と冷静な口調で反応した。悠奈もなぜ謝っているのかわかっていない。ただ怖かっただけな気がする。


「そうですよね、私ばっかりああしてほしい、こうしてほしいなんて図々しいですよね。先輩の考えも聞かないで」


 俯いて頭が上がらない悠奈に久慈は、自分が悪いことをしたかと疑い、全身が凍りつく罪悪感に襲われる。謝らないで、とは言ってみたが、心配をかけていることは間違いない。自分が辞めるだけ言って、詳しく説明をしなかったから。唇を少し噛み締め、後悔した。

 この日の帰り道、墓場の横の一本道を歩く久慈は、ポケットから四つ折りにした手紙を開き、筆圧の弱さと字体の緩さを感じる文章に目を通す。

 

 ごめんなさい、私達が止められなかったことで久慈くんに傷を負わせてしまったと思います。どうか、戻ってきてほしいです。今のチームでは金賞代表は取れません。ゆっくりでいいです。考えてくれたら幸いです。


 やっぱり、心は動かなかった。あいつが追放されるなら、自分は戻ってもいいと少しは思っていた。しかし、許してあげてほしい、と言われるなら、決裂だ。無駄な考え直しだった、抑えられていたストレスを腹に感じながら、縦に破り裂き、背後に放り捨てた。枯れた花びらが散るような舞い、風に掬われた紙切れは多方に飛んでいった。


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