第6話 名前だけの勇気
埃に塗れた二階の自室から、少しヒビの入った窓を開け、光に照らされる高速道路に目を向ける。赤いランプが自分を追い抜かし、南へ遠ざかっていく。見上げれば、今日は満月だ。窪みもはっきり見える。兎が二匹、餅をついている姿も見える気がする。下を見れば、照らされない真っ黒な空き地がある。可哀想だ、こんなに相手にされないなんて。しかし、今からこの地に行けば過去は何もなかったことにできるだろう。久慈陽人は、この世には最初から存在しなかった。そうできるだろうと、久慈は笑みを浮かべる。
「何だよ、早くいかせてくれよ」
黒い靴下に覆われた左足が、小刻みに震えている。窓枠に掛けられた瞬間、持ち前の高所恐怖症が表れたのかもしれない。ただ、テーマパークにあるジェットコースターやフリーフォールの頂点、深い渓谷へのバンジージャンプに比べたら、怖くないだろう。さあ、いこうよ。左の腿を二回強く叩き、同調を求める。それでも、言うことを聞かない。
「陽人、ごはん」
一階から母がいつもの口調で、呼んでいる。いつものように「はーい」と答える。声が震えていた。手もその震えにつられ、小刻みに震えている。
もう、いいだろう。
飛び降りる勇気すら、ないだろう。
死ぬ勇気なんて、勇気じゃない。
また、やり直せばいいじゃないか。
やっぱり、生きたい。
掛けていた足を灰色のカーペットの上に下ろし、口元を震わせながらゆっくりと、小豆色の雨戸を閉め、窓を閉めた。
「食わないの?」
「食うよ」
再び一階から母の声が聞こえると、陽人は涙を堪えながらいつものように声を張った。階段を降りていく鈍い足音が響く自室に置き去られた机上の深緑のガラパゴスケータイが、メールの通知を知らせようと部屋中に響かせる。しかし、腹を空かせた彼は食を求めていた。
陽人は、高橋に相談したことを母に語った。相談することを推奨したのは、母だから。黙って不登校を貫こうと考えていたこともあったが、その考えは十四年育ててきた親には丸見えだった。大人になって、その考えだけで生きていけるわけがない。だからこそ、窮地に立たされた息子に、信用できる顧問への相談を勧めたのだろう。
「あいつを信じたみたいだった。騙されてやがんだよ、あのジジイ」
母は「へぇ」と呆れ、白米を一口入れる。そして、メインの回鍋肉が盛り付けられた皿に手を伸ばした。
「五月の演奏聴いた時、あの子は下手だったけどね」
無表情で漏らす本音が、彼を「え」と驚かせる。嫌いではあるが、下手までとは思っていないのに。もしかして、自分を元気づけようとでもしているのだろうか。無理なのに。彼は手に持っていた味噌汁の器を置き、母の冷めた眼を見た。
「ソロとしては成立しているのかもしれないけど、あんな迫力のないソロ、曲に合ってないよ。もしかして、あの子あれで自分が上手いとか思ってるの?」
「ま、そうなんじゃない?」
母は失笑し、開けていた缶ビールをもう一口飲む。若さから生まれる自信に納得は示すが、自惚れにも程がある。そう言いたかったのだろう。
「俺、もう辞めるって言ったから」
「それでいいと思うよ。ただ、あんたの担任がなんで顧問になれたのか、不思議で仕方ないねぇ」
「バカなんだよ、きっと」
苛立ちが隠せず、強い口調で吐き捨てる。会話を交わしているうちに、学校内のことで死のうとした自分が一番のバカに感じ、どうしてあの考えに至ったのか思い返そうとした。しかし、振り返ることも嫌になって諦めた。これまでのことは捨てて、美味しい回鍋肉を頬張った。ただ、簡単に捨てられるほど甘いものではなかった。
考え直せ、お前がいなかったら来年も金賞代表なんて獲れない。
あんな奴を相手にしなかったらいい。だから、戻ってきて。
辞めないで。
仲間からのメールに目は通した。戻れるわけがないだろ、と呟きながら敷き布団に携帯を投げ捨て、読んでいる途中だった漫画に没頭する。辞めると言ったから、もう気にする必要はない。何度も心の中で唱えた。
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