第5話 実力と信用

 二学期が始まるまで、あと一週間もない。紺の体操服(ジャージ)姿で一足早く登校していた久慈は、高橋から事情を聞かせてほしいと連絡を受け、トランペットの音色が際立って聞こえる四階から離れた一階の支援学級が使用する教室でポツリと待たされていた。万が一、先輩が来ていることを想定し、扉の窓枠から覗かれないよう背を向けて夏の厳しい日差しを受ける樹木をじっと見つめる。

 高橋が別の用を終えて降りてきたのは、三十分後のことだった。待たせて申し訳ない、と笑みを滲ませて言うと、久慈は少し引き攣った笑みで、いえ、と返す。

 先に椅子に座った高橋は、沈んでいるであろう気分を少しでも戻そうと、コンクールでの頑張りを労う。久慈は、黙って頷くだけだ。そんなことはどうでもいい。あんな楽しくなかったコンクールの話は、いらない。無理をしてまで相手することが嫌でも、合わせることしかできない。硝子並みの弱い精神が、彼の目線を地面から離さなかった。


「とりあえず、先に宮木から話を聞いてくるよ」


 いきなり想定外の言葉を突きつける高橋は、久慈が漏らした「えっ?」という言葉に耳を傾けず、扉を開けて平然と開けっ放しにして去って行った。何のために一度顔を見せに来たのか、というよりも、もう帰りたい。近くに置かれた水色のバランスボールに座り、魂が抜けかけた体を上下に揺らす。思ったよりも空気が溜まっていなくて、座り心地が悪い。

 宮木から聴取をした高橋が左斜め上を見ながら考えた素振りを久慈に見せたのは、一時間後のことである。正午が近づき、空腹状態で同じ教室に監禁状態にされた久慈は、呆れた低音声で「どうでした?」と聞く。


「何も言ってないって言い切ってたけどなぁ。特に久慈との関係でトラブルも感じなかった、何も不快に思うこともなかった、って言い切ってたよ」


 何も言ってない、ということは有り得ない。トラブルに感じない、ということも有り得ない。不快に思うこともなかった、絶対有り得ない。不快に思わずして「死ね」と面と向かって言えるなら、サイコパスだ。久慈の頭の中は、フラッシュ暗算を処理する速度から、答えを導き出した。そして、耳を被す黒髪を乱すよう、頭を抱えた。


「僕は、死ねって言われました。お前はもう後輩に教えなくていい、ってことも言われました。だから、もうあの部室には戻りたくないです」


 お経を読むような口振りで、目を合わせずに意思を伝えると、高橋は腕を組んで溜息を吐いた。また左斜め上を見上げ、考える。でもな、と口を開いた。

 サックスを音域で分裂させ、バリトンだけチューバやコントラバスと同じチームで練習させる、なんてことはできない。サックスはサックスだから。頭の硬さ露呈する言葉を呟く。それに、宮木は信頼できる副部長だから。これは口にしていないが、高橋が絶対にそう思っている、と改善案を何も出そうとしない素振りから察した。


「辞めさせてください」


 姿勢を正し、頭を下げながら久慈は言った。答えを待たず、座っていた固い木製の椅子から立ち上がり、先に教室から出て行った。あいつはもう、宮木に洗脳されている。だから、自分のことなんて信用していない。サックスの技術も、あいつの方が上と見られているのだろう。だから、人間関係の問題となれば実力がある人間が言うことが全て真実だ。そう考えていたのだろう。

 

 何が顧問だ。

 何が音楽教師だ。

 何がクラス担任だ。

 役立たずな五十代のジジイだ。

 俺なんか、もうあの部には必要ない。

 俺なんか、楽器できる割にはギターも下手だと言われる。

 俺なんか、生徒としても必要ない。


 死のう。

 

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