ゲイボルグ


 誰も、言葉を発しようとはしない。その顔からは恐怖と混乱のみが読み取れた。


 ぼくはエリイをまっすぐに見つめて告げた。


「今すぐ、ここから離れた方が良い」

「えっ、けど……」


 他のクラスメートたちへと、ぼくは向き直ってから言う。


「みんなもだ。で、生徒や先生たちに、すぐにこの学園から避難するよう伝えて」


 恐らく、大勢の人々がブベルゼを目撃しているだろう。既に、その多くが何らかの行動を始めているはずだ。

 廊下からも、騒がしさが伝わってきていた。


 クラスメートたちは、不安そうにお互いの顔を窺い見る。やがて頷き合うと、それぞれ急いで教室から出ていった。


 今にも泣き出してしまいそうな顔で、ぼくを見ているエリイ。


「ぼくなら大丈夫だから」

「……必ず、無事に戻ってきて」

「ああ」

「約束だよ」

「ぼくは約束は守るだろ?」


 彼女は変わらぬ表情で、ぼくにぎゅっと抱きついてから、教室を出ていった。


 窓の外を見ると、校舎から吐き出される様に大勢の生徒らが校庭へ出てくる。多くは、そのまま講堂とは反対側へ逃げる様に駆けていった。


「……いくぞ、リーファ」

「あうッ!」


 ぼくたちは、勢いよく廊下へと駆け出した。


 態々、十五分後などを指定したのにはもちろん訳がある。どうしても、寄っておかねばならない場所があったからだ。


 ぼくらは、校舎一階、エントランスホールへとやって来る。いつもは静かなホールは、混乱の極みのただ中にあった。

 生徒や教師、校内に常駐する兵士などが、ひっきりなしに行き来している。怒声が飛び交い、悲鳴なども聞こえてきた。


 そのホール中央、台座の上に一体の石像が屹立している。

 周囲の喧騒など無縁であるかの様に、泰然と佇んでいた。


 端正ながら野性味を感じさせる顔立ちに、長めの髪。鍛えあげられた鋼の様な肉体にマントを羽織る男性。

 救国の英雄、「クークラン」の像である。


 本学園の立ち上げにも大きく寄与したらしく、こうしてここに像が設置されている。

 いつだかの朝礼で、副学長から長々とそれにまつわる話を聞かされたはずだけど、ほとんど覚えていない。


 石像は、一枚の岩から彫り出されている。細部まで極めて精巧に彫られており、まるで実物の様な迫力がある。

 ただ唯一、手にしている長い槍だけは、正真正銘の本物である。

 ゲイボルグ。

 柄は血の様な朱色で、刃は漆黒に染まる。


 当初はこの槍も石から彫られていたが、先々代の学長の時代に本物を入手し、こうして石像に持たせたらしい。

 その詳しい経緯についても、副学長から聞かされたはずだけど、それもよく覚えていない。副学長が語ると心躍る物語もなぜか眠たくなる。


 ただひとつ言えるのは、間違いなく、この槍こそが、ぼくが今手に入れられそうな最強の武器である事だ。


 周りには多くの人々、中には警備兵までいる。

 さすがにこの状況下で、堂々と本校のお宝を持ち去ろうとすれば、火事場泥棒扱いされるのがオチだろう。


「ワールドイズマイン」


 ホールからは、誰もいなくなる。

 静寂の中、ぼくとリーファのくつ音だけが鳴り響いた。

 台座へよじ登ったぼくは、ゲイボルグの柄を掴んで外そうとする。が、まるで石像と一体化してしまっている様で取り外せそうにない。


(時間がない。少々、乱暴な手段を用いるか)


 ぼくは石像の背後に回り込んで、己の全体重を掛けてそれを押した。……だめだ、びくともしない。


「リーファ、手伝ってくれ」

「あうッ」


 彼女は【宙歩スカイウォーク】を使って、石像の肩ぐらいの高さまでぴょんぴょんと上ってくる。


「がうッ!」


 英雄の背中へ、リーファは躊躇いのない飛び蹴りを食らわす。

 ……ぴし、みしみしッ。

 石像の膝あたりから、軋むような音が聞こえた。


 さらにもう一撃、リーファは石像の背を思い切り蹴った。

 ぐらりと、像は前かがみに傾く。

 膝からの軋む音が、さらに大きく鳴り響く。ぽっきりそこが折れて、バランスを崩した石像は前へと倒れた。

 派手な音を立て、大理石の床の上で英雄の像は砕け散った。


(……ば、バチ当たりにも程がある事をしてしまった)


 まあ、破壊されたのは、あくまで〈ぼくの世界〉の石像だけど。


 ぼくは、床に散らばる石片の中に落ちているゲイボルグを拾い上げる。

 手にずっしりと重さが伝わる。


(クークラン様、少しの間、あなたの武器をお借りします)


 ぼくらは、ホールの外へ駆け出た。

 講堂の方へ校庭を走りながら、ぼくは唱える。


「ワールドイズノットマイン」


 今、ホールの石像の手からゲイボルグは消失したはずだ。

 この非常時である。槍がなくなっている事を気にかける人なんて……。


「お、おい、ゲイボルグがあーッ!」


 ホール内から、誰かがそう叫んでいる声が聴こえてきた。

 ……さすがに、いたか。あとでこっそり返すつもりだったけど、ちょっと無理そうである。


 ゲイボルグはただの長槍ではない。

 突き刺すと、先端の刃から十数もの鋭い棘が飛び出すらしい。

 一度でも、これを対象者の体内へ深く刺す事が出来れば、甚大かつ決定的なダメージを与えられるだろう。


 果たして、ブベルゼ相手にそれが出来るか?


 普通に考えたらほぼ不可能というほかない。

 槍術を極めた王国随一の達人をもってしても、そんな事は難しいはずだ。


 けど、ぼくはやらなければならない。

 自らとリーファを守るために。


 講堂の正面玄関前までやって来た。

 ぼくは、深呼吸を一度する。

 リーファを見やると、強い目ヂカラでこちらを見返してくる。

 ぼくは頷いてから、講堂内へ歩を進めた。

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