ブベルゼ現わる
教室内には、ちょっと緩んだ空気が漂い始めていた。
すぐに行くと言っておきながら、ルシーフェはなかなかここへやって来ない。
もう十分以上は経過している。魔族とぼくら人族とでは、 「すぐ」の感覚が異なるのだろうか。
「ていうか、何しにここへ来るのかな?」
ノンがそもそもすぎる問いを口にする。
「そりゃ、ぼくらを食べるためでしょ?」
そうなっては困るけど、順当に考えたらそれしかないはず。
「え、けど……」
眉根を寄せたノンが、サーニャを見る。
「ルシーフェは、贄はもう必要ないって言ってたんだよね」
「えっ、そうなの?」
エリイや他の生徒も、サーニャの言葉に頷く。
ルシーフェは、みんなの前でハッキリとそう口にしたらしい。
もちろん、魔族の言う事なんて鵜呑みにするべきではない。
ただ、ぼくらを食べたがっているのは、あくまでブベルゼのはず。
ルシーフェが単独でこちらへ来るのであれば、その目的はよくわからない。
突如、教室中央の床に、幾本もの直線や円弧の光の線が走り出す。素早く自動的に描き出された魔法陣から、光の柱がのぼり立つ。
(また、あの幻獣だろうか?)
先程の魔法陣とは、色やデザインが異なるようだけど……。
光の中に、やけに大きな人影が現れる。
さっきの幻獣ではない。
それがルシーフェでもない事は、輪郭からだけでも一目瞭然であった。
でっぷりと太った身体と、豚の様な顔の持ち主。
ブベルゼ!
みんなが一斉にブベルゼから飛び退く。
「うわああッ!」
「な、なんだ、こいつ」
「きやあーッ」
どうやら、みんなは、ブベルゼを見るのは初めてのようである。幻獣の時とはうって変わった各自の反応が、明らかにそれを示していた。
ブベルゼの巨躯が一歩踏み出すだすと、教室全体が揺れる。
室内をぐるりと見回したヤツの双眸が、ぼくを捉えたのがわかった。
瞬間、ブベルゼは笑みを浮かべ、大きく息を吸い込んだ。
……ま、まずい。
ぼくは本能的に危機を察知して、無意識にすぐ隣にいるリーファの手を掴んだ。
「ワールドイズマインッ!」
教室内からは、ぼくら以外に誰もいなくなる。
咄嗟だったので、リーファしかこちらへ連れて来られなかった。
エリイは……他のみんなは無事なのか?
「
ブベルゼと生徒たちの幻影が現れる。
エリイを見ると、身体のどこにも特に怪我などは負っておらず、とりあえず安堵する。
他のみんなにも、ダメージを受けている様子はなかった。
ただ全員、まるで動かずにいる。凍りついてしまったかの様に止まっていた。
逃げようとしていたのだろう。ヴィクターは駆け出す姿勢のままで固まっている。
どうやら、行動の自由を奪う技をブベルゼは繰り出したらしい。
じっと動かないみんなの真ん中で、ブベルゼがゆっくりと首を動かして室内を窺い見ていた。
「ワールドイズノットマイン」
ブベルゼだけが、こちらを向く。
即座に、再び息を大きく吸おうとするブベルゼを、ぼくは大声で留める。
「まて、お前の目的はぼくだろう?」
「ソウダ。オマエハ、俺サマノ贄ダ」
「ぼくは、逃げたりはしない。お前と一対一で対決してやるよ」
「相変ワラズ、冗談ノスキナ奴ダ」
「本気で言っているんだ。だから、他のみんなには手を出すな」
「オマエノ指図ナド、ウケナイ」
「ワールドイズマイン」
ぼくはブベルゼの背後の位置へ移動する。
「ワールドイズノットマイン」
気配を察知したらしく、ブベルゼは即座にぼくを振り向く。
「お前から逃げるくらい、ぼくには簡単だ。もし他の生徒に手を出せば、ぼくはこの場から消える。二度とお前のもとには現れない」
「……」
「ぼくと一対一で対決しろ」
「イイダロウ」
ぼくは窓の外に見える、校舎の斜向かいの四角い建物を指さす。
「十五分後にあの講堂へ来い」
「ソンナニ待テルカ、今スグ、ハジメサセロ」
「ならば、ぼくは姿を消すのみだ」
「……ダッタラ、ソノ娘モ連レテ来イ」
ブベルゼは、ぼくの腕にしがみつくリーファを指さす。
「ぼ、ぼくだけでいいだろう?」
「ソノ娘モ、俺サマノ贄ノハズダ」
「彼女は勘弁してあげてくれないか」
「イヤ、コレ以上ノ譲歩ハデキヌ」
ぼくはリーファを見る。
力強い目でこちらを見つめながら、彼女は頷く。
ブベルゼとの会話をどこまで理解できているのかはわからない。
けど、その顔には強い覚悟が滲んで見えた。
「わかった。ぼくら二人でいってやる」
ブベルゼの顔に、ニヤリとした笑みが浮かぶ。
腰を抜かしたのか、床にへたりこんでいるヴィクター。
ブベルゼは、彼に歩み寄るとその首根っこを掴んで持ち上げる。
「コイツハ人質トシテ連レテイク」
「や、やめろおー」
両足をバタつかせて叫ぶヴィクター。
いや、そいつには人質としての価値なんてないけど……。
「十五分後ダナ?」
「ああ」
「一秒デモ遅刻スレバ、コノ人質ハ捻リ潰ス」
ヴィクターは眼を見張ると、必死の表情でぼくへと訴えかける。
「おい、ちゃんと来いよ。遅れずにッ!」
うーん、どうしようかなあ……。
「コイツダケデハナイ。生徒全員、皆殺シニスル」
まあ、それは困るから、定刻通りに行くけど。
ブベルゼは、ヴィクターを肩に抱えると、窓辺の方へ駆け出す。
そのまま、開いた窓から校庭へ飛び降りた。
ずっしいーん。
校舎全体が激しく揺れる。
どしどしと足音を轟かせて、ブベルゼの巨躯は講堂の方へと走っていった。
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