愚かな学年主任の受難


 かつて味わった事がない程の緊張をおぼえつつ、ザックスは廊下を急いでいた。


 贄たちの逃走を許す。しかも、魔族たちの見ている目の前で。

 おそらく、前代未聞の大失態である。

 さらに贄の一人はスキルを隠し持っていた。


(まあ、どうせ逃げるくらいしか使い道のないカスみたいなスキルだろうが)


 当然、学年主任であるザックスの責任は重い。

 ……あの疫病神めッ!


 だから、入学者の「平民枠」など即刻廃止すべきだったのだ。

 本来であれば、スキルなしの無能な平民が、我が校へ入学できるはずなかった。


 闘技場での一件の後、学園へ戻るよう指示されたザックスは唯々諾々それに従った。

 教員室で待機していると、直ちに学園長のもとへ来るよう命じられた。


 学園長室へたどり着いたザックスは、ド緊張の中で扉をノックする。


「入れ」


 声の主は、フリージア学園長ではなかった。

 ドアを開けたザックスは、呼吸が完全に止まりそうになる。

 フリージア学園長は、緊張の露な面持ちで窓辺に佇んでいる。

 代わりに、我が物顔で学長のデスクに腰掛けているのは魔族の女。闘技場にも来ていた、黒い角と羽を持つ……。


「貴様に問う」


 ルシーフェは前置きもなしに、ザックスへ向けて言い放つ。


「は、はひッ」

「ワイズ・ブルームーンのスキルは何だ?」


 ザックスは直立したままブルブルと首を振る。


「し、知りません」

「まことか?」


 コクコクと何度も頷くザックス。

 嘘ではない。当人やその親からも、ワイズはスキルを持たないと知らされてきたし、ずっとそう思っていた。


 ザックスは必死に頭を回転させる。

 この魔族の女にうまく取り入りさえすれば、あるいは助かる可能性も……。


「わ、悪いのは、ぜんぶワイズ・ブルームーンなのです。あの者がスキルの隠匿さえ行わなければ、このような事態には……」

「ならば、そのワイズをここへ連れて来い」

「て、手配書を発布すれば、きっとすぐに……」

「否アッ!」


 ルシーフェが剣幕で言葉を遮る。


「ひッ」


 ザックスは思い切り身をすくめた。


 人族の贄らに、みすみす逃走を許す。

 魔族にとってそれは受け入れ難い屈辱であり、極めて恥ずべき失態だ。

 誰にも知られてはいけない。人族らにも、魔族の同胞たちにも。

 ルシーフェの傲慢プライドがそれを許さなかった。

 現段階で闘技場での事態を把握している者は、ごく限られている。その者たちには、固く口止めをしておいた。


「か、代わりの贄でしたら、ご用意いたしますが」


 へつらう様な笑みを見せるザックスを、ルシーフェは睨みつける。


「お、お望みでしたら、三人、四人……いや、何人でもッ」


 必死な形相のザックスに、ルシーフェは強い嫌悪感を覚える。

 この男から伝わるのは、己だけは助かりたいという浅ましさのみ。

 教師としての矜持プライドすらないのか?


「贄はもうよい」


 事実、兄上ブベルゼの食欲はもはやすっかり失せたようである。


「で、では、どうすれば?」

「我を刮目せよ!」

「は、はひッ」


 ザックスはこれでもかと両目を見開く。


 ルシーフェは、ブツブツと詠唱を始める。


 彼女の座る机周辺の床上に幾何学模様の魔法陣が現出して、淡く白い光を放つ。

 突如、魔法陣から閃光が放たれる。目を開けていられない程の強烈な光……。

 それが収まり、ようやくザックスの視界が戻る。


 すると、目の前に異形の生物が現れていた。


 鷲のような頭部。

 獰猛な肉食獣を思わす胴体。

 その背からは黒くて大きな翼……。


「クワアああぁッ!」


 耳をつんざく不吉な鳴き声を発して、幻獣グリフォンは剣の様に鋭い嘴を天井高く振り上げる。


「ひいえええッ!」


 ザックスは、その場で腰を抜かしてしまう。

 く、喰われるッ!


 が、次の瞬間、幻獣グリフォンは彼の眼前から煙の様に消失する。


(……ま、幻だった?)


 安堵するのも束の間、ザックスは右手首の辺りに違和感を覚える。……あ、熱い。


 上着の袖をめくり確認する。そこに、今、目にした幻獣の鉤爪を思わす黒い痕が刻まれている。まるで、手首をガッチリと掴むかの様に。


「貴様に三つの誓約を課す」


 ルシーフェは、右手の指を一本ずつ立てながら告げる。


「ひとつ、誓約とその内容については一切多言無用。ふたつ、闘技場での出来事についても他言してはならない。みっつ、只今より全身全霊でもってワイズ・ブルームーンを捜索せねばならない」

「せ、誓約?」

「破れば、貴様は印の刻まれた身体の部位を失う」

「ひいいッ!」


 ザックスは必死に右手首の爪痕を擦る。当然、そんな事で【誓約の証】が消えるはずもなかった。


「さっさと探しに行け」

「な、なぜ、ワイズ・ブルームーンを?」


 ついさっき、ルシーフェ本人が「贄はもう不要」と言ったばかりである。


「あの者は貴重な存在だからだ」

「……へ?」

「何をしている。右手をなくしたいのか?」

「は、はひぃッ」


 ザックスは大急ぎで、部屋から駆け出て行く。


 無論、ルシーフェはさして期待などはしていなかった。

 あの男ひとりで、そう容易くワイズを発見できるとは考えにくい。


 ワイズを捜索するのに、最も適している者たちといえば誰か?


 ルシーフェは、フリージアへと向き直り告げる。


「面会したい者らがおる」

「だ、誰です?」

「クラスメートだ」

「え?」

「ワイズ・ブルームーンのクラスメートたちに、我を会わせよ」


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