闘技場
教室には、ぼくとリーファのみが残された。
リーファは席についたままボーッとしている。何が起きているのか、まるきり理解できていないのだろう。
黒板に記されているのが、自らの名前である事さえも。
エリイの泣く声が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
突然、教室のドアが乱暴に開け放たれる。
五、六人の軽鎧を纏った男たちが、ズカズカと入室してきた。
「がうがう、がうッ!」
リーファは彼らから害意を察したのか、激しく吠えた。
兵士たちはそんな彼女を見て、訝しそうに眉をひそめる。
「よせ、リーファ。抵抗しても無駄だ」
「がるううぅ」
ぼくは兵士のひとりからを腕を乱雑に掴まれ、鉄製の手枷を嵌められた。
こんな物つけなくても、この状況では逃走などまず不可能だろう。
リーファもぼくと同じく、手首に枷を嵌められている。
ぼくらは教室から連れ出された。まるきり、犯罪者の扱いである。
外まで連れてこられると、校門前に停められていた馬車の客車へ押し込まれた。
ぼくとリーファは、各々、二人の屈強そうな兵士に挟まれて対座させられる。狭い客車の中、窮屈な事この上ない。
移動中、リーファはずっと身体を丸めて小さく震わせていた。
事態が理解できず、怖いのだろう。
(理解できていたらもっと恐ろしいだろうけど)
馬車は、およそ三十分走行して停車する。
下車させられたぼくの目に飛び込んだのは、そびえ立つ巨大な壁面だった。頭を真上に向けなければ頂点が見えない程の高さだ。
無骨な円柱に支えられた外壁は大きく湾曲しているのがわかる。
建造物全体が、巨大な円形である事が窺えた。
ここが何処であるか、確認するまでもない。
〈
ぼくとリーファは、建物裏手の通用口へと誘導される。
薄暗く無機質な石造りの通路を進まされ、大きな鉄扉の前へやって来た。
魔導力で制御されているらしい扉が、自動的にゆっくりとせり上がっていく。
ぼくらの目の前に、土の地面の広々とした空間が現れる。
楕円形をしたその広場の中央付近まで、ぼくとリーファは連れてこられた。
ようやく、ぼくらは手枷を外される。ここまで来れば、もはやどう足掻いても逃げられないと判断されたのだろう。
ガッシャアーンッ!
重々しい金属音を響かせ、背後で鉄扉が閉まる。
よもや、自分がアリーナに立つ日が来るとは思ってもみなかった。
精強な剣士でもなければ見られない景色だ。
取り囲む壁は十メートルくらいあり、いる者に強い圧迫感を与えてくる。
五千人超は収容できる客席に座るのは、今はせいぜい三十名ほど。
王国の役人や関係者がほとんどだろう。
その中にぼくの知る顔がふたつあった。
その隣に座るのは筋肉質で短髪、厳つい顔つきの中年男。学年主任のザックスだ。
恐らく、学園を代表して見届けに来ているのだろう。
学園長とは話した事すらない。ザックスはぼくらの剣術の授業も受け持っているので、よく知っている。
はっきり言って、嫌いだ。
きっと向こうもぼくを毛嫌いしている。授業中、ぼくに対する当たりがやたら強かった。
フリージア学園長は、硬い表情でまっすぐこちらを見据えている。
一方のザックスは、少しニヤついているように見えた。
(無能者が学園からいなくなるのが、そんなに嬉しいのか?)
アリーナに、重厚な音が響き渡る。
ぼくらが入ってきた扉の対面に、もう一箇所鉄扉が設置されていた。
それがゆっくりとせり上がっていく。
奥から、やけに高低差がある二つの影が現れる。
それらは人……ではなかった。
ぼくは魔族を目にするのは初めてである。
それでも、彼らがぼくらとは異なる存在である事は一目瞭然だ。
ひとりは、ぼくの倍以上は背丈のある巨漢。
でっぷり太った身体に、上等そうな生地の灰色のチュニックを纏っている。
まさしく豚を思わせる顔面の持ち主である。
もう一方は、女だ。
背はぼくよりも、少し高いくらい。
魔族とはいえ、息を呑むくらいの美貌の持ち主だった。
白く長い髪、側頭から二本の黒い角。
純白のドレスに身を包んでおり、大きく開いた胸元から豊かな胸の谷間が覗く。
背中から黒く大きな翼を生やしている。
ふたりが接近すると、リーファはぼくの背後へと隠れた。
「こ、怖いのか?」
「……こあい」
ぼくだって、ムチャクチャ怖い。
目の前まで来ると、女の魔族は品定めする様な視線をぼくらへ向けてから、肥満男と何やら小声で言葉を交わす。
女の背中の翼が、バサッと大きく広げられる。
羽ばたき浮上すると、女は観覧席の最上段まで飛行して席に着座した。
肥満体の男がさらに近寄ってくる。
どうやら、こいつがぼくらを喰うらしい。
「俺ハ、ブベルゼ。オマエラ、名ヲ申セ」
魔族が、人族と共通の言語を用いるのは知っていた。ただ、ぼくらとは異なる独特のイントネーションである。魔族訛りというやつか。
「な、名前なんて聞いてどうする?」
「ソウシタ方ガ、ヨリ深ク味ワエル」
「ぼ、ぼくは自分が食べるパンに、名前を尋ねたりはしない」
「……ナカナカ、面白イ冗談ダ。ケーキノ苺ハ、最初ニ食ベルノカ?」
「な、なんの話だ?」
「好物ハ先カ、後カトイウ話ダ」
「……好きな物は後まわしにする」
「俺ハ、好物ガ先ダ」
ブベルゼは、ぼくを指さす。
「ダカラ、マズ、オマエヲ喰ウ」
「ッ!」
つまり、ぼくの方が美味しそうって事?
……ま、魔族の感覚はよくわからない。
ブベルゼが、ぼくとの間をさらに詰めてくる。
咄嗟にぼくは真横へ走り出す。
が、あっさりとブベルゼが、ぼくの行く手に立ち塞がる。
巨体に似合わず、恐ろしく俊敏だ。
ブベルゼの口の端から、滝の様な涎が滴り落ちる。
魔族の目の前で、
それがいかに危険な行為であるかくらい、重々承知している。
けど、このまま何もしなければ、ぼくはただ喰われるのを待つのみだ。
ならば、使うしかない。
ブベルゼが、ぼくのすぐ眼前まで来て見下ろしてくる。
「逃ゲ場ナド、ドコニモナイゾ」
「〈この世界〉にはね」
訝しそうにブベルゼは眉根を寄せる。
見せてやるよ、ぼくのスキル。
「ワールドイズマインッ!」
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