二十七話 そうやって、いつだって、彼は


 心の中にはいつも天秤がある。

 そうするべきか、しないべきか、常により良い重さを量っている。

 生きるということもそうだ。

 己は生きるべきなのか、死ぬべきなのか。心の天秤はゆらゆらと揺れ、傾いていた。


 死は安寧である。

 よもや罪人の己が天国に行けるなどという楽観は持ち合わせていないが、それでも現世の責務を果たさずに自死することはできなかった。

 せめて、罪滅ぼしを。

 家族を殺めてしまったこの畜生に永劫の苦しみを。

 報われることはなく。ただただ、孤独に朽ち果てるがいい。


 そう思っていた。

 しかし望みは遠く、既に失われ。

 己は生きることすら罪深く。尊ぶべきものを穢した己にはもう、何の価値もなかった。


 無価値とは悪である。

 悪は葬り去らなければならない。皆のため、隣人のため。

 

 天秤が傾く音がする。どこか懐かしいとも思った。 

 忘れてしまったが、以前にもこうなった覚えが僅かにある。

 どうでもいいか。

 近く、消える命だ。


「……は? え、ころ……へ?」

「手段は問いません。刺殺、窒息、毒殺、放火、お好きな方法をお選びください」

「え、ぇ、え……?」


 未だ状況が掴めていないのか、管狐様は視線を彷徨わせ、疑問符を口にしている。

 ……少し性急だったか。これだから己はいけない。

 逸る心を落ち着かせ、先程起こったことを説明する。


「すみません、急過ぎました。しかしながら左程余裕があるわけでもありません。要点だけをお伝えしますゆえ、ご容赦ください」

「ちょ、ちょっと、お前」


 何故か不安そうに見上げる彼女を、申し訳なく思いつつ無視して口を開く。


「先程、この家に起こっている異変の原因を見つけました」

「……へ!?」

「ああいや、これでは語弊がありますね。見つけたというよりは、その可能性が一番高いと言うべきでしょうか」

「か、可能性? 一体、貴方は何を……」


 これ以上は見せたほうが早いだろう。

 床に落ちている金槌を再度持ち上げる。少し軽くなったこれでも、役目は十分に果たせるだろう。

 満身の力を込め、そのまま側頭部に向かって振りぬく。


 ガギン! 


「ばっ、な、何して……!?」

「よくご覧ください」

「……っ?」


 期待などしていなかったが、それでも辛い現実を直視するのは耐え難い。

 なんて事はない。

 半分になった金槌の平は己の側頭部より少し前で止まっていた。

 そして、崩れる。


 ゴトゴト、ゴト。


「な、なんですか、これ……」

「先程も同じような行為をしましたが、結果は同じでした。どうやら俺は、あの本と同じように、傷付くことが許されていないようです」

「っ」


 管狐様が息を飲む。

 それを横目に、はしたなくも己は舌を出した。

 このまま両顎に力を入れればそれなりの損傷が期待できるだろう。

 思考は一瞬、即座に実行した。


「ぅ、ぁ……」

 

 だが、できない。

 顎の力が操られたように抜けて、だらりと下がる。


「……無理か。やはり第三者の協力が不可欠ですね」

「ぇ、あ、待って。ま、待ってください」

「凶器による殺害は難しいかもしれません。もっと確実な、手堅い方法があるはずです。好きなやり方と言ったのに、すみません」

「ま、待って……」

「……酸素の供給を断つか? いや、万が一にでも紬さんの部屋を焼失させるわけにはいかない。だが管狐様であれば或いは……」

「ま、待てと言っているのです!!」


 はっとして彼女に向き直る。

 協力を仰ぎながら礼を欠くなど、あまりにあるまじき行為だった。


「すみません。自分ばかりが話してしまい。管狐様には酷い無礼を」

「そ、そんなことはどうでもいいです! あ、貴方は、貴方はどうして、さっきからそんな……」

「はい?」

「……っ」


 彼女は少し息を吸い、どこか不安げな瞳を揺らして口を開いた。


「……こ、殺すとは何なのですか? 燃やすとは……一体どうして、そんな悍ましい考えを、貴方は」

「……? どうしてと言われましても」


 よくわからない。

 だって、俺は。


 俺は。


「俺はもう、生きてはいけないので……」

「……!」


 それだけだった。

 あの御方が未だ俺という汚穢に執着しているのならば。

 俺はきっと、生きてはならないのだ。


 何かが変だった。

 何かがおかしかった。

 いつからか。

 どこからか。

 きっと、最初から全部そうだった。


 故に修正が必要だ。

 

「……もう一度、お願い申し上げます」


 彼女のよりよい未来のため。

 これから永劫を生きる、愛しき御方のため。


 俺は伏して、この首を差し出す。


「どうか……」


『兄さん』


 脳裏に艶やかな黒髪が過る。


 ……。


 いや、いい。

 これでいいんだ。

 あの子ならきっと、大丈夫だ。

 彼女は賢い子だから、分かってくれる。


 ……すみません。

 約束を、破ってしまって。


「管狐様」

「っ、ぁ……」


 一歩下がった彼女に、一歩近づく。


 俺は言った。


「俺を、殺してください」














 管奈は分からなかった。

 どうして目の前の男が自分に殺人を願うのか。

 ましてや怨恨による他者への攻撃でなく、自らを殺せと。


 一体何を言っているのだ。

 だって貴方はさっき、あんな風に笑っていて。自分を揶揄って、楽しく、笑って……。


「俺を、殺してください」


 なんで?

 どうしてそんなことを貴方は言うの?

 どうしてそんな、悲しそうな顔で。

 

「――」


 悲しそうな、顔。 

 貴方、もしかして、いつも。

 

 いつもそんなこと、考えてたの?

 

 ご飯を食べてるときも。

 掃除してるときも。

 あの妹といるときも。

 ……自分と、話すときも。


 ああ、ああ、そんな。


 そんなの。


 そんなの。

 

「そん、なの……っ」

「……?」


 全くもって、気に入らない。


「嫌に決まってます、この愚か者が……!」


 殺せ? 殺せだと、ふざけるな。

 自殺できないから殺してくれなど、ああ、ああ、腹が立つ。腸が煮えくり返って喉から吹き出そうだ。

 こんなにも怒りを覚えたことはない。

 大体にして、この男は……!


「そもそも! 何で生きちゃいけないって考えになりやがったんですか! 今にも死にそうな顔して、馬鹿なんですか!?」 

「それは……」

「楽になろうとするな!」

「!」


 自分でも支離滅裂なことを言っている自覚はある。

 だが、散々振り回されたのだ。こっちだって勢い任せで言ってやる。


 ああ腹が立つとも。

 自分を簡単に使える首吊り用のロープみたいな扱いをして。この男は何も分かっていない。

 自分にも心があるのだ。美味しいものを食べれば嬉しいと思うし、嫌なことがあれば落ち込むのだ。

 それがこの男は、まるで分かっていない。


 なんたる無知。ああ腹が立つ。

 そして何よりも、苛立たしいのは……!


「いいですか!? 別に貴方が過去に何があったとか、そんなことはどうでもいいんですよ! 興味もないし、聞きたくもない!」

「……はい」

「でも、でも! それでも……!」


「他者に殺人を乞うなんて、間違ってもするなぁ! この大馬鹿ぁ!」

「……ぁ」


 自分を殺してくれと頼む彼の顔には、何の気負いもなくて。

 浮かぶ悲しさは、どこか違う場所に向いていて。 

 ちっとも自分を見てはくれない。


 くそったれ。

 こいつは本当に、自分が何も感じないとでも思っているのか。

 殺しても何も感じないと、そんなにも冷たい妖怪だと思っているのか。


 ……少しだけ、理解しあえたと。

 そう思ったのは、己だけなのか……。


「ぐすっ、ぅっ。わ、私が貴方に、冷たい態度を取っていたことは、あ、謝ります。でも、ぐす、殺してなんて……そんなこと、言わないでください……」

「……俺、は」

 

 自分がまだ、ただの山狐だったころ。

 口の中で冷たくなっていく鼠の体が、とても怖かったことを覚えている。

 周りのみんなや、お父さんお母さんは平然としているのに。なぜか自分だけはそれができなかった。

 命を奪うということが、怖くて怖くて仕方がなかった……。


 だから木の実を食べて食い繋いだ。草を食べて、木の根を齧って。

 衰えていく筋肉に恐怖を感じながら、それでも命を奪うことはできなかった。

 自分は結局、弱い一匹の狐だった。


「ご、ごめんなさい。辛く当たって、ごめんなさぃ。すん、わ、私、天狐様を取られるかもって、怖くて、怖くて……」

「……」


 弱いものは奪われるのだ。

 いつだってそうだった。兄妹が人間たちに殺されたときも、他の狐に縄張りを取られたときも。

 弱いから取られたのだ。

 

 嫌だった。

 このまま死んでいくのが嫌だった。何も残せないまま、消えていくことが嫌だった。

 そんな願いが通じたのか、それとも元々自分にその素質があったのか定かではないが。


 自分はいつの間にか、管狐となっていた。


「わ、私には、あの方たちしかいないの……。弱くても、格が低くても、一緒にいたいの……。だから、だから私、しっかりしなきゃって……」

「管狐様……」


 あの方たちに出会えたことは、自分の狐生において最大の幸運である。

 それは人を殺せない臆病者の自分にとっての救いであり、希望だった。

 

 そう、自分は妖怪になった今でも、人を殺せない。

 動物は誰かが調理したものしか食べれないし、害せない。


 そんな弱い自分が、どうして天狐様を守れるだろう。

 本当は怖くて仕方がなかった。 

 あの天狐様をどうにかしてしまう人間など、恐ろしくて仕方がなかった。


「ごめんなさぃ。貴方がとても、怖くて」


 でも。


「でも、会ってみたら、全然そんなことなくて。私、もう分からなくなって。口ばっかり先に出て、それで、それで……」


 一生懸命掃除する貴方を見た。

 朝早くからご飯を作る貴方を見た。

 毎日鯉に餌を与えている貴方を見た。

 

 こんな弱い自分を尊んでくれる、貴方を見た。


 ……そんなの、そんなのさ。

 嫌いになれないよ。

 いくら憎もうとしても、もう駄目だよ。

 だってあんなに沢山酷いこと言ったのに。あなたはいつも、申し訳なさそうに謝って。

 上を見ることしかできなかった私に、そっと寄り添って。


「ごめんなさい、ごめんなさ、ぃ。っぅ、あぁ、あぁぁ……!」


 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 今までのこと、いっぱい謝るから。

 だから、だから……。

 

「殺してなんて、言わないでよぅ……! えぐ、私、貴方を殺したく、ないよぅ……!」

「……」


 ぽろぽろと、大粒の涙が流れる。

 何かが決壊したように、感情の濁流が壊れて零れた。


「ひぐ、えぅっ、うぇええええん!」

「……」


 終いには、大声を出して泣いて。

 憐れみを誘う涙を流して。

 彼はその様を見て、心を痛めた。


 少女が泣いている。

 泣かしたのは、自分のせいだ。自分の身勝手な感情で、彼女を泣かせてしまった。

 視線の先には茶色の狐がいる。


 彼は彼女だけを、見つめている。


「……管狐様」

「すん、すんっ。うぅ、んぅ?」


 彼がその名を呼んだ。

 狐もまた、視線を彼に向けた。


 媚びた表情だ。

 どこまでも庇護欲を駆り立てる、浅ましい雌の顔だ。


「管狐様、俺は――」


 彼が何かを言おうとしている。深い感情を込めた言葉を、届けようとしている。

 彼が救われようとしている。

 

 自分以外の、存在で。


「――ぁ」


 卑しい狐が、目を見開いて呟いた。



「ごめんなさい、天狐様」



 ああ、許さない。





  

 どちゅり。



「ごぽっ」


「――は?」


 

 ぐちゃ。


 ずろぉ……。


 べちゃ。



「……」

「は?」


 銀色の尾が赤黒い血に濡れて輝く。

 女狐は斃れ、彼は間の抜けた顔をした。なんとも可愛らしい顔だ。

 この顔が見れただけでも、この淫売を潰した甲斐がある。


「……」

「くだ、きつね、さ、ま……?」


 む。


 その反応はちょっと、いけずではないだろうか。

 折角の再会だというのに、他の者に目を奪われるとは何事だ。

 

 腕を伸ばして彼の頬を撫でる。

 付着した血も拭って……うん、これで大丈夫。綺麗になった。


「あ……ぁ?」

「くふっ」

 

 孝仁。


 孝仁。


 孝仁孝仁孝仁。


 あぁ、何度頭で繰り返したことだろう。

 何度自分を慰めたことだろう。

 何度、切なく涙を流したことだろう。


 ……だがそれも、今日で全部終わる。


「久しぶりじゃのぅ、孝仁。元気にしておったか?」


「……天狐、様?」


 気付けばもう日が落ちていて。

 窓からは月光が部屋を淡く照らし。

 あの日のように。

 銀色の髪を留める、だけが怪しく光っていた……。

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