二十八話 閉じゆく世界
もう、二度と会うことはないと願っていた。
俺という汚らわしき存在を忘れて、清らかなる生を送ってほしいと。ただ切に願っていた。
……信じていた。
「んふ、くふふ、ふふふふふふ。あぁ、ようやく会えた。あぁ、永く、永く待ちわびたぞぅ、孝仁」
「……っ」
知らず、手に力が籠る。
彼女の笑みはまるで晴天に咲く花のようであり、上気した頬は無上の愛らしさを秘めていた。
天狐様が笑っている。幸せそうに笑っている。
赤く血濡れた尾を、ゆらゆらと揺らしながら。
「なぜ、だ」
「んにゅ?」
「な、なぜ……ぅ、あ、どうして……」
足にじっとりとした温もりが伝わる。靴下から染み込んだ液体は、赤い色をしていた。
見間違うはずもない。
これは、あぁ……なんてことだ。
「く、管狐様が……ち、血が……」
「……」
血が、血が流れている。先ほどとはまるで違う、血溜まり。
やめてくれ。そんな、どうかやめてくれ。
動いてくれ、頼むから。起き上がって、なんてことはないと笑ってほしい。
消えないでほしい。
もう俺の目の前で、誰も傷付かないでほしい。
異常な状況が混乱を招く。
脳は既に冷静な判断を拒み。
「治療を……早く、病院に……」
ふらふらと夢遊病者のように。おぼつかぬ足取りで倒れ伏す彼女の元に向かう。
悲しげに泣いていた、あの子の元に……。
「……なぁ、孝仁」
「へ?」
「なんで天音を、見てくれないんじゃ?」
ぞわり、と背筋が粟立った。
言葉に籠った無感情と、あまりに純粋な笑顔が不釣り合いすぎて。一瞬、本当に彼女が言葉を発したのかさえ分からなかった。
……優先すべきは、彼女の方だったか。
そのことに気付いたころにはもう、全てが遅かった。
己は何もかも、間違えてしまった。
「……これのせいか? 孝仁は、これのせいで儂を無視するのか?」
「なっ、お、お止めください!」
ザリ、と彼女の
恐ろしく嫌な予感がした。
取り返しのつかないことが起きると、確信した。
故に叫ぶ。
「あ、貴女様を疎かにしてしまったことは、徹頭徹尾俺のせいです。俺の、浅慮が責任です。管狐様は、何も、なんの責も……!」
「……んー」
「お願い申し上げます。どうか、その御足を、どうか」
「……」
彼女の表情からは何も読み取れない。
ただ深い藍色の瞳が己を見つめ、何かを考えているようだった。
背筋に冷たい汗が流れる。早く、早く説得しなければ。
地に伏す管狐様の命は刻一刻と失われていく。いかに妖怪とはいえ、腹を貫かれて無事なはずが……!
「うむ。やっぱり、駄目じゃな」
「なっ!?」
なぜ。
「だって孝仁、こやつのことばかり考えてる。天音がおるのに、ずっとこれのことばっか」
少し拗ねたような表情で。
「そんなの、ずるい」
「――」
……どうして、失念していたのだろうか。
管狐様が今こうして、倒れているのは。
紛れもなく、天狐様によるものだったのに。
それに気付いた瞬間、己の口から出たものは説得の言葉ではなく。
純粋な疑問符であった。
「……な、ぜ?」
「ん?」
「く、管狐様は……貴女を、慕っておいででした。彼女には、貴女しか……貴女たちしか、いないと……」
涙ながらにそう訴える彼女は、とても切なそうで。
心から、皆さんを想っていて。慕っていて。
だのにどうして、貴女はそんな。
「同じじゃよ、孝仁」
「へ?」
「だって天音には、孝仁しかいないんじゃもん」
「……は?」
俺しか、いない?
否、否。そんなことは決して。
「よ、妖狐の皆さんが……管狐様がいらっしゃるでは、ありませんか」
「……あれらは天音を見ておらん。あれらはただ、天狐という偶像を見ているだけにすぎぬ」
彼女はそう言って、初めて俺から視線を外し、続けた。
「結局、あれらに必要だったのは圧倒的な力と権威よ。妖の時代が終わった今、生き残るにあたって、
「人間達にも、周りの妖怪にも牽制となるからの」
「実際、儂が妖狐の長と祭り上げられてそれなり経つが……種族単位の抗争は一度も起きんかった。ただの、一度もな」
目を細める。
おかしくてたまらないとばかりに、嗤う。
「くふふ、馬鹿な話よの。千年引き籠っておっただけの狐一匹に怯えよって」
「まっこと、愚かな話じゃ」
「……」
「未来を見た」
「もしもの話。或いはの結果。神の気まぐれによる、賽の目」
藍色の瞳が遠くを見る。
どこか寂し気につぶやいた。
「……天狐でない儂は、一人じゃった」
「あの山で一匹、ずぅっと孤独に生きておった」
「それを辛いとは思わん。それを悲しいことだとは思わん。だが……」
今一度、彼女は目を細める。
そして何かを……濁り固まった何かを吐き出すように、言った。
「今まで儂の周りにいた存在が、天音ではなく、天狐という理由で集っていたのが……少し、寂しかった」
「あれらは天音なぞいらんのだ。求めているのは、慕っているのは結局、儂の力だけじゃった……」
ぽつりと呟かれたそれはきっと、彼女の本心なのだろう。
全能に近い彼女だからこその苦悩、寂寥。
なまじ見えすぎてしまう彼女は、可能性の全てが真実になってしまう。
言わなければならないと思った。
たとえ不相応でも、俺の一言で彼女が僅かでも救われるのならば。彼女の寂しさを否定したかった。
しかし。
「……そんな、ことは」
ないと、何故俺が言い切れるのだろう。
何の力も持たない俺が、どうして違うと否定できるのだろう。
すでに彼女は答えを出してしまっている。そしてそれを覆す真実を、俺は与えてやれないのだ。
「……」
……妖狐のみなさんは、ちゃんと天狐様を見ている。
慕っているのは、貴女の人格である。
貴女は決して孤独ではない。
そんな口先だけの慰めを、どうして。どうして言えようか。
……傲慢が過ぎる。
俺は結局、最後まで誰も救えない、役立たずの屑だった。
「……優しいのぅ、孝仁は」
「っ」
胸が軋む音がした。
違う、優しくなどない。断じて俺は、善良な人間ではない。
今、この状況がいい証拠ではないか。真に善良な人間ならば、彼女を悲しませなどしなかっただろうに。
その勇敢なる心を持って、彼女を救えただろうに。
途方もない無力感が襲う。
この世で最も価値のない存在は俺なのだと、そう実感させられた気がした。
いつだってそうだ。
俺は――
「いいや、孝仁は誰よりも優しい子じゃ。それは儂が、一番よく分かっておる」
「て、天狐様っ?」
不意に思考が途切れる。
鼻腔を通る、蕩けてしまうほどに甘い花の匂い。顔面の表皮から感じる、滑らかな着物の感触。
遅まきながら理解する。
俺は今、彼女に頭を抱きしめられているのだ。
「よぅし、よし。今までよく頑張ったのぅ。いい子、いい子じゃ」
「ぁ、ぐ……お、おやめください。このような、行為は、あまりにっ」
「んーん、だめじゃ。孝仁は今までいーっぱい傷ついたから、その分ずぅっと甘やかさねばな」
「く、ぁあ……っ」
今すぐに退くべきであると理性が警鐘を鳴らしている。彼女を穢してはならないと叫んでいる。
だのに、動けない。
頭を優しく撫でるこの指が、掌が、どうしようもなく俺から抵抗力を奪っていく。
溺れたいと思ってしまう。
優しい囁き声が、ぼそぼそ耳を擽った。
「なぁ、孝仁。そんなに自分が憎いか……? 母を殺したということが、許せぬか……?」
「っ、な、なにを……」
「くふふ、天音にはぜーんぶお見通しじゃ。何があったのか、これからどうするかも、なぁ」
「……!」
僅かに意識が浮上する。
霧がかかったような頭が、少しずつ鮮明になってくるのを感じた。
天狐である彼女が己の過去を知っている。それ自体に不思議はない。ああ確かに、この御方であればそのようなことも可能であろう。
だが不可思議なのは、己の記憶。
そんなわけがないというのに。あり得ないというのに。
俺は数度、彼女に過去を告白した覚えがあるのだ。
「あ……ぁ?」
「くふ、くふふふ。思い出してきたか? いや、思い出すというより、明るみになったと言ったほうが適格かの」
「お、俺は。俺は、確かにあのとき……!」
「ああ、そうじゃ」
覆い隠された何枚もの層が剥がれる。剥がれ、崩れ、覆っていたものが露わになっていく。
それは必ずしも鮮明な記憶ではなかった。擦り切れて殆ど思い出せない記憶もあれば、断片的なシーンもあった。
笑い、悲しみ、後悔し、絶望し、喜び、憤怒し、諦観する。
生きてきたはずの中で記憶にない映像が流れ込んでくる。ありえた未来、もしもの結果、或いはの結末。
しかしいずれに、いずれにせよである。
数多の可能性の中でなお、変わらぬ最後があった。何層にもある記憶の最後の瞬間。
元宮孝仁は天狐様の提案を断り、自害を行った。
「お前さんは何度も何度も何度も何度も……儂の目の前で、死んでしもうたよ」
「はっ……はぁ、はぁっ」
「舌を噛んで、車に轢かれて、屋上から飛び降りて、首を吊って、体を燃やして、包丁を刺して、毒を飲んで、川に溺れて」
「ぅ、ぐぁ、ああぁっ!」
蘇ってくる。熱にも似た灼熱の痛みが。
思い出してくる。少しずつ酸素が失われ、冷えていく感覚が。
内臓が飛び出す痛みが。迫ってくる地面が。体中を蝕む毒の苦しみが。
リフレインする。何度も、何度も。
死の、感覚が……。
「か、はっ、あ、ぁ……っ」
「痛かろう? 辛かろう? あぁ、なんと可哀そうにのぅ」
「あが、ぅ、く」
「よし、よし。もう大丈夫じゃ。儂がおるからの。もうなーんにも心配せんでもよい。怖いことなど、何もないぞぅ」
……自分の命を惜しいと思ったことはない。そんなものはあの日、倒れ伏した母の亡骸と共に喪ってしまった。
だが、だとしても。俺は依然として生きる物であり、いかに自己を憎んだとて、痛みという電気信号を拒むことはできなかった。
それはとても単純な事実だ。生物ならば備わっていて当然の機能だ。
痛いものは危険で、恐ろしい。故に遠ざけ、二度とそんな目に遭わないようにする。
あまりに当たり前の本能。
そのような何億年と確立してきた機能を、俺のような三十年にも満たない塵がどうこうできるはずもなく。
俺は
「はぁ、ぁ、はぁっ、はぁ!」
「うん、うん、怖かったのぅ。暗くて、寂しかったのぅ。ほれ、ぽん、ぽん……ぽん、ぽん……」
「ぅ、あぁ……」
温かい。
頭を優しく撫でる手と、背を静かに叩く手は、なんと柔らかく温かいのだろう。
心の内にある恐怖が解けていく。このまま永遠にこうしたいと願ってしまう。
……或いは、その方がよいのだろうか。
「……なぁ、孝仁、孝仁」
「……は、い」
「儂の願いを、聞いてはくれぬか? とても小さな、小さな願いなのじゃ……どうか、頼む」
「……」
幾度となく繰り返された死。それは紛れもなく己の愚かさの証明であったが。
しかし、それと同時に。
死んでは戻し、死んでは覆い隠したということは。この記憶の積み重なりは。
つまり……。
「頼む……」
「……はい」
「……!」
……俺はゆっくりと首肯した。
未だ顔が見えぬ状態であるが、だとしても、彼女が喜んだことが分かった。
……あぁ、そうだ。
俺はもう、認めなければならないのだ。
何度も目を背けてきた事実から、向き合わねばならないのだ。
「じゃ、じゃあの。えと、そにょ、……まぇを」
「……?」
「う、うぅ……な、なま、名前を! 読んでっ、ほしい、のじゃが……駄目、か?」
「……」
名前。
それを呼ぶことの意味を、俺はもう知ってしまっている。そうだ、あの日、あの夜。俺はその意味を知ったのだ。
……思えばあれが分岐点であった。
彼女らの介入があってこそ、己は自らの間違いに気付けたのだ。
そして、彼女に渡した……そう、確か今も着けていたはずだ。
静かに彼女の両腕に手を置き、体を離す。抵抗は感じなかった。
代わりに見えたのは、もにゅもにゅと口を動かしてこちらを伺う、可憐な少女のみ。
まるで親に叱られた子供のような。どこか懐かしい、とても愛らしい姿が、そこにはあった。
また視線を動かせば、髪には月の留め具が輝いている。月光の光に照らされて、眩むほど美しかったことを覚えている。
そうか。まだ、着けてくれているのか……。
「……っ」
「……」
一つ、息を吸う。
今この瞬間だけは、何の思考も挟まなかった。
過去も、未来も、罪も、後悔もない。どこまでも純粋な、想い。
……認めなければならない。
俺は。
元宮孝仁は。
「好きです、天音さん」
彼女を……天音さんを、一人の異性として愛している。
そして。
「――ぁ、あ、天音も。あ、天音もね! 天音も……あ、あぁ……!」
「……はい」
「あぁ、あああぁっ、好き、だ、大好き! ずっと、ずぅっと前から、ぅ、好き。孝、仁、あぁ、孝仁ぉ……!」
「はい、天音さん」
……彼女も俺を、愛しているのだ。
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