二十六話 罅
「わざとらしすぎただろうか……」
救急箱を慎重に運びながら、長い廊下の真ん中で独りごちる。
当然返ってくる言葉はない。
どちらかというと反省の意を込めた呟きであった。
管狐様はいつも一歩引いておられる。
それは己を含め、紬さんに対してもだ。厳しい言葉の裏に、どこか距離を無理やり置こうとしている気がしてならなかった。
無論、ただ単純に己が嫌われているという線もあり得る。それならば、別にそれでよいのだ。
しかし紬さんは違う。彼女は管狐様と友好を深めようとしていた。己もまた、そうなればよいと願った。
その結果が、あの冗句にも満たぬ愚言である。
少しでも親睦を深める足掛かりとして、己は全く不正解を選んだ。
気が動転していたのもある。振り返ってみるに、先程の自分はあまりに冷静でなかった。
だとしても、あれはないだろう。
「あぁ……」
これでは管狐様との溝も深まるばかりだ。非常にまずい。
最悪なのは、自分の妹というだけで紬さんが避けられてしまうことである。
どうしたものか、どうしたものか。
愚鈍な脳では答えを見つけられぬ。
なんとも、情けない。
「む」
うだうだ考え事をしていたら部屋に着く。
ここは所謂小道具部屋であった。金槌からテープ、電池、子供の玩具まで、何やら使えそうなそうでもなさそうな小物が沢山置いてある。そこに、この救急箱もあったのだ。
どうしてこんな部屋があるのか知る由もないが、賢い彼女のことだ。きっと深い理由があるのだろう。
きっと、きっと……。
「……」
頭に浮かんだ言葉を思い直し、考える。
己は彼女のことを信頼している。それは間違いない。彼女は信頼できる素晴らしい人間である。
自分と比べることすら烏滸がましい、しっかりとしたお人だ。
疑うなど滅相もない。
……そう、思っていた。
「……しかし、あれは」
古いパソコンが情報をゆっくり読み込むように。
管狐様の怪我、己の動揺、起きた異変。
冷静になった頭が少しずつ事実をかみ砕いていく。
暫し、小部屋にて立ち尽くす。救急箱を持ったまま、必死に頭を回す。
己は賢い人間ではない。
だが、考えるべきことを無視できるほどの度胸もなかった。
「……」
思いつくことは、ある。
どれも突拍子もないようなことだが、妄想じみた仮定を立てることは、辛うじてできる。
例えば第三者による、言わば妖狐以外の妖が攻撃しているだとか。
実は紬さんが己の知らぬ間に霊能力とかに目覚めて、守ってくれているだとか。
或いは……そう、全くあり得ぬ話だが。
天狐様が何かを、しただとか。
そんな予想を組み立てることはできる。
しかしそれは、日常でテロが起こったらどうしようと心配するようなもので。
やはりどちらかというと、妄想に近いものであった。
確証などない。
結局、今あるのは単純な事実だけだった。
「……」
ならば、次にすべきは検証だろう。
救急箱を元あった場所に戻し、今度は壁に掛けられている金槌を手に取る。
万が一を考えて、殴る部位は左手にしよう。
手の甲は……だめか。できれば目立たないところがいい。痣になってもバレにくい場所はどこだろう。
少し考えて、二の腕を叩くことにした。
長袖を着ていれば分からないし、仮に見られても掃除の際にぶつけたとでも言えばいい。
袖を捲って腕を露出させ、金槌を構える。
「……ふぅ」
これが意味のある検証なのかは正直見当もつかない。
全くの無駄になる可能性もあるし、傍から見れば異常な行動と思われるかもしれない。
ただ、考えてしまう。
破られなかった本の頁、滴る彼女の血、この家の異常。
もしかすれば、と考えずにはいられない。
「……っ」
緊張が走る。
別に今更自分の体が大切だとは欠片も思わないが、それによって判明する事実を恐れる。
金槌が己の腕を砕き、その威力を発揮するのはいい。
それだけで、現在起こっている異変が全く第三者であることが分かる。
管狐様の指が切れたように自分もまた傷付くのなら、安心できる。
だが、もし。
己の予想があっているのならば。
「っ、ふ――!」
思考を搔き消すように、金槌を振り上げる。
もはや当初に予定していた、痣程度に留めればよいという考えはなく。
ただ懸念を拭い去りたいだけに、全力で鉄の塊を振り下ろした。
そして。
「くっ、ぅ!?」
ガギュィン!
けたたましい音が鳴り、手に感じた衝撃に顔を顰める。
強い衝撃だった。
ゴトリ、ゴトリ。
重いものが落ちる音が二つする。
一つは今しがた、己がこぼれ落としたもの。
そしてもう一つは……真っ二つになった金属の平であった。
「ぁ、あ……」
切断面は異常に鋭利。
まるで元からそういう形だったように、滑らかな断面だった。
対して、己の左腕は無傷。
当たったという感触すらなかった。
いやそれ以前に、己の見間違いでなければ、金槌は当たる前に停止していた。
「はぁ、はぁ」
汗が背筋を伝い、緊張を高めていく。
考える中で最悪の結果だった。
今起きている異変を解明する中で、最も恐ろしい確証を得てしまった。
「はぁ、はぁ……くっ」
唇を噛み、顔を顰める。
……あからさまだ。この異変を起こしている存在は、己をあからさまに意識している。
理由は全く不明だが、どうしてかそれは己を守ろうとしている。
やはり、紬さんが何か特別なことを? いやならば、管狐様が怪我を負ったのはおかしい。そも、彼女がそんな異能力に突然目覚めたとは考え難い。
第三者による攻撃の線も消えた。己を守る理由が無さすぎる。待て、確か協定というものがあったのだったか。しかしそれは自傷すらも含むのだろうか。
あるいは……いや、否。
そんなはずはない。
あっていいはずがない。
「……違う」
そうあって欲しく、ない。
己の考えが全く外れていてほしいと願う。
己と彼女にはもう、何の繋がりもないのだと。
そう、信じたい。
情けない話だ。
この期に及んでなお、己は目を逸らしている。
ずっと変わらない。
俺はずっと、部屋で寝たふりを続ける子供のままだ。
「……ちょっと!? なんですか今の音は! あの部屋まで届きましたよっ、一体どうしたん、です、か……」
「……管狐様」
背後から彼女の声が聞こえ、己はゆっくりと振り返る。
どうしてか、彼女はどこかおびえた表情を見せて、一歩後ずさった。
しかし今はその理由を問い詰める余裕はない。申し訳ないが、許してほしかった。
そして重ねて申し訳ないのだが。
「一つ、頼み事があります」
「へ? 頼み、事?」
「はい」
一つ頷いて、伝える。
己の考えうる、唯一の解決策を。
「俺を、殺してくれませんか」
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