二十五話 愚かな男
「待てと言ったのに……はぁ」
慌ただしく和室を出ていくその男を見て、管狐である管奈は重いため息をつく。
たかだか指先を切った程度であの狼狽ぶり。よほど安穏に浸った生活をしていたのだろう。外敵もなく、血の一つすら見ない生温い環境で、きっとあの男は生きてきたのだ。
それでなお、終始暗い雰囲気を纏っているのだから救えない。
お前のような恵まれた人間が何をそんなに……。
「……ちっ」
……そう、そうだ。自分はあいつの、そこが気に入らないのだ。
何故あいつはいつも
この先に自分の未来などないと、希望など一切見えていないような擦れた顔つきをしておいて。
毎日毎日毎日飽きもせず、雑巾を手にして這い蹲っている。
馬鹿なのだろうか。いやそうだ、馬鹿なのだろう。
あいつは度を越した馬鹿に違いない。
だって、気付かないはずがないのだ。監視をしていた自分でも分かった。
あいつの絞る雑巾は真っ白だ。どれだけ拭いても拭いても、哀れなほど真っ白なままだ。
絞り出た水が濁ったことなど一度もない。
箒が埃を掃いたことなど、一度だってないのだ。
気付かないわけがない。
この異常に。この無情に。
「だのに、どうして」
思わず言葉が漏れる。ハッとして口を押えるも遅かった。
それは、この一週間で感じてきた全てに対する問いだった。
溢れ出てしまえば止まらない。
どうして、どうして。
どうしてお前は清掃を続ける。無駄だと分かっているのに。
どうしてお前は毎朝料理を作る。冷蔵庫の中身が変わらないことも知っているくせに。
どうしてお前は自分に敬意を払う。自分はお前に、敵意ばかり向けているのに。
そして何よりも……。
どうしてお前は、幸せそうにしていないのだ。
天狐様に気に入られるという、最上の幸福を一身に受けておきながら。
お前は分かっているのか。あの御方に見掛けられることの重大さが。恐らくは九尾様でさえ賜ったことはないだろう、その栄誉を。
ただの人間がだぞ。まだ三十も満たない子供が、別れたとはいえ、そんな望外の幸せを得て。
何故喜ばない。
自分だったらその事実だけで五百年は生きていける。いや、七百年は有頂天になるだろう。間違いない。
それが、何故。
何故、あの夜、あんな顔を……。
『お別れを、したく思います』
「……へ?」
あれ。
あれ、なんか、変だ。
確かあの夜は、自分達が、あいつと出会って。
それで、どうしたのだったか。
そう、確か、説得をすると言って。あいつも二つ返事で感謝して……。
あれ?
「じゃあ、なんで」
お別れをするって、あんなに寂しそうに。
悲しそうに。
辛そうに。
苦汁を飲み下したような顔で、言ったのだ。
そもそも、いつ言った。
どのタイミングで、どんな流れで。
……そうだ、自分はあのとき――
「お、お待たせしました……!」
「――っ!」
掠れた男の声で我に返る。
場所は変わらず和室の中。
気付けばじっとりとした嫌な汗が流れていた。どれだけの時間思考に潜っていたのか。もしかすると、あいつが現れなければずっとあのままだったかもしれない。
いつもなら忌々しいと感じるその声に、今だけは救われた。
そう、思うことにした。
「す、すみませ……ぜぇっ、い、今……はぁっ、手当て、を……」
「……ああ、そういえばお前がいましたね。影が薄いのでつい忘れて……」
「はぁ、はぁっ……もう少し、ふぅ、お待ち、を」
「……」
ぜぇ、はぁ、と未だに荒い息を繰り返す愚かな男を見て。家中を走り回ったのだろう、その流れる汗を眺めて。
何となく、嫌味を言う口が噤んでしまった。
「失礼、します……」
「ぁ……」
間もなくして彼の手が己の手首に触れる。
まるで壊れ物を取り扱うが如く、慎重な持ち上げ方だった。年代物の骨董品ですら、こうも丁寧にはしまい。
消毒液に濡らした綿が己の血を拭い取っていく。少しくすぐったい。
あ、そこは。
「ん……」
「すみません、暫しご辛抱を」
「……」
何故か微妙に気まずくなって、ちらりと彼の表情を盗み見る。瞬時、見なければよかったと後悔する。
それは思わず此方が恥ずかしくなるほど、真剣そのものであったから……。
……ふん、まぁ、中々に弁えているではないか。
これで嫌そうにしていたらただでは……。
「……」
「……」
いや、違うだろ。そうじゃないだろ。
手を触れられているんだぞ。自分が散々貶してきた、嫌悪してきた人間に。
さっさと叩き落とせ。
そして無礼者と口汚く罵ってやるがいい。
さあ、さあ。
「ぶ――」
「痛くはありませんか、管狐様。沁みたり、痒かったりは」
「ぁ、いえ……その、特には……」
「そうですか。もし何かあればすぐにお声がけを。宜しいですね?」
「はい……」
……いや、はいじゃないが?
一体何をしているのだ自分は。
素直に首を振って、そんな生娘でもあるまいに。
忘れたのか。
お前が人間に、何をされたのか。
皮を狙われ、親を殺され、地を這いずり回った記憶を。
ああ、鮮明に思い出せるとも。
あの時ほど人間を憎んだこともない。人間など結局、私利私欲のためにしか動けぬ低俗な存在である。
どうせこの男も同じだ。
今にも仮面が剝がれるだろう。
そうに、決まっている……。
「……? これは、傷が塞がって……」
「……ぁ、ああ、今更気付きましたか。まったくお前の愚鈍さには益々呆れますね。よもや、妖の治癒能力が人間程度だとでも? はっ、無知もここまでくると憐れみを覚えます」
「で、では、もう傷は完治しておられるのですか」
「そうと言っているのが聞こえませんか。可哀想に、貴方は思考能力すら劣っているのですね。そんなだから貴方は……」
「……あぁ……」
そのとき、彼の顔が。
「よかった……本当に……あぁ、よかった……」
「――」
……なんだそれ。
いつもいつも、暗い顔をしているくせに。
なんだそれなんだそれ。
……やめてよ。
そんな嬉しそうな顔、しないでよ……。
「……とはいえ、傷がいつ開くやも分かりません。いかに貴女様が優れているとはいえ、もしもということもあります」
「……」
「……せめて、絆創膏だけでも貼らせてはいただけませんか」
「……す」
「す?」
ふい、と顔を逸らす。
我ながら子供じみていると思うが、止められなかった。
「好きにすれば、いいです」
「……はい、ありがとうございます」
「ふん」
くるくると絆創膏が指先を巻く。
今更傷が開くなどありえないが、もう知ったことではなかった。
あれこれ考えるのに疲れたのである。
こんなことに思考を割いて疲れるくらいなら、初めから好きにさせればいい。その方が楽に違いない。
元宮孝仁。
この人間は愚かとしか言いようがない存在である。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ愚かな人間。
そういうことに、させてほしい。
そうでないと、何のために自分は今まで。
「管狐様?」
「は、はいっ? ど、どうかしましたか?」
「いえ……ただ、なにか思い悩んでいるようでしたので」
「……は、貴方の勘違いです。さあほら、もういいですね? さっさとその仰々しい救急箱をしまってきてください」
「しかし……」
「いいから早く。これ以上貴方に時間を取られたくはありませんので」
「……これは、失礼を」
彼が深く一礼して立ち上がる。
なんとも不快な時間であった。これが終わると思うと清々する。
早く消えろ。
顔も見たくもない。
愚かな男など、見る価値もない。
ないのに、視線は遠ざかる彼を見つめて。
「それでは、またご夕食に」
「……待ちなさい」
「?」
口が勝手に動いていた。
勝手に動くので、きっとこれは自分の意志ではないのだろう。
実に困った。
口は身勝手なことを言おうとしている。
「その……貴方がやったことは世間一般的には称賛されることかもしれませんが、妖怪の中ではそれほどの価値があるわけでもありません」
「……? はあ」
「そ、それでも貴方は人間であるからして、恐らくは客観的事実に基づき報酬を得ようと考えているのでしょう。そして私は卑怯者の鬼ではありませんので? ですので、だからして、あの……」
「……ええと、つまり?」
「つ、つまり! 貴方が今したことを褒めてやらないこともなくありませんかもしれません!」
「……」
ぽかん、とした顔で彼は自分を見つめる。
なんだその顔は。ふざけているのか。間の抜けた顔で見てからに。
ばーか、ばーか。
お前みたいなやつは何を言われたかも理解できず苦しめばいいのだ。
「……やらないことも、なくも、ありません、かもしれ……」
「ちょっとそこ、指折りで確認しないでください。いやほんと、お願いですから止めてください」
「なるほど分かりました……要するに、自分は今最大級の謝罪を求められていると」
「違いますが!? 一体何を確認してたんですか貴方は! 人の指を心配する前に自分のを心配してくださいよ!」
「冗談です」
「……!! このっ、人間風情がぁ……!」
「……はは」
「……むぅ」
これは、何というか、ずるいのではなかろうか。
自分だって感情を持つ生き物である。
だからあんな……思わず零れ出たような、心底柔らかい笑みをひっそりと浮かべられては、何も言えなくなってしまうのが当然の理であって。
そこで不意に、笑顔で思い出した。
そういえばこの妹も、笑顔が特徴的であったなと。
しかしそれは、彼のものとは大きく異なる。
『はい……兄、さん……』
魔性。
あの女は何かがおかしい。
本能的に自分は、それを感じ取っている。いわば幻術に対する警戒のようなそれ。
何よりも不気味なのは、彼が自分に謝罪したときだった。
『どうか、どうかお許しを……』
彼が必死に頭を下げ、自分に請うているとき。あの妹は何をしていたか。
笑っていたのだ。
うっとりと、蕩けるような笑顔で。
どろどろに煮詰まった深い瞳で、彼女はただ自らの兄を見ていた。
あれはとてもじゃないが兄妹に向ける視線ではない。
異性愛……いや、それすらも超えた、歪んだ何か。
あのような愛を持つ者と、持たれた者の行く先は決まっている。
それは……。
「……んん、大変失礼を。ではこれにて、自分は」
「最後に、一つ」
「はい?」
いみじくも彼を引き留める。
いや別にそんなつもりもないが。
心情を隠すように、ぶっきらぼうな口ぶりで言った。
「貴方の妹……紬でしたか。精々、あれには気をつけなさい」
「は……? それは、どういう」
「さあ、どうでしょうね」
これ以上を言ってやる義理はない。手をぷらぷらと振って彼を追いやる。
部屋を出るまで彼は少し怪訝そうな顔をしていたが、どうでもいい。
もはや詮無きことである。
やっと一人になれた。
うざったらしいほどに綺麗な和室が、やけに静かに感じた。はて、こんなにも静謐としていただろうか。
「……」
無言で本を拾い、ばらばらと雑多に開く。
どうせ傷付くこともないのだ、遠慮するほうがおかしい。この異常な空間において、もはや常識的な行動は無意味だ。
散々手を尽くした。
それで駄目だったのだから、諦めるのは自明の理である。
だが……。
「……ふん」
……もう少し、足掻いてみようか。
無意味でも、何の価値もなかったとしても。
それは、そう努力しようとすることには関係のないことなのかも……しれない。
別に、別に。
あんな愚かな男に感化されたわけでも、ないのだが。
やがて栞の挟んである頁にたどり着く。
ああそういえばこんなものがあったな思ったところで、するりと栞が落ちた。
反射的に、自分は手を伸ばして。
「痛っ、……?」
指先に感じる、僅かな痛み。
不思議に思って手を見つめる。
「え……」
そこには裂かれた絆創膏があった。
先程と同じ場所。
細い切り傷の中から、赤い赤い血液が垂れていた……。
元宮孝仁は愚かな人間である。
どこがと言われれば、自分に対して敵対心を向ける相手にも優しく接してしまうくらいには、愚かだ。
血が流れ、動揺し、何とかしなければと焦燥感に駆られる姿は、いっそ憐れであった。
でも、それでこそ孝仁だ。
自分の、自分だけの、孝仁だ。
……あぁ、口惜しい。
口惜しい口惜しい口惜しい。
今すぐにでも抱き着いて、彼と一つになりたい。
衣服を脱ぎ去り、生まれたままの姿で溶け合ってしまいたい。
舌を絡め、瞳を交差させ、永劫の安寧に浸りたい……。
ああ、何という口惜しさ。
身分も弁えぬ卑しい狐一匹、屠ることもできぬとは。
彼の心配りをほんの一欠片でも受け取ったアレは、なんと妬ましいことだろう。
雌の顔を隠すこともせず、彼を見下しながらにみっともなく発情するアレは、なんと浅ましいことだろう。
ああ、口惜しや口惜しや。
今にも唇を噛み切ってしまいそうだ。
されど宿願は我の腕にあり。
もう少し、もう少し。
あとちょっと、あとちょっと。
んふ、ふふふふ。
目を細め、だらしなくも舌を舐めずる自分は……正しく妖狐そのものであった。
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