二十四話 赤、赫、あか


 意気揚々と雑巾を取り出したはいいが。

 正直、この広大な屋敷を全て掃除するのは不可能に近い。

 何せ一週間が経った今でも、手についていない場所が何箇所かあるのだ。

 無論長い月日をかければ出来なくもないが、その間に違う所が汚れてしまっては本末転倒。

 今なお効率的な方法を考えてはいるものの、我が愚鈍なる頭脳に期待はできない。

 結局いつも通り掃除するしかないのか……。


「……」


 雑巾を床に滑らせ、拭いて、濡らして、絞る。

 絞ったのならまた拭き始め、乾いたのならまた濡らす。 

 その作業を延々と機械的に続ける。

 人によっては苦痛に感じるかもしれないが、己にはちょうどいい。

 むしろ今までこなしてきた仕事に比べれば大分楽である。

 己は特に何も言わず、雑巾を這わせた。 


「ふぅ……こんなところか」


 そうして黙々と掃除を続けていると、終わるころには昼前になっていた。

 これでようやく一つの廊下を掃除し終えたのだ。先は果てしなく長い。


 さて、昼食にはまだ少し時間があるので、和室の掃き掃除だけやってしまおう。

 この家は和洋折衷を取り入れており、立派な畳が敷いてある部屋があるのだ。

 雑巾とバケツを収納庫にしまい、箒を取り出して向かった。

 

 比較的近かったため、ほどなくして到着する。

 

「……失礼します」


 すっ。


 断りを入れ、膝をつきながら静かに襖を開けた。

 そうするべきお方がおられる可能性があったからだ。

 かくして、予想は的中する。


「……ん、お前ですか。出口はそこです、疾くお帰りを」

「そういうわけにもいけません。清掃に参りましたゆえ」

「聞こえなかったのならもう一度言います。読書の邪魔なので、早く消えてください」

「それは大変失礼を。ですが、ここを終えねば午後の清掃が終わりません。決してお邪魔はしませんので、何卒、ご勘弁をいただきたく」


 正座を崩さぬまま、深く頭を下げる。 


「……ちっ、なら早くやりなさい。煩くしたのなら追い出しますが」

「ありがとうございます」


 今一度、より深く頭を下げる。

 やはり彼女は寛大であり、優しき心の持ち主である。

 このような無礼を許していただけることには感謝しかない。

 己は努めて静かに立ち上がり、清掃を始めた。


「……」

「……」


 さら、さら。


 ぺらり……ぺらり。


 箒が畳の目に沿って規則的に動く音と、紙が擦れる音が混在している。

 己はその空間を、不謹慎ながら心地よいと思ってしまった。管狐様はきっとお怒りだろうが。

 ここはとても静謐で、厳かで、気が引き締まるのだ。

 そんな状況が心地よいとは我ながら変だと感じるものの、胸に到来する安堵とも取れる心地に、ただ安らいでいた。

 

 それが、顔に出ていたからだろうか。

 静かなる演奏を、鈴の鳴るような声が破った。


「……お前は」

「……? はい、何でしょうか」


 手を止めて彼女の方へ向く。

 そして。


「お前はどうして、そんなにも愚かなのですか」


 その細められた目を見て、己は自分の失態を悟った。


「……申し訳、ありません」

「……っ」


 どうしようもなく羞恥が籠る。

 分不相応の安らぎを感じた末路がこれだ。何度反省しても、この浅ましさだけは治らないらしい。今すぐにでも消えてしまいたい。

 彼女も声を失い、呆れてしまっている。

 そう、思ったのだが。

 

「ぅ、別に……んん、別に、謝る必要はありません。ただ私は、どうしてそんな愚かな真似をしているのかと問うているのです」

「……? それは、どういった」

「分からないのですか……?」


 彼女は心底馬鹿にしたような顔つきで、薄く人差し指を畳に這わせた。

 次いで、指の腹を見せてくる。


「ん」

「……ええと……とても愛らしいお指です……?」

「ば、馬鹿ですかお前は! 違います、そうではなく……! ほら!」

「え、ええと……」


 ずいっ、と人差し指を向けてくる彼女に己はどう反応したものだろうか。

 感想を求めているわけではないらしい。

 ならば……。


「う、美しく思います」

「……はぁ、もういいです。つまらない世辞を述べるくらいなら、素直に分からないと言ってください」

「いえ、世辞を述べたわけでは……」

「……はぁ」


 ため息をもう一つ、呆れたような、馬鹿にしたような顔で彼女は口を開く。


「この部屋を見て気付きませんか? それとも、お前はそこまで頭が残念だと?」

「……すみません。綺麗だとしか、自分には」

「何だ、分かっているじゃないですか。そう、この部屋は綺麗なんですよ。腹立たしいほどに」

「へ……?」


 てっきり呵責されると思った己は、どこか肩透かしになってしまう。

 この部屋が綺麗……それが、どうしたのだろうか?


「……これで髪の毛一本でも落ちていれば、お前を散々罵れたのでしょうが……残念ながら埃一つ、塵一つありませんでした」

「……」


 それは、喜ぶべきことなのでは。

 愚昧な思考のままに、そう口を開こうとして。


「いい加減気付かないふりはやめなさい」

「……!」

「本当は、毎日毎日無駄な掃除を繰り返すお前が、一番よく分かっているはずです」

「……それ、は……」

 

 息が詰まる。喉の奥に綿を無理やり詰められたような圧迫感を感じた。

 彼女は止まらない。


「まだ分かりませんか? なら分かりやすく言ってあげます。全部無駄なんですよ、お前のやっていることは。全部、全部」

「……っ」


 無駄。

 たった二文字の言葉が、恐ろしく胸に染みわたる。

 それはきっと、この家に来てから……いや、もっとずっと前から感じてきた不安だ。

 だから己は目を逸らそうとしていた。

 やるべきことがあると、言い聞かせていた……。


「……はっきり言って、この家は異常です。この部屋はおろか、床や浴槽、庭まで一つの塵すら落ちていない。髪の毛一つすら、いつの間にか消えている。お前が掃除していない場所にも関わらず、です」

「しかしっ……しかし」

「はっ、信じられませんか? それとも本当に、全く心当たりがないとでも?」

「……」


 心当たりは……ある。

 あるに決まっている。拭く前から綺麗になっている廊下も、掃く前に消えている塵も。

 人間が暮らすなら出て当たり前のそれが、ここにはなかった。

 雑巾は相変わらず真っ白のまま収納庫に眠っている。

 バケツに貯まった水は透明のまま用水路に流れていく。


 分かっているのだ。

 だが、だが……それでも。


「無駄です」

「……!」

「無駄なんですよ……何をしても、ここは穢されない。壊すことも直すこともできない。外に出ることすら、許されない。だからお前が今していることも、何の価値もないんですよ」


 ため息交じりにそう呟く彼女は、どこか疲れた様子だった。

 何かを諦めたような、寂しい表情。あるいはずっと前から、そんな気持ちを抱いていたのかもしれない。

 まるで幾億の実験に失敗した科学者のごとく。

 その表情には、深く積み重なった諦観があった。


 声をかけるべきだと思う。

 だが己は何も言えない。ただ立ち尽くすのみの、つまり彼女の言う通り、何の価値もない存在だった。


 少し、沈黙が流れて。


「そうですね……試しに、えい」

「! 何を……っ?」


 いきなり、管狐様が本の頁を破こうとした。否、破っている。

 そこに込められた力は見た限り本物で、震える手も、嘘には見えずに。

 しかし……それなら。


「……ちっ、これでも成人男性を片手で持ち上げるくらいの力はあるのですが。全く、忌々しい」

「これ、は」


 無傷。

 頁が破られる音も聞こえず、彼女の苛立ちを含む声だけが聞こえる。一体、何が起こっているのだろう。


 訳も分からず困惑していると、突然本が飛んできた。

 完全に意識外だったため、慌ててキャッチする。

 

「見てみなさい」

「……はい」


 ぱらぱらと紙をめくる。

 指に感じるのは何の異常もない、柔らかな紙の感触である。

 少しすると、栞が挟んである頁に着いた。恐らくここが、先程彼女が破こうとした場所。

 恐る恐る見つめると、やはりそこは無傷であった。


「……っ」

「疑うなら、お前もやってみなさい。まぁ、結果は見えてますが」


 ごくりと唾を飲み込んで、指を慎重に這わせる。

 皴一つない、滑らかな手触りだ。まるで新品のように色褪せもない。

 或いは、彼女が嘘をついて……いや、それはないか。

 騙す必要があるほど、己には価値がないのだ。まして彼女の性格からして考えにくい。

 所詮一週間の付き合いで何を、とも思うが。


「……」


 さりとて、異常は理解した。

 どうやら彼女の言うことは本当で、己のやってきたことには何の意味もないらしい。

 まあそれについては追々考えるとして、まずは彼女だ。

 口ぶりから察するに、彼女は現状に不満を抱いているのは間違いない。外に出られないとも言っていたか。

 己なんぞは何の役にも立たないが、もしかしたら力になれることがあるかもしれない。

 そんなことを考え、本を返そうとし……。


「管狐様、もし自分に、……!?」

「ん? 何ですか?」


 赤、紅、アカ、赫、赩、あか。

 

 彼女の美しき指に、赤が流れている。

 

 赤、赤、ああぁ……。


「それ、は……」

「……あぁ、さっきので切りましたか。ほんと、この紙はどうなっていやがるんですかね。仮にも妖狐の肌を裂くなんて」

「血……ち、血が……」

「結構深く……ん? お、おいお前、どうしたんですか。何をそんなに震えて」

「は、ぁ……はぁ、はぁっ」


 ぽたり、彼女の指から赤が落ちる。

 赤が、流れる。

 思考が赤に染まった。

 

 それは駄目だ。


 あれは命が流れる。それだけは駄目だ。クラクションと、シャッター音が煩かった。


「お、おいお前」

 

 赤は駄目なんだ。あれは人を冷たくしてしまう。二度と会えなくしてしまう。

 

 赤が流れる。


 それはとても、とてもとても恐ろしいことだ。


「聞いてますか! ちょっと、ねぇ!」


 胸の中に焦燥感が濁っていく。


 パトカーが警鐘を鳴らし、サイレンが脳を揺さぶった。

 

 動かなくなった愛しきと、水たまりになった赤。


 あれをもう一度、見るのか。


 また、あれを。



 ……治さなくては。


「少しお待ちください、急いで帰ってきます」

「へ? なっ、ちょっと!」 


 湧き上がる衝動に突き動かされるまま。

 彼女の静止も聞かず、己は部屋を飛び出した。

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