終章 楽園

二十一話 幸せに必要なもの


 時折、頭痛がする。

 錆びた関節部を無理矢理動かしたような、酷い軋みを感じる。不明瞭な焦燥感を覚えている。休息は十分に取っているはずだが。

 一体、何が不安なのだ。

 これではいけないと、軽く頭を振って周りを見た。

 

 大きな庭だ。ここだけで、己が住んでいた部屋よりも広いかもしれない。

 足には柔らかな草の感触。石一つない、綺麗な庭であった。


「……」


 視線を、岩に囲まれた小さな池に戻す。

 水面には鯉がパクパクと口を動かせ、今しがた与えた飯を食らっていた。

 その光景をじっと見つめる。木偶の坊ですら勤勉に思えるほど、ただ何も言わず、何もせず。


 庭に植えた木に留まった小鳥が鳴いている。

 ちゅんちゅん、ぴーぴー。規則的で落ち着く音色だ。

 次第に頭痛が引いていく。理由は分からないが、己の頭痛にはこれが効くらしい。

 木に頭を下げ、己は小さな演奏者たちに感謝した。


「何をしてるんですか、お前」


 そのとき、ふと後ろから声がかかる。

 振り返れば、茶色の髪に、質素な着物の装い。

 幼さを残した少女だ。その視線には不可解と不愉快が宿っている。

 彼女は……。


「失礼……鯉に、ご飯を与えておりました」

「そうですか。人間は、木に頭を下げながら餌をやるのですね。これは知りませんでした」

「いえ、そういうわけでは……」

「ああなるほど。つまり、お前が異常なだけですか。可哀想に。お前は頭のおかしい、出来損ないの人間なのですね。よくわかりました」


 明らかな侮蔑が顔色と言葉に出る。されど聞きなれた叱責だ。

 それに対し、蒙昧な己が返せることは少ない。

 だから、深く頷いて。


「ええ、はい。全く、そのようです」

「……ちっ、気持ちの悪い」


 舌打ち一つ、用は済んだとばかりに踵を返す。そうして、庭に出る階段へ足をかけたころ。

 嫌そうに、本当に嫌そうに顔を顰めて。

 振り返りつつ口を開く。


「何度も言いますが……できる限り、部屋からは出ないでください。家から出ることも禁止です。お前は今、我々の保護下にあるのですから」

「はい、存じております。貴女方の深いご厚意に、感謝を」

「はっ、そんなものいりません。厚意など、お前程度に割くわけがないでしょうに。ただ、必要だっただけです」


 彼女の言葉は正しい。俺ごときが誰かの厚意を賜るなど、あってはならない不条理である。

 彼女は全く、正しいことを言っている。

 だが、それでも……。


「それでも、ありがとうございます。本当に……感謝しています、管狐様」

「……」


 口惜しい。己の薄学が恨めしい。 

 感謝している、ありがとうなどしか言えぬ、この役立たずが憎らしい。

 頭を下げ続ける。

 愚かな己には、これしかなかった。


「……ちっ、だから気持ち悪いんです、お前は」

「……」


 ドン!


 勢いよく掃き出し窓が閉じる音がする。 

 また、彼女に不快な思いをさせてしまった。情けないこと、この上なし。

 どうすればいいかも分からない己は、きっとこの世で最も価値のない存在である。

 項垂れながら、無為を恥じた。






「……そろそろ、戻るか」

 

 そうして口から出たのは、半ば無意識的なものだった。

 時間の感覚が麻痺している。 

 あれから、何分経ったのだろう。何時間経ったのだろう。

 気付けば夕日が沈みかけている。

 地面が茜色に染まり、どこまでも郷愁を感じさせた。


「ああ、またか」


 この庭は不思議だ。まるで温かい水の中のように居心地がよく、離れ難いと魅入ってしまう。

 魔性、とでもいうべきか。

 、己はここへ入り浸っていた。

 いや、庭に入り浸る、ともおかしいが……。


「……いかん、な」


 後ろ髪を引かれつつ、名残惜しくも己は庭を去る。早手に窓を閉め、なるべく振り返らないように長い廊下を歩いた。

 何か気を紛らわせるものはないか。

 そうして、視線を這わせ……気付いた。


 ガチャリ。


「……!」

 

 時計の時刻を見たのと、その音がなったのは同時だった。

 本当に、長い間庭にいたらしい。これでは管狐様が呆れるのは当然だ。

 急いで玄関に向かう。何もできない己ではあるが、最低限の礼節は守りたかった。


「……む」


 一度、立ち止まる。己の姿を確認したからだ。

 何故か緩んだ服の乱れを正し、改めて廊下を曲がる。

 そして、そこには……。



「ただいま、帰りました」



 艶のある長い黒髪。優し気に細められた黒い瞳は、彼女の慈愛を感じさせた。

 また、触れればそのまま折れてしまいそうな、その儚い風貌。

 特注の黒いスーツ姿も合わさり、まるで深窓の令嬢の如く、現実離れした美しさだった。


 そんな彼女は言う。

 喜びで顔を綻ばせながら。満面の笑みで、己を呼ぶ。



 ああ、変わらない。

 彼女は夜に溶ける風のように美しくなったが、それでも変わらない眩しさがあった。

 いつだって、彼女は俺を照らす。

 それは彼女の深い博愛の精神だった。汚してはならない、曇らせてはならない美しき愛。


 故に己は、身を焦がしながら返すのだ。たとえ、その資格がなかったとしても。身の程知らずの悪人だったとしても。

 

「……おかえりなさい、紬さん」

「はい! ただいまです、兄さん!」


 それでも元宮孝仁は、元宮紬の兄だった。














 家族と食卓を囲む。

 数年前だったら日常だったそれは、己の罪によって崩れ去った美しき記憶だ。取り戻せない光景。自らが壊してしまった、かけがいのない宝物。

 しかし、今。


「兄さん、今日のご飯はどうですか。兄さんの好きなホッケを焼いてみたのですが……」

「……大変、美味しいです。とても、とても……美味しいです」

「ふふ、よかったぁ。いっぱい、食べてくださいね」


 己の不出来な感想を聞いて、蕩けるように頬を緩ませる彼女。儚さを伴った微笑は、ますます彼女の神秘性を輝かせていた。

 それを見て思う。

 

 どうしてこうなったのか、と。


 現実逃避気味に視線を逸らした。そこにはピコピコと狐耳を揺らす少女がいる。

 どうやら、夢中になってご飯を食べているようだ。

 頬に米が付いていて、愛らしい。


「もぐもぐ」

「……あ、そうだ。管狐ちゃんはどうですか? お口に合いました?」

「……! ん、んん。に、人間にしてはそれなりですね。もっとも、普段私たちが食べているものとは比べようもありませんが」

「そうですか。ありがとうございます、管狐ちゃん」

「……」


 にこやかに、紬さんは言葉を返す。

 優しい音色のはずだ。だのに、どこか冷たさを感じてしまうのは何故だろう。


「……その呼び方、直せと言いましたよね。さっきもそう呼んで、馬鹿にしてるのですか」

「いえいえまさか。そんなつもりはありませんよ」

「ならば今後、改めなさい」

「ふふ、分かりました……管狐ちゃん」

「この……!」


 雰囲気が最悪である。まるで割れる寸前の氷のようだった。決壊するのは時間の問題か。

 これはいけないと口を開く。


「管狐様、貴女様のお怒りは尤もなことであります。しかしどうか、お怒りを収めていただけないでしょうか」

「はっ、お前ごときが私に命令すると?」

「誓って、命令ではございません。ですがどうか、どうかお許しをいただきたく……」

「……気に入りませんね。何故、お前が謝るのですか。もっと私に許しを請うべきものが、そこにいるでしょう」


 その通りだ。

 いかに聡明で人徳のある我が妹とはいえ、先ほどの言動は明らかに相手を軽んじていた。

 では、真に謝るべきは誰か。否、問わずとも分かっている。

 己は横に向き直り、口を開こうとして。


「紬さ……ん?」

「はい、兄さん」


 近い。漆黒の瞳が見つめている。清らかな腕が、己の太腿に乗っている。

 凡そ、兄妹が許してよい距離ではない。そも、こんな大きなテーブルで隣に座ることすら、変である。


 少し近づけば顔が触れる距離。

 慌てて椅子を引きながら、心を鬼にして言う。


「……管狐様がおっしゃっていたことは正しい。聡明な貴女ならば、もう理解しているはずです」

「はい、兄さん」


 依然として手は太腿に乗っているまま。なんなら、優しく撫でまわしている。

 努めて無視し、言葉を続けた。


「……ならば、どうすべきか分かりますね?」

「はい、兄さん」


 うっとりとした顔で、彼女は己を兄と呼ぶ。撫でまわす手は止まらない。しかも、段々離した距離が縮まっている気がする。

 おかしい、己は今、妹に謝罪を要求しているはずだ。

 道徳を本筋に、話をしているはずだ。

 

「紬さん?」

「はい……兄、さん……」


 おかしい。どうにも、話が通じていない気がする。彼女の顔は近づくばかりだ。

 どうして、顔を近づけるのだろう。

 己の顔に何か付いているのだろうか。それとも、己の後ろに何かあるのだろうか。

 太腿を撫でる理由も分からない。

 服は別だが、己は穢れた存在だ。触れては彼女が汚れてしまう。しかし、そんなことは彼女も承知のはず。


 分からない。

 聡明な彼女のことだ、きっと何か狙いがあってのことだと思うが……。



「おい、お前ら。さては私のこと忘れていやがりますね?」



 あ。


「……! も、申し訳ございません。あまりに礼を欠いた行動でした。誠に、申し訳ございません」

「……ちっ」


 向き直り、必死に頭を下げる。

 情けない、恥ずかしい。己は一体、どれだけ彼女を不快にさせれば気が済むのだ。この無能め。

 頭上から舌打ちの音が聞こえる。

 それはいつもと比べ小さい音だったが、確かな嫌悪感と怒りが込められていた。

 無様に許しを請い続ける。


「どうか、どうかお許しを……」

「……」


「……?」


 数秒が経つ。

 しかして、返答はない。疑問の浮上。

 それはこので一度もなかったことだ。

 根が真面目なのだろう。彼女は、時に苛烈な言葉を吐くが、無視だけはしなかった。偽りだけはしなかた。

 己はそんな、強い心を持った彼女を、弁えずも尊敬していた。


 しかし、ない。

 いつまで待っても返答が来ない。己を罵倒する、少女の声が届かない。

 下す罰について熟考しているのだろうか。それにしても、長い。


 流石に心配の念が勝って、許しもなく顔を上げる。これで罰が増えても、言い訳はできない。

 そう思いながら、視線を上げ……。


「……っ」


「……?」


 そこあるのは、憤怒の表情でも、嫌悪の表情でもなかった。

 どう表したものだろう。まるで度し難いものを見たような、理解できぬものを見たような。


 困惑、驚愕、不理解、侮蔑。


 合っているようで、どれも違う。

 これはなんだ。これは……。


「管狐様……?」

「っ、ぁ……」


 己の言葉に、彼女はハッとする。

 そしてその表情のままに、口を開いた。


「……お前らは……一体なんなのですか……」

「……申し訳ありません。おっしゃる意味が……」

「っ……気持ち悪い……!」

「あ、管狐様っ」


 音を立ててテーブルから立ち上がり、彼女はリビングから出ていく。どこか焦った様子だった。

 その姿を見て思考する。

 彼女の背を追うべきだろうか。いやしかし、何と声をかければいい。依然として彼女が出て行った理由は分からない。

 あるとすれば、己が怒らせたということだが……ふむ。


 とにかく、取り敢えず謝ろう。愚昧な己はこれしかなかった。

 そうして軽く腰を上げ、謝罪を伝えに行こうとしたとき。

 

「待ってください、兄さん。今は一人にしてあげたほうがきっと賢明です」

「……しかし」

「それに、兄さんが謝る必要はありません。元は私の我儘が悪かったのですから」

「我儘?」

「はい」


 やや寂しげに、紬さんは頷く。それはどういうことなのだろう。


「私……少しの間ですけど、それでも管狐ちゃんと仲良くなりたいんです。だって、人間じゃないからって、そんなのは些細なことじゃないですか」

「紬さん……」

「きっと管狐ちゃんは、戸惑っているのだと思います。人間と妖怪、その常識が揺れて、不安なのでしょう……」

「……」

「……私、諦めたくありません。管狐ちゃんと、仲良くなりたいです」


 あの子がとても、寂しそうだから。


 そう言い切る彼女を見て、思わず目を細める。目頭が熱を持っていた。気を緩めれば、そのまま溢れ出てきそうだった。

 妹は……紬さんは、本当に優しく育った。

 他者を思いやり、助け、尊重する。これこそが、愛されるべき人間の姿である。

 震える唇を押さえつけ、口を開いた。


「ありがとう、ございます」

「へ……?」

「貴女が、こんなにも優しく、綺麗に育ってくれて……きっと敦司さんも、日葵さんも喜びになられます」

「えへ、えへへ。そんな、綺麗だなんて」


 彼女は恥ずかしそうに笑うが、尊敬すべき点はそれだけではない。

 なにせ、若くしてこのような豪邸を所持し、会社の社長まで上り詰めたのだ。賢い子だとは思っていたが、まさかここまでとは。

 感嘆と尊敬を覚える。己とは違う、天上の妹に。


 だからこそ申し訳なかった。成功の道を歩み続ける彼女を、巻き込んでしまって。


「……落ち着いたら、管狐様ともう一度お話ししましょう。その意を伝えれば、きっとあの方も分かってくれるはずです」

「はいっ」


 元気のよい返事だ。

 もう彼女は何の心配もない。己などという雑音に惑わされることなく、前を進むだろう。

 ああ、安心した……。


「……む、ご飯が冷めてしまいましたね。私がいらぬ言葉を挟んだせいです。申し訳ない」

「そんな! 兄さんは何も悪くありません。いらぬ言葉なんて……そんな」

「気遣いは有難く受け取ります。しかし、私は貴女をもっと信じるべきだった。責は己の狭量にあります」

「でも」

「こればかりは譲れません。私のためにも、どうか納得ください」


 彼女は優しい。故に間違っても、自分だけが悪かったなどと傷付いてほしくないのだ。それが身勝手な感情だとしても、だ。

 正しき者は己を悪と断じるだろう。

 今更だ。そんなこと、生まれたころから知っていた……。


「……んもぅ、兄さんは変わらないなぁ」

「申し訳ありません」

「んーん、責めてないですよ。兄さんのそういうところ、大好きです」

「……」


 好意。紬さんの家族愛が強いことは、かつての暮らしから伝わっていた。

 その愛を、ほんの僅かなりとも邪魔者の己に割いてくれることは嬉しい。嬉しいが、複雑である。


 己は貴女の笑みを受けていいほど、価値のある存在ではない。

 見向きもされず、路傍に転がるだけの。

 結局はそれだけの、塵なのだから。


 だのに、彼女は……。


「……本当に、大好きですよ……」


 ずきん。


 何故だろうか。

 頭の奥で、頭痛がした。

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