二十二話 かくして己は
気が付くといつも、庭を眺めている。
夜風がそよそよと心地よく、木々が僅かに揺れる音に安心した。帰るべきところに帰ったという、不思議な安堵感があった。
足裏から感じる草の感触。
膨れた腹を落ち着かせるには、最適な場所である。
「……」
空を見上げれば、少し欠けた、されど美しい月が見える。
明るくて、柔らかくて。まるで此方を見通すかのように輝いている。
そう丁度、あの日もこんな夜だった。
満月が綺麗で、とても綺麗で。吸い込まれそうな夜に、己は
『初めまして、元宮孝仁さん。いきなりだけど……私達とお話、してくださらない?』
驚愕は確かにあった。
けれどそれより、感じたのは納得感。犯した罪のツケが回ってきたのだと思った。
罪人でありながら、身に余る幸福を享受することに。
弁えず、美しき銀色の姫に甘えることに。
今までの全てに、罰が下るのだと。
己は落ち行く死を受け入れた。
『はぁ。ほんと、困ったわぁ』
だが、己は生き延びた。
あちらにも複雑怪奇な事情があるのだろう。それを覆してまで、死を望むことはできなかった。
そんな、自分勝手な願いなど。
『天狐様は、君に執着してる。恋とか愛とかを超えた次元で、ね』
彼女に対して犯した罪はあまりに重い。しかし死ぬことは許されない。優しい彼女を、悲しませてはいけない。
ではどうするか。どうすれば、彼女を救うことができるのか。幸せにすることができるのか。
最善を探せ。考えろ。
そうして愚かにも悩む己に、金色の麗人は笑みを浮かべてこう言った。
――安心して。説得は私達が致します。あの方が正しき道へ戻るように、ね。
そのときの喜びは今でも思い出せる。
溢れ余る感謝の念。一生を捧げても足りぬ恩への祈り。
己では、彼女を助けることはできないだろう。彼女を騙してしまった、罪人の己では。
だが、彼女達なら。
同じ仲間である彼女達であれば、きっと天狐様も目を覚ますはずである。
喜ばしい。なんと幸福なことであろう。
己は平伏し、必死に感謝を述べた。
――うふふ、そんなに嬉しいの? 不思議な子ねぇ。普通なら、引き留めるところだと思うけれど。
引き留める? どうして。彼女が己と離れることは決まっていたことだ。
それに、その契約も既に成された。彼女を縛るものは、もはや何もないのだ。
であれば、一刻も早く解放を願うのは当然だと思うのだが……。
――縛る、ねぇ……? 一体どちらが、縛られているのかしら。
九尾様……?
疑問の声を上げる。
――いいえ、何でもありません。……さて、これから私達は貴方の家に向かいます。貴方は……。
彼女は少し考え、ぽんと手を叩いた。
――ああ、そういえば、貴方は元宮紬の義兄でしたね? ちょうどよかった、暫く彼女の家で匿ってもらいなさい。
その言葉に思わず驚く。何故そのことを、と思考し、中止する。
彼女は人ならざるもの。人間の尺度では測りかねる存在である。ましてや、我が妹は有名人。繋がりを知っていても不思議ではない。
だが、しかし……。
――あら、嫌なのですか?
嫌ではない。決して嫌ではないが、それは彼女の心を無視した行いである。
そも、急に訪ねて匿えとはとても言えない。
成功の道を歩む彼女に、少しでも傷を付けたくはないのだ。
――ではどうするの? 残念だけど、部屋には帰れないわよ? あそこはもう、彼女の世界。一度入れば、許可なく出ることは私達でも難しい。人間の貴方なら、猶更ね。
……家に泊めてもらうほど、長引く話なのだろうか。それこそ己が原因なのだから、数時間で解決しそうなものだが。
――貴方が考えていることは分かるわ。でもね、私達は妖狐。悠久の時を生きる化け物よ? 一度変わってしまえば、戻るのには時間がかかるの。
時間がかかるとは、どれほど。
失礼を承知で尋ねた。
――そうねぇ……一月かもしれないし、一年かもしれない。まあ少なくとも、数日で終わる話じゃないでしょうね。
……早くて一月、か。
ホテルに泊まろうとも、手持ちの金では些か心許ない。会社を頼るか? いやしかし……。
――あ、そうそう。貴方が通ってる会社、もう天狐様に乗っ取られてるわよ? 行かない方が賢明ね。
は?
――ホテルも……悪くはないんだけれど、それだと結界が弱まるわ。うん、やっぱり紬のお家に泊まりなさい。その方がいいわ。
待ってくれ。今のは、どういう。
――大丈夫。もう話はつけてあるし、結界も張ってあるの。安心して行きなさい。
話はつけてある……?
駄目だ、思考が追い付かない。九尾様は紬さんを知っているのか?
乗っ取られてるとはなんだ。会社の皆さんは無事なのか。
天音さんは、本当に大丈夫なのか。
……頭が割れるように痛い。
ここはどこだ。とても暗い場所だ。とてもとても、冷たい場所だ。
己は今、何を思い出そうとしているのだろう。
――あら、それでも不安? じゃア、お供をツケましょうカ。管奈、来なさイ。
――はイ、九尾様……。
小柄な茶髪の少女が前に出る。目から光を失った、狐の少女が。
――貴女はこレカら、彼の護衛をしなサイ。ふふ、天狐様に見つからナイようにネ……?
――はイ、九尾様……。
金色の麗人が囁く。魔性の笑みを携えて、惑わす。
――うふ、ふふふふ……それじゃア、行っテくるわネ。楽しみにマッテいて、孝仁君……。
痛い、痛い、痛い。
目の奥がぎちぎちと悲鳴を上げている。これ以上思い出すなと、警告している。
――行きまショウか、孝仁様。
茶髪の少女が手を引く。
連れられるままに歩いていく。深く、深く。流されるように落ちていく。
――ここデス。
気付けば家の前に立っていた。
豪邸という名が相応しい、荘厳な家であった。何故か懐かしい。
ふと、扉が開く。
重厚な扉は、キィ……と音を鳴らし。
そこから出てきた者は、綻ぶような笑みで……。
「兄さん」
「……!? は、ぁ……っ、ぅ!?」
「大丈夫ですか、兄さん?」
「はぁ、はぁ、は、あ……」
呼吸をする。それ初めて息を吸うかの如く、拙いものだった。
背中を擦られながら息をする。滴る汗が、ここにいることを実感させてくれた。
己は今、どこにいた。
庭にいながら暗い道路にいなかったか。木々が揺れる音を聞きながら会話をしなかったか。
会話……会話?
だとすれば一体、己は何を話していたのだ……?
「はぁ、はぁ……っ」
「落ち着いてください。ほら、息を吸って……吐いて」
「はぁ、は……、すぅ……はぁ……」
「上手です。さあもう一度……」
「すぅ、はぁ……すぅ、はぁ……」
「大丈夫、大丈夫です」
次第に落ち着いていく。
少し冷たい空気が、体の熱を宥めた。乱雑していた思考がクリアになる。
落ち着け。ここは庭だ。先程の幻覚はどこにもいない。
もう、大丈夫だ。
今一度大きく息を吐いて、彼女に頭を下げる。
「すみません……紬さん。お手を煩わせてしまって」
「ふふ、そんなこと思いませんよ。私、兄さんのためになるなら、どんなことだって嬉しいです」
「紬さん……ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ」
何故かそう言って、彼女は微笑む。
花が綻ぶかのような笑顔に、どこか既視感を感じた。いや、彼女がよく笑うだけだ。だから既視感を覚えるのだ。
ただ、それだけだ。
「でも、どうしたんです? あんなに取り乱した兄さん、久しぶりに見ました。何かあったのですか?」
「いえ……それは……」
「……私には言えないこと、ですか?」
「いや、そんなことはっ。そんなことは、ないのですが……」
何かがあった。
己は先程までどこかにいて、誰かと話していた。いや、思い出していた? つまり、記憶と会話を……馬鹿々々しい。
少し疲れているのだろう。
頭もまだ痛む。きっとこれが原因だ。
彼女を心配させぬためにも、早く直さねば。
「……すみません、本当に何でもないのです。紬さんがお心を割く必要はありません」
「そう、ですか……」
「はい。……それよりも、早く中へお戻りください。湯冷めしてはいけません」
「……」
風呂を出たばかりなのだろう。しっとりとした、艶やかな黒髪が揺れる。それに伴って、ふわりと甘い香りが……。
いかん。妹の髪の匂いを嗅ぐのは兄として失格である。というか人間として失格である。
努めて口呼吸をし、忠告する。
湯冷めは存外に危険なのだ。油断は禁物。そう判断しての行動だったが。
「……てい」
「つ、紬さんっ?」
「何ですかぁ、兄さん?」
「いえ、何というか、その……少し近いのでは、ないでしょうか」
「えぇー、そうですかぁー?」
するりと腕を絡ませ、頭を肩に乗せられる。
この瞬間、己は右腕から伝わる電気信号の全てをシャットダウンした。
だから風呂上がりの温かな体温とか、成長した妹の女性の部分を感じることなどないのである。
断じて、ないのである……!
「……もしや、お酒を飲みましたか?」
「さぁ、どうでしょう」
彼女は頬を上気させ、悪戯っぽく笑う。
恐らくは二択。風呂でのぼせたか、お酒を飲んだか。
普段は清純である彼女が、このような行動をとるには必ず理由があるはずだ。
何にせよ。取り敢えず、落ち着かせるために離れなければ。
「ふぅー……」
「っ!? ぅ、く、紬さんっ」
「あはは、どうでした? お酒の匂いしましたか? ふぅー……」
「……!」
目を閉じて念仏を唱える。
呼吸はしていない。もういっそ、このまま気絶するまで息を止めればいいのでは?
そうすれば彼女も飽きてどこかに……。
「兄さん……兄さん……」
「……つ、紬さん。あまり、耳元で囁かないでください」
「どうしてですかぁ……?」
「何事も、適切な距離というものがあります。さあ、分かれば手を放して、お部屋にお戻りを」
「……嫌、です」
僅かに驚く。彼女がここまで明確に拒絶するとは思っていなかった。
彼女はどちらかというと、自分の意見を言わず、胸に留めてしまう優しい子だった。昔……はそうでもなかったが。
それは成長するにつれて顕著になっていく。
大きな声を出さぬようになり、言葉遣いは丁寧に。動き回ることが減って、代わりに己に付いてくることが多くなった。
何をするにしてもまずは己に聞き、判断も己に任せる。
どこか自分を出すのが苦手な子。己はそう、彼女を認識していた。
だが、今のこれは。
「……もうどこにも、行かないでください」
「……」
「行っちゃ嫌です……ずっと、ずっと傍に居てください……」
「紬さん……」
腕を掴み、そっと袖を指で摘まむ。
その姿には見覚えがあった。それは三年前、浅ましくも死を望んだ時。
あの時の彼女は泣きながらに己に問うた。
己は答え、そして彼女の元を去った。
紬さんは家族想いな人だ。
故に、こうも恐れている。己なんぞにも、憐れみを覚えてくれている。
……彼女はまだ、己を家族だと思ってくれている。
……。
「紬さん」
「はい」
「どこにも行かぬ……とは、約束できません。いずれはここを出るときが来るでしょう」
「……はい」
「ですが」
彼女の顔を今一度見つめる。その瞳を、逸らさずに見つめる。
己にできるのはこんな口約束しかないが。
それでも、彼女の寂しさが少しでも誤魔化せるのなら。
「また、会いに行きます。暇があれば、何度でも。貴女に会いに行きます」
「……約束ですよ?」
「約束します」
「もう、お別れなんて嫌ですからね?」
「そうならないよう、努力します」
「……そこは、二度と離れないって言ってほしかったです」
「すみません」
「あと、兄さんは過保護すぎです。これくらいじゃ風邪なんて引きません。子供じゃないんですから」
「……すみません」
馬鹿の一つ覚えのように謝る己が、さぞ滑稽だったのだろうか。
彼女はくすりと笑って、己から離れた。
「……でもやっぱり、そういうところが好きです」
「へ……?」
「何でもありませんっ。兄さんもお風呂入ってください。もういい時間ですよ?」
「あ、あぁ、はい……分かりました」
軽い足取りで彼女は去っていく。
部屋に足を入れ、くるりと振り返り。彼女は優しく微笑む。
「それでは兄さん、お休みなさい」
「はい、お休みなさい」
暗い部屋に彼女の姿が消えていく。
完全に見えなくなって、己は一つ息をついた。
「……過保護、か」
実は、彼女のことを家族だと思っていたのは己かもしれない。相応しくないと言っておきながら、この傲慢。
溢れ出た羞恥を隠すように、月を見上げた……。
暗い廊下を女が歩いている。
艶やかな黒髪と、整った儚い顔立ち。少し大きめのネグリジェは、彼女の神聖さと妖艶さを際立たせていた。
ふと、彼女は道半ばで立ち止まる。
その瞳は、暗い影を見つめていた。
「……どうしましたか? そんなに怖い目をして。何か、お気に召さないことでも?」
否、視線の先にあるのは……目。
影の中に潜む、深い藍色の瞳が、紬を咎めるように睨んでいた。
「別にいいじゃないですか。それに、あのままでしたら兄さんが危険でしたよ。寧ろ感謝してほしいくらいなのですが」
変わらず、藍色の瞳は彼女を睨んだままだ。
睨み、侮蔑し、嫌悪する。
余計なことをするな。
瞳はそう物語っているようだった。
「……はぁ、そろそろいいですか? 明日も早いので、とっととその鬱陶しい視線を消してください」
対して紬も睨み返す。
藍色の瞳と、漆黒の瞳が交差する。
『……』
やがて、影の中に消えるように瞳が目を瞑る。移動したのだ。見当はつく。どうせ今頃、兄を意地汚く眺めていることだろう。
気色の悪い。
気配が完全に消失したことを確認して、紬は一つ舌打ちを打つ。
「……まあ、いいです」
これ以上無駄なことに思考を割きたくはない。時間は有効に使うべきである。
紬はポケットからイヤホンを取り出し、両耳に取り付ける。
そして少しの操作を加え……聞こえてくる、水場の音。
すぐさま世界最高峰の頭脳を駆使し、イメージする。
シャワーを浴びる兄の姿。
体を洗う兄の姿。
湯舟には浸かろうとしない兄の姿。
自らが用意した服を着替える兄の姿。
素晴らしい。
耳で感じる兄も、また一興である。あとで映像も確認しておこう。
「あは……」
ぶるり、と体を震わせる。
いけない、いけない。序盤から飛ばしすぎた。まだまだ夜はこれからなのだ。
興奮でおかしくなりそうな心を落ち着かせ、冷静になろうとする。
ああ、しかし、しかし……。
「もうすぐ……もうすぐですね、お兄ちゃん……」
蕩けるような笑顔で、彼女は笑う。
いつもの柔らかな笑みはどこにもない。あるのはどこまでも深い欲望。
自らの腕で抱きしめるように身を小さくし、歓喜に震える。
「絶対に、離さない……!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます