二十話 あい
色褪せていた。
かつての記憶が薄れ、朧げに。曖昧となった姿を、知らず求めていた。
大人になって道行く人々を眺めるようになったのは、きっとそういう理由だった。
会えるはずがない。
そも、会ったとしてどうするのか。
何がしたいのか。
漠然とした求心だけが燻り、焦げ残っていた。
どこか諦めていた。
それでいいとも、思っていた。
「……ぁ、あ」
だのに今、目の前にいる。
求めて止まなかった、あの人がいる。
間違いない。
間違えるはずがない。
あの顔。あの仕草。
あの、柔らかな雰囲気を。
俺は知っている。
ああ、そして、笑っている。
楽しそうに。
本当に、嬉しそうに。
「母、さん……」
よかった。
いつも申し訳なさげに俯いていた母が、笑っている。目を細め、幸せを噛みしめている。
何と喜ばしいことだろう。
何と、幸せなことだろう。
眼前には理想があった。昔、稚拙にも俺が抱いた、遠い理想が。
……十分だ。
これ以上は、いらない。あの人が幸せそうに生きているなら、もう。
何も言うことはない。
既に、俺の余地はない。
満足だ。
だから。
だから。
「母さん」
だから、やめろ。
今、やろうとしていること、全て。
考えるな。
やめろ。やめろ。やめろ。
「母さん……!」
やめろ、やめろ。台無しにする気か。やめろ。考えるな。やめろ、やめろやめろやめろなんでやめろ。やめろ俺をやめろやめろやめやめやめやめ痛いやめろ。
やめろ寒いやめろやめろ動くなやめろ。馬鹿なことをやめろやめろだめだやめろ見るなやめろ。
やめろやめろやめろ。
やめろ!
「母さんっ!」
いつの間にか。
俺は、手を伸ばしていた。
あの日と同じように。
縋る手を。
かあ、さん。
「――っ!?」
「ぁ……」
驚愕。
その顔は、それと、もう一つの色に染まった。
色の名を、絶望。
簡単な話だった。
母は俺を見て、怯えたのだ。
心底恐ろしいと、恐怖したのだ。
そして俺はきっと。
何もかもを、間違えた。
「……っ!!」
「え? ちょ、佑香さんっ?」
「ぁ、ぅ、待って……」
背中が見える。
どんどん遠ざかっていく。小さくなっていく。
母が、消えてしまう。
「ま、待ってくれ!」
咄嗟に叫んだ。
だけでなく、足も動かし。
手は伸ばしたまま。
会社の鞄も投げ捨てて、母を求めた。
このときを逃せば、一生会えない気がして。
必死に、無様に、追いかけた。
「どうかっ、はっ、話を聞いてくれっ、母さん!」
話がしたい。
違うんだ。貴女に、そんな顔をさせたくて呼んだんじゃない。
そうじゃないんだ。
ただ、感謝を。
幼い俺を育ててくれた、優しい貴女に。
俺は。
「はっ、はっ、くっ、ああ……っ」
ありがとうって、言いたいんだ。
ごめんなさいって、謝りたいんだ。
俺、馬鹿だったから。母さんの悩みとか、全然分かってあげられなくて。
何もできなくて。無能で。
……でも、こんな俺でも、大人になれたんだって。
恩返しがしたくて。
もう、心配しなくていいって、伝えたくて。
だから、どうか。
母さん。
ねえ。
お願いだよ。
もう、俺を。
「置いていかないで、母さん……!!」
「――」
母さんが振り返る。
体半分をこちらに向けて、次第に走りが緩やかになる。
距離はもう幾分もない。あと少しで届く。あと、ほんのちょっとで。
あの日、俺が掴めなかった手を。
ようやく掴めるんだ。
視線が交差する。
前には母の優し気な目が見える。俺が好きだった、温かな色が。
戻ってきた。帰ってきた。
想いが伝わったのだ。
何を話そう。何から伝えよう。
そうだ、俺、もうすぐ昇進するんだ。違う、えっと、あ、友達ができたんだ。中学校、高校で、少しだけど。元宮さん達にはよくしてもらって。たくさん面白い話が聞けて。幸せで。
それで、それで……。
母は顔を綻ばせ、ゆっくりと口を開き。
「ごめん、ね」
不意に、何かが潰れる音がした。
ぐちゃりとも、べきゃりとも言えぬ。
硬いものが折れる音。柔らかいものが破裂する音。
何かが、ぶつかった音。
「……ぁ?」
視界には赤がある。
目に悪い、赤、赫、赩。
流れている。俺の右手にも付いている。
これは、何だろう。
「……」
鉄の臭いがする。
おかしい。
おかしいな。
何かが、おかしい。
「おい」
「……?」
声がする。
低い、男の声だ。
「おい!」
「ぐ、ぁ……っ」
引き倒される。馬乗りになられる。
顔が見えた。
不理解と、憤怒に染まった顔。
妙に見覚えがある。一体、誰だったか。
「何だよこれ。何なんだよ。何が起こってんだよ、なあ。なあ、おいっ!」
「ぁ」
振り上げられた拳が、顔に当たるとき。
思い出した。
彼は、母と手を組んでいた……。
ごん。
「ぁ、がっ」
「ふざけんな。ふざけんなよ、ふざけんなよお前ぇ! くそっ、くそぉおおおおお!!」
「かふっ、ぅぐっ」
ごん。ごん。ごん。
頭の中で重い音が響く。
殴られて沈む後頭部を、アスファルトが返している。
顔には火傷のような熱がある。
彼の拳が燃やしていた。
ごん。ごん。ごん。
「何で、何でだ! 何で、佑香さんが死ななくちゃいけねぇんだよ! この野郎!!」
「……ぇ?」
今、なんて。
音が戻ってくる。空白の世界から、雑音の現実へ。
引きずり降ろされる。
「うわ、マジでやべぇじゃん。グロ」
「ちょっ、誰か救急車救急車……!」
「警察も呼んでこい! めっちゃ殴られてる奴がいる!」
「なんだこれ、マジか。一応撮っとこ」
「ねえ、なんか凄い落としたけど、何があったの? いい加減見せてよ~」
「駄目だ! 人が轢かれたんだよ! くそっ、道路に飛び出しやがった!」
轢かれ、た?
誰が?
どうして?
決まっている。
お前が一番、よく知っている。
「ぁ、ああ」
嫌だ。嫌だ。
それは、嫌だ。だって、こんなのは、あんまりだろう。
信じたくない。
認めたくない。
何も、かも。
「お前のせいだ! 全部お前が、お前がああああああ!」
「ぐっ!?」
一際強く殴られる。
アスファルトが頭皮を削る。
横殴りの拳。
自然、顔は横を向いて。
そこには、赤が流れていた。
「……ぁ、ああぁぁ」
「死ね、死ね、死ね……!?」
「いい加減にしろ! おいっ、誰か手伝ってくれ!」
「お、おう! って、こいつ、なんつー力で……!?」
「離せぇえええええええ! 死ねぇええええええええ!!」
赤が流れている。
流れ、広がり。地面に散っていく。
それは命。
生きていくための赤が流れていた。
母の命が、流れていた。
「あああぁぁぁ……」
動かない。
ちっとも、ぴくりとも。
母は動かない。
動いてはくれない。
あれは、腕か。どうしてあんな方向に曲がっている。
お腹から飛び出しているのは何だ。何故動かないんだ。
鉄の臭いがする。怖い臭いだ。とても、怖い。
駄目だ。
駄目だ。
これは、駄目だ。
ああ。
あああああああ。
「ああああああぁぁぁぁぁぁ……っ!」
遅まきながら、気付く。
全く、今更に。
理解する。
母は死んでいた。
あきらかに、誰が見ても、即死だった。
大型車に轢かれて、死んだ。
内臓を散らしながら、命を零しながら。
一瞬の猶予もなく。
死んだ。
……違う。
お前が、殺した。
お前があの人を、追いかけなければ。
お前があの人に、話しかけさえしなければ。
お前があの瞬間、生きていなければ。
母は死ななかった。
母は幸せになれた。
「母さんは、未来に進めた」
お前のせいだ。
お前が、あんな望みを持ったから。求めてしまったから。
母が過去を断ち切り、未来へ進む一歩を。
希望に満ちた、今までの善報を。
花開く、人生を。
お前が。
俺が。
「俺が奪ったんだ。俺が……俺が! 母さんの、何もかもを、奪ったんだ」
濁り切った、汚泥を吐き出すが如く。
絶叫する。
憎悪が心を支配する。
生まれてきたことが、只管に憎かった。
「さんざん、夢を語っておいて。周りの人に迷惑をかけておいて。俺は……!」
人の役に立つ。
認められなくていい。貶されてもいい。
ただ、誰かを少しでも幸せにしたくて。できるって、証明したくて。
そんな夢を抱えていた。
その結果が、これだった。
「……俺は、何なんだ。なんで俺は、生まれたんだ? 人を不幸にしかしない、害悪が、どうして」
死にたい。
一刻も早く、消し去りたい。
だが死は安寧だ。
向かう先が地獄だと確定していても、俺はまだ苦しまねばならない。
川の中は苦しかった。呼吸ができず、恐ろしく寒かった。
自らが死を望み、成功する。それは何て、身勝手なことだろう。
許されない。そんな幸福は、許されてはならない。
決して。断じて。
だから今の今まで、生きてきたのだ。
恥を知らずに、のうのうと。周りに不幸を振り撒いてなお、罰も受けず。
人生を怠惰に消費してきた。
大罪を犯してきた。
終わらせなければならない。
「……もう、嫌なのです。これ以上、誰かに迷惑をかけることも。愛すべき隣人を、汚すことも」
首を差し出す。
さながら、打つ首を待つ罪人のように。
見下ろすはアスファルト。あの日と変わらぬ、灰色の地面。
変わったのは遍く全て。関係も、景色も、心も、夢も。
廃れ擦り切れ薄れ落ち。
変わってしまった。
どうでもいい。
もはや、俺がどうなろうと、知ったことではない。
重要なのは一つ。
「分不相応の願いだと、重々承知しています。身勝手な望みだと、理解しております。ですが、どうか」
頭を更に深く下げる。
彼女の手は未だ、己の首にあるが。御体に触れぬよう、細心の注意を払って希った。
罪の告白。
罪人の希望。
「どうか」
彼女の優しさに付け込む、非道。
あらゆる手を尽くし、目的を達成せんとする。
成程、とうとう心の根まで腐り落ちたらしい。尊厳も、誇りも、既に奈落の底だ。
取り返す必要はない。
手に取ったところで、もう。
入れる余地はないのだ。
感情は一色に染まっている。
どす黒く、醜く、汚らしい色に。夥しく染まりきっている。
口を開けばそのまま流れ出そうな。
気持ちの悪い感情だった。
今からそれを、彼女にぶつけようというのだ。
言葉はない。
これを貶すに相応しい言葉が、見つからない。
見つからないが。
あえて、言うのなら。
……。
「俺を、殺してください」
お前は、死ね。
死ね。死んで償うことも出来ずに死ね。無様に死ね。
価値なく。意味なく。
ただ、死ね。虫けらのように。
それがお前にできる、最後の善行だ。
さあ、早く。
早く俺を殺してくれ。
お願いします。
どうか、お願いいたします。
殺してください。
「天音さん」
「……」
返事はない。
まだ、足りないのか。殺害に足る理由が。
何故だ。
俺なぞ、道端に転がる石にも満たぬ廃棄物である。
彼女が一度腕を振るえば、それだけで消える存在である。
何を躊躇っているのだ、貴女は。
こんな、俺ごときに。
「……貴女も分かったことでしょう。この男が、どれほど醜いか。救い難いか。理解したでしょう。これは、生かしておく意味がない。何の利益も生み出さない、塵なのです」
「……」
返事は、ない。
「……っ、一体何を迷っておられるのですか。所詮、俺は刹那の記憶。貴女からすれば無価値、な……!?」
「……」
言葉の途中、息が止まる。
否、止められる。
いつぞや感じた圧力とは、比べるべくもない圧迫感。
思わず顔を見上げる。
「ぁ、か、っは……!」
「……殺せと、言ったのか。よりによって、この儂に」
そこには色がない。
無だけがあった。
全てが抜け落ちた、空虚な深淵。
見つめられる。
「孝仁を、殺せと」
震えが止まらない。
奥歯がカチカチと鳴った。
手を握り締め、情けなくも返した。
「そう、です……! 俺は、生きては、いけないっ」
「……」
「貴女が、それを、拒むならば……っ」
舌を深く出し、前歯で挟む。
古今東西、最もポピュラーな自害方法。
道具も薬も必要なく、自らを殺せる最後の希望。
実際の所、死ぬ可能性は低いらしいが。やる価値は、十分にある。
「……やめよ。ここでは全ての事象が終わらぬ。傷を付けたとして、すぐに癒えるぞ」
「であれば、何度でも」
何度でも。何度でも。
痛みで気が狂い、俺が廃人と成り果てようとも。
貴女が俺を、見限るまで。
俺は俺を殺し続ける。
「……そうか」
「はい」
「儂と一緒には、おれんのか」
「……は、い」
拒絶の言葉を吐き。
ついに、両の手が離れる。圧力が消える。
存外に淋しげな顔を見せながら、彼女は問うた。
「……儂では、嫌か?」
「違います。嫌なのではありません。ただ、許されないのです」
「そんなもの、誰が決めた」
「俺です」
「……っ」
即答する。
一切言い淀むことなく。
目を合わせ、キッパリと。
「俺が許せないのです。俺が、認められないのです。絶対に、絶対に」
「……」
「……再三、お願い申し上げます。どうか、もう」
頭を下げる。懇願する。縋り付く。
枯れ切った命のまま。
心から願う。
「もう、終わらせてください」
……沈黙が降りる。
依然、彼女は動かない。なおも待ち続ける。
待って。
待って。
……。
そう、か。
「……重ねて謝罪を。身の丈の合わぬ、過分な願いを口にしました。酷く、愚かな望みを」
「……」
顔を上げ、一呼吸置く。
覚悟の瞬間。完了の知らせ。
思考は酷く鮮明だ。やるべきことが決まっているからだろう。
そうだ。これでよかったのだ。
彼女の手を汚すことなく、一人で終わらせる。
これこそ理想であった。
俺に相応しい、惨めな最期だった。
「天音さん」
「……うん」
数秒後、俺は消える。
絶え間ない痛みと狂気の渦に、呑まれて廃れる。
その様を、延々と彼女に見せるのは申し訳なかったが。彼女の失望こそ目的とするため、今だけは知らぬふりをした。
「……」
「……」
静寂がある。
嵐の前の静けさを思わせる、痛いほどの沈黙。何も言わず、見つめ合っている。
目を閉じた。
暗闇の中で脳裏に過る、彼女との日々。甘く、温かく、幸せで、辛い。天音さんとの暮らし。
あの夜を思い出している。布団の温もり、笑顔の眩しさ。
そして……ああ。
今更に。
この期に及んで、ようやく俺は気が付いた。
伝えるべき言葉を失念していたと。何よりも優先して、貴女に言うべきことがあったと。
顔を合わせたとき、微笑んだとき。
心を制して、言うべきだった。
遅くなって申し訳ない。本当に、申し訳ない。
目を開ける。
すぐ前には彼女がいる。手を伸ばせば届く距離に。
愛らしき、花の姫がいる。
美しい。
眩しい。
愛おしい。
ああ、全く。
「よく似合っています、その髪飾り」
「……ぁ」
月を模したそれ。
給料の何割かを持って行った、されど値段に見合う一品。
俺が買ったという点さえ除けば、それは最上のものだった。
「どうか、お幸せに」
「孝、仁」
空の帳は落ち、月光が彼女の銀髪と、月の装飾を照らしている。
綺麗だ。
この世にあるどんな絶景よりも、絵画よりも。
美麗で、繊細で、柔らかくて、温かだ。
よかった。
最後にこんな救いがあって。
報われた。
俺は幸せ者だ。
だから、天音さん。
「さようなら」
「待っ――」
ぶちん!
「……」
「……っ」
「……」
「孝仁」
「……」
「……」
「……なるほど、のぅ」
「これは、
天音は隣で眠る、愛しき彼の頭を撫でる。
ゆっくりと、起こさぬように。やや硬めの感触を楽しんでいる。
「よぅし、よし」
「すぅ……すぅ……」
聞こえてくるのは、規則正しい寝息。
少し前までは荒く苦しそうだったそれも、随分と改善した。適切な食生活と睡眠環境の賜物である。
しかし、体調の方はまだ万全ではなく。時折、胸を痛む様子が見られる。
恐らくは精神的ストレス。
舌を噛み千切り、喉を掻き毟って。
孤独に終わった。
何としても潰さねばならない。あんな、くそったれな未来は。
どんな手を使っても、必ず。
「ん、ぅ……」
「……おっと、すまぬ。思わず力が入ったか」
よしよしと、柔らかく彼の髪を撫でる。
次いで耳、頬、鼻、唇、喉。
擽るような手触りで、愛おしげに弄る。動かすたびに、ぴくりと動く彼が可愛かった。
「ぁ、あ……はぁ、あ」
「……くふふ」
いつもの部屋で、いつもの日課。
変わらぬ日々に、終わらぬ光景。
最愛の彼に、最悪の終わり。
あまねく未来を見通す神獣、天狐。最上の狐。
天音は、薄暗い寝室の真ん中で、静かに笑った。
「……くふ、うふふふふふ。あははは。大丈夫、大丈夫だよ、孝仁」
深い藍色の瞳が濁っている。怪しげに濡れている。
底を見通すこともできぬほど、暗く蠢いている。
もし、その色に名前を付けるのであれば。
それは、きっと――。
「天音が貴方を、救ってあげるからね」
※近況ノートにてお知らせがあります。
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