番外編 とある愚男と白狐の物語 終


 純白を纏った少女は、シロと自らを名乗った。

 営業中、道ですれ違う若い子らが好んで着る服装と、それに見合った美しき容貌。

 そう、間違いなく彼女は美しい。服から化粧まで。彼女は全く、人の好かれる姿をしていた。


 だのに、己がまず感じたのは、違和感。

 言葉に出来ぬちぐはぐさを、己はあの少女から感じていた。


「……はぁ」


 ため息が狭い部屋の天井に消えていく。

 胸中にあるのは痛み。彼女を拒絶してしまったことの、罪悪感が胸を刺していた。


 後悔はしていない。己は自らのすべきことを為したという自信がある。

 あの先にはお互いに破滅しかない。

 誰かを傷つけて得た自由など、意味はないのだ。彼女にもそれを知ってほしかった。

 価値のない己の全てを欲した、酷く哀れな彼女に。

 だが、それでも。


「……我ながら、頑是ない」


 幾度も言い訳を重ねた。あの行いは正しかったと、自分に言い聞かせた。

 しかし離れないのだ。

 あのとき、彼女の手を弾いたあの瞬間。

 信じられないような、今にも泣きだしそうな彼女の顔が、どうしても離れてくれない。


「遅かれ早かれ、こうなるのは決まっていただろうに」

 

 己は本当に、正しい行いを為したのか。

 繰り返すも後悔はない。ないが、疑問に思うのも事実だ。

 もっとよりよい結末があったのではないか。もっと円滑な別れができたのではないか、と。

 だから、今も己は……。


「……ふぅ。どうも、独り言が増えていけない。早く飯を済ませて寝なければ」


 そう口に出して、動く体は緩慢だ。少し前までとは随分違う。

 思っていた以上に、己は彼女にご飯を作ることが好きだったらしい。自分の空腹を満たすためだけの料理が、こんなにも虚しいとは知らなかった。

 否、忘れていた。

 思い出すのは幸せだった日々。義母の料理を手伝い、皆に振舞ったあの光景。


 もう二度と、戻ってはこない幸せである。


「……はぁ」


 本日何度目かのため息を吐く。

 うじうじ悩んでいても仕方がない。明日もまた仕事があるのだ。エネルギーを補給せねば、それこそ彼女の言う通りになってしまう。


 そう一区切りをつけて、己は冷蔵庫を開ける。それだけで酷く疲れた。

 さて、今日は何がいいか……。


――コンコン


「……?」


 何かが叩かれる音がした。軽く二回、木のようなものを叩いた音だ。

 己はその音を知っている。

 何故ならそれは、彼女が来る合図だったから。


「ありえない」


 瞬時にかぶりを振って、その可能性を否定する。

 彼女は去ったのだ。己がそう、烏滸がましくも命令したのだ。もう会うべきではないと、強い言葉で。

 傷付けてしまった。

 そんな憎き相手に、誰が好んで会いに行こうか。

 仮にもし、理由があるとするならば。

 

 それはきっと、己に対する復讐だろう。


「……」


――コンコン


 その瞬間、すとんと、腑に落ちた音がした。

 考えてみれば当たり前の報復で。己は彼女の全霊なる提案を断り、あまつさえ絶交を命じた男だ。

 さぞ憎かろう。さぞ嫌いだろう。


 彼女の家は裕福で、日本でも有数の富豪だと聞いた。

 なるほど。己という木端など、どうとでも消せるわけである。

 つまりこれは、そういうことだ。


 清算の時が来た。

 

「……ふぅ」


――コンコン


 彼女への罪。

 今までの罪。

 これからの罪。


 過去、現在、未来の罪を、己は清算しなければならなかった。

 それが今というなら、是非もなし。

 むしろ感謝の意をもって、償おう。


「よし」


 己は歩き出す。

 意外なほど足取りは軽い。先ほどの鈍重が嘘のようだ。

 数秒にして扉の前に着く。

 相手もそれが分かったのか、扉を叩く音は消えていた。


 これで終わる。

 今日、己の全てが終わる。

 

 すみません、すみません。

 

 そして、さようなら。


 ドアノブを回し、開けた先には……。


「……?」


 しかし待っていたのは、屈強そうな黒服でも、憎悪に色を染めた彼女でもなかった。

 そこには誰もいない。

 ひゅう、と風が流れるだけである。

 すわ勘違いかと、踵を返そうとし。

 

「こんこん……えへへ、なーんちゃって」

「……!? シロ、さ……んっ!?」


 眠気。

 強烈な、そして抗いがたい眠気が襲う。

 睡眠薬などとは比べるべくもない。一瞬にして、暗闇の世界に引きずり込まれる……。


「ごめんね、孝仁君。もうちょっとだけ、我慢してね」

「ぁ、ぐ……」

「そしたら、そしたらさ。きっと全部全部、幸せになるから、ね? ね? ふふ、あはははは……」

「シロ……さ……」

「……んー?」

 

 寝てはいけない。

 本能が恐ろしいほど警鐘を鳴らしている。

 だが、これはあまりにも、辛い。

 

 だめだ、意しき、が……。



「……シロさん、か……んー」













 浮上する。

 泥沼だった世界から、意識が引き上げられる。

 急激な高低差。頭がよく回らない。

 己はなんだった、己は何をしていたのだった。己は、一体……。


「……っ! ぁ、ごほっ、シロ、さん……!」


 意識が覚醒する。

 だんだん思い出してきた。己は先程まで、部屋にいたはずだ。そこで扉を叩く音を聞き、そして……。


 背後から、彼女の声がしたのだ。


「一体、何が……」

「あー、起きたー? 孝仁くーん」

「っ!? し、シロさん……?」


 声が聞こえる。今度は背後からではない、前からだ。

 己は愚昧にその姿を認めようとした。


 しかし、暗黒。


 そこで初めて、己は目に布のようなものが巻かれていると知る。次いで、両腕両足が縛られていることに。

 己はどれだけ気が動転していたのだ、情けない……!

 

「ごめんねー、いきなりこんなことしちゃって。でもでも、大切なことなんだよー? だからもう少し、我慢してね」

「我慢……? 大切……? それは、どういうことなんでしょうか、シロさん」

「……んー」

「シロさん……?」


 何かが不快だったのか。言葉だけでも分かるほど、彼女は不満そうな声を漏らした。まるでそれは、幼子がいじけたような、そんな声だった。


「知ってると思うけど、シロって名前さ。あれ、偽名なんだよね」

「……」

「でも、この世には本当に白って名前の子もいるじゃん? それってさ、つまりさ」


 輝くような、深紅の赤が己を見つめる。

 見開いた眼で、己だけを。


「今までずっと、孝仁君は違う子の名前を呼んでたってことだよね?」

「ぐっ……!?」


 瞬間、体中が締め付けられるような重圧を感じた。

 経験はないが、蛇に巻き付かれたようだ……!


「ああ、ごめんね、ごめんね。孝仁君が悪いわけじゃないの。嘘の名前を教えたのは私。……でも、でもでもね? 偽名だって知っててさ、何も聞いてこないのも駄目じゃない?」

「ぅ、あ……!」

「ごめんね? ごめんね? 謝るから、許してね? そしたらさ、また始めるの。貴方と私の、新しい永遠を」

「シ、ロ、さ……!」

「……」


 意識が朦朧とする。

 消えかかる思考の中、情けなくも口から出たのは彼女の名前。

 己の、言わば怠慢の塊。そのせいで彼女は傷ついていたというのに。己はまた、その名を呼んでしまった。

 なんと、愚かな……。


「白愛だよ」

「……ぇ……?」

「名前。私の、本当の名前」

「ぁ……」


 気付けば重圧は消えていて。妙に言葉が、鮮明に聞こえた。

 知らず、頭の中で反芻する。

 流れ込むかのように、名が過ぎる。


 はくあ。

 白あ。


 ……白愛?


「白愛、さん……?」

「~~!! ぁ、あぁ……! あは、あはははは!」


 笑い声が聞こえる。

 よいことだ。彼女が笑顔になるのは、いいことだ。

 ……だが、これは。


「どうしたんですか、白愛さん。白愛さんっ」

「あはっ、ぁ、名前、教えちゃった……! 真名なのに、あはは、あははは……っ!」


 狂笑。

 彼女の様子は、これに尽きる。明らかに正常ではない。

 となれば、今の己の状況も正しい判断で下されたものか怪しい。


 殺されるのは、いいのだ。

 所詮は人殺しの薄汚い命だ。これで彼女の気が少しでも紛れるなら、それは本望だろう。


 しかし、こんな己でも、人は人。

 見つかれば彼女に殺人罪が問われる。問われてしまう。

 そして、今の彼女は普通ではない。

 正直に言って、冷静に事後処理ができるとは思えないのだ。

 ならばどうするか。

 舌を唇に這わせ、僅かに濡らした。


「白愛さん。聞いてください、大丈夫ですか。落ち着いたのなら、私の話を聞いてください」

「あは、あはは。凄い、孝仁君が私の名を呼んでる。凄い凄い凄い! うん、大丈夫だよ。あはは、なぁに?」

「……まず、今までの非礼を詫びます。様々なご不快があったことでしょう。どうか、お許しください」

「うーん? そんなことあったかなぁ? ……あ、でもね!」


 ふわり、と顔に風が当たる。

 どうやら顔を近付けられたらしい。意識して、鼻呼吸を止める。


「今から一週間前。ね、覚えてる? ね、ね?」

「……はい」

「あのときは傷付いたなぁ。まさか手を払われるなんてさ。私の長い人生……人生? で初めてだったよ!」

「そう、ですか」

「うん!」


 違和感。

 言葉で傷付いたという割に、声色は楽しげだ。これからかける拷問を楽しみにしているのだろうか。

 それに、どこか言葉も……。


「ああでもね、勘違いしないでね。私、ちゃんと分かってるから。孝仁君のこと、ぜーんぶ理解しているから」

「……? それは、どういう」

「いいのいいの! 言わなくても、私達は以心伝心だもんね! 孝仁君は私の全てを分かって、受け入れてくれる。だから私も、全部分かってるの!」

「お待ちください。一体、何の話を……」


 異常を感じる。 

 明確に、言葉が通じ合っていなかった。

 一見、というか一聞すれば彼女は上機嫌である。声色は明るく、いつもの彼女のようだ。

 だのに己は、その中に焦りのようなものを感じてならない。

 否、焦りというより、これは……。


 そうして、答えのようなものを見つけようとしたとき。

 ふと、小さく。

 されど聞き逃せぬ、何かが聞こえた。


「た……け、て……」

 

「……?」


 本当に小さな声だ。

 呟くような、酷く掠れた声。

 誰の声だ? いやそもそも、どうしてここに。彼女の知り合いだろうか。

 

「……す、け……」

「ぁ……ぁ……」

「ひぃ……ぃ……」


「……」


 嫌な汗が、背筋を伝う。

 冷たい冷たい、本当に恐ろしいときに出る汗だ。


 まさか、そんな、馬鹿な。


 彼女は明るく活発だ。だがそれは彼女の本質ではない。

 繊細で、お淑やかで。氷菓の如し美しさを持つ、儚い少女。清らかな少女。

 それが彼女だ。

 だから、だから。

 そんな、悍ましいことは。


 震える唇を開く。

 濡らしたばかりだというのに、酷く乾いていた。

 唾を飲み込み、静かに聞いた。


「し、白愛、さん……」

「それでね! 小さいけど、すっごく綺麗なお家に住むの! それで、それで……ん? どうしたの、孝仁君」

「つ、つかぬことを、お聞きしますが。もし、もしなのですが。この場において、私達以外の誰かが……」


 いるのでしょうか。

 

 最後の言葉は小さく、震えていた。しかし言い切った。

 大丈夫だ。きっとまた己の勘違いで。

 恐らく風か何かが、そう聞こえて。


「……? あ、そっか! ごめんごめん、目隠し取るの忘れてたよー」

「す、すみません」

「いいのいいの! ……ん、よし。取れたよ!」

「はい、ありがとう、ござい、ま……す……」

 

 存外に、目に入る光は明るかった。

 夜だと思っていたが、もう早朝のようだ。

 ここは廃墟だろうか。広く、少し壁が剝がれていた。


「あ、あれは……白愛さん、あ、あれは……」

「えへへ、私頑張ったんだよ? あいつら、無駄に人数が多くてさー。でも、孝仁君のためなら全然辛くなかった!」

「そんな……そん、な……」


 吊るされている。

 男が、女が。

 雑多な紐で、胴体を結ばれて吊るされている。


 知っている顔だ。

 あそこにいる全員は、己の知っている顔だった。

 ああ、そんな、何てことだ。


「う、腕が……足も……」

「あ、そうなの! あれ、孝仁君を虐めてたでしょ? だから報いを受けさせたんだー。えへへ」


 震えて、彼女を見る。

 花の咲くような、綺麗な笑顔だった。純真で、澄み渡っている。

 彼女の、笑顔。


「どうして」

「んー?」


 気付けば口を開いていた。


「どうして、貴女が。ど、どうして、こんな、悍ましい……ああ、くそ、夢でも見ているのか。こんな、こんなことが……」

「……どうしてって、言われてもなー」

「な、何か理由が、あるのでしょう? このような行為に至った、重大な、理由が」


 あるはずだ。なければいけない。 

 あのような、人権を無視した行い。そうでなければ、あまりにも。


「だってさ、あいつら孝仁君虐めてたじゃん」

「……は?」

「いや、許せないよね。無能で汚い塵のくせして、私の孝仁君を傷つけるとかさ。頭おかしいんじゃないのかな」

「……そ、それだけ、なのですか?」

「ん? そうだよー。えへへ、私偉い? いいことした?」

「――」


 駄目だ。

 この少女はもう、狂ってしまっている。

 誰がそうさせた。誰が彼女に、このような行為を強いた。

 

 ……己、だ。


「えへ、ちゃんと殺さずに取っておいたんだよ? 孝仁君が、直々に手を下したいかなってさ。ねえ、私偉い? 私、いい子?」

「……俺の」

「?」

「俺の、せいですか?」


 彼女が社員を襲ったのも。彼女が不安げに、何度も偉いかと聞くのも。

 どろどろに煮詰まった、妖しい瞳をするのも。


 全部、全部、結局は。


「俺が、貴女にこんな、恐ろしいことを、させて」

「……」

「不安にさせて、怯えさせて……あぁ、あぁ、なんてことだ……」

「知らなかった。孝仁君、自分のこと俺って言うんだね。なんだかドキドキしちゃうな。そういうのも、好き。えへへ」

「……っ」


 どうして、貴女は……!


「こんな男を、好きになる必要はない……! なってはいけないのです! どうか、目を覚ましなさい……!」

「目は覚めてるよ。貴方が、覚ましてくれたの」

「そんなことはっ」

「あるよ。だって、貴方だけだったんだもん。私にはもう、貴方しかいない」

「ご家族がいるでしょうっ。ご友人だって、貴女ならば……!」

「あははははははは!!」


 笑う、笑う、笑う。

 おかしそうだ。全く、喜んでいる。

 だが、あぁ。

 己はこの笑顔に、恐怖を抱いている。

 彼女が彼女でなくなってしまう気がして、恐ろしい。


「可愛いなぁ、愛しいなぁ。私の言うこと、ぜーんぶ信じちゃってさ。あぁもう、大好き」

「なに、を……」

「だーかーら。嘘なの。全部全部、嘘だらけだったの、私」


 ふわり。


 視界の端で、白い何かが揺れた。

 それは。


「は……? 尻、尾……?」

「んぅ、じっくり見られると恥ずかしいね。孝仁君だからかな」

「これは、一体」

「えへへ、実は……ごめん、後で話すね」


 己が混乱にいる中、彼女は顔つきを変えて虚空を睨む。

 酷く鋭い、憎悪に塗れた様子だった。


「五、六……陰陽師か。はっ、それに裏切り者が三匹ね」


 くるり、と顔をこちらに向けて、彼女はにこやかに話す。


「ごめん、ちょっと片付けてくるね。大丈夫、すぐに終わるから」

「白愛、さん……」

「あはは、そんな心配そうな顔しないでよ。切り札もあるし、平気平気」


 行かせてはいけない。

 何もかもが分からないが、それだけは事実だ。

 このまま彼女を、行かせてはならない。


 だが。


「これが終わったら、二人で山に住むの。静かで、誰もない、小さな小屋でね。それで、たーくさん子供を作るの。えへへ、いいでしょ?」

「……はい」

「孝仁君もそう思うよね!? よかったぁ、私心配だったんだ。もし反対されたらどうしようって! 本当に、よかったぁ」

「……っ」


 彼女を置いてはいけない。

 この哀れな、矮小で愚昧な男に狂わされた、この美しい少女を。

 これ以上、己は傷付けられない。


 勝手な話だ。

 彼女を想うなら、行かせるべきではないというのに。

 あの行動を、叱責すべきはずなのに。

 己はそれをしなかった。できなかったのだ。


 もう、己しかいないと。笑いながら、泣き顔を隠してそう宣う彼女に。

 己は否定したらどうなる。 

 一体誰が、彼女を慰めて、寄り添ってやれるというのだ。


「じゃあ、行ってくるね」

「はい、どうか、お気をつけて」


 己は最底辺にいる。人殺しの、最悪だ。

 だが彼女は、そんな己を好きだと言う。それがどれだけ異常なことか。どれだけ、憐れなことか。


「……白愛さん」

「んー?」


 置いてはいけない。

 この世の真下に進む彼女を一人、置いてなどいけない。

 だからせめて、寂しくないように。

 彼女がもう、一人で泣かなくていいように。


 どこまでも一緒に、堕ちていこう。


「愛しています」

「……うん。うん! えへへ、私も! 私も、だーい好き!!」

 

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