一章 平穏な日常

一話 私の罪 貴女の名前


 二十二のとき母を殺した。

 綺麗な桜が咲いている、暖かい春の日のことだった。


 二十四のとき自殺を図った。

 涙が出るほど美しい川に、重りを背負って入水した。


 それから三年が経ち。


 己は今、土下座をしていた。


「……お、俺、お、お前に言ったよなあ? つつ、次遅刻したら承知しねえってよお。なあ?」

「すみません」

「す、す、すみませんじゃあ、ねえんだよっ! ま、毎度毎度適当に謝りやがって! ふ、ふざけてんのか!?」

「申し訳、ありまっ、せん」


 頭を踏まれる。 

 

「お、お前、社会舐めてんだろ。だから遅刻なんて、へ、平気でやるんだろ、あ? 俺の、俺の時代じゃなあ、遅刻は厳禁。するやつは即クビで、クビでよお」

「は、い」

「俺は真面目だから、し、しなかったんだけどな? でもやっぱ、お、お前みたいなカスはいるんだよ世の中に! このっ、くそっ、あああああっ!」

「すみま、せん」

「ふぅ、ふぅ……だ、だのにあいつら、俺より出世しやがって……お、おかしくねえか? おかしいよなあ!?」

「ぅ、っ……はい」


 今日の晩ご飯は何にしようか。

 確かうどんが余っていた。なら帰りにお揚げを買おう。

 ついでに明日の朝ご飯も。

 他に必要なものはあっただろうか。

 あったような気がする。

 

「はあ、はあ、はあ……お、おいこれ。お前、これやっとけよ。ち、遅刻したんだから、今日までにやっとけよ。いいな!?」

「はい」


 仕事が追加される。背中に投げつけられた書類がばらばらと崩れる。

 土下座は解かない。まだ解くべきではない。

 足音が聞こえた。


「あ、元宮もとみやさんおはざーす」

「おはようございます」

「……んじゃ、これお願いしますねー。あとこれと、これ。明後日までらしいんで、なる早でおねしゃす」

「承りました」


 背中に重りが増す。

 足音はそれに比例して多くなる。


「元宮君これやっておいてね。今週中だから。あっ、小林さんおはよー。昨日のドラマ見た?」

「はい」

「元宮ー、これ頼めるか? 何か途中で面倒くなってよー」

「はい」

「見た見た! ちょーどきどきしたよね!」

「おい、ちゃんとやっとけよ。……おー橋本、見ろよこれ。昨日買った腕時計。すげー良くね?」

「それめっちゃ高いやつじゃないすか! うわーいいなー」

「はい」

「そう言えば知ってる? 中村さん彼氏と別れたんだって」

「あー、元宮。はい、明日までね」

「はい」

「ねえねえ今日の昼どっかファミレス行こうよ」

「え、うそ!? あんなに仲良さそうだったのに!? 意外ー」

「いいね! あ、じゃあさじゃあさ……」

「はい」

「木曜までに……」

「はい」

「これよろしく……」

「はい」

「元宮これ……」

「はい」


「はい」



「はい」




 ……最近、頭痛がする。

 恐らく目の奥のどこかしら。そこが酷く痛む。

 寝ても治らないので、一生このままかもしれない。その一生も、いつまで続くものか。甚だ疑問だ。

 水の匂いがする。少し懐かしい匂いだった。


 気づけば足音は止んでいた。


「……」


 頭を床に付けたまま、背中に手を伸ばす。

 それなりの束となった書類を掴み、床へ置く。

 漸く、そこで土下座を解いた。

 辺りに散らばった書類を搔き集め、一つにまとめる。

 クリップが付いているもの、ファイルに入っているもの、紙だけのもの。

 それらを集め終えて立ち上がる。


 不意に思い出した。

 

「……あ」


 シャンプー、切らしてたっけ。














 深夜、帰路に就く。

 点在する街灯を頼りに、ふらふらと歩く。そんなだから、既に数回、電柱にぶつかった。 

 頭が痛い。何故か目も霞む。

 お腹がすいた。

 晩ご飯は何にしよう。

 確かうどんが残っていた。なら帰りにお揚げを……。


「あ、だから買ったのか……」

 

 左手に持った買い物袋に視線を向ける。

 中身は見えないが、そこにはシャンプーと朝ご飯用の総菜パン、お揚げが入っているはずだ。

 ポケットにある紙切れを想う。

 メモ書きをしておいて正解だった。

 危うく、もう一度買いに戻るところであった。

 忘れずに買えてよかった。

 そうやって、気を緩めたからか。


 ごん。


「ぃ、っぅ……あ」

 

 よろめいて倒れる。

 同じ光景を見た気がする。己の脆弱な肉体では、反作用にも勝てぬらしい。

 反射的に手を突こうとして、両手が塞がっていることに気付く。

 右手には会社の鞄、左手には袋。どちらも傷つけるわけにはいかない。

 取れる選択肢は一つ。

 そうだ、思い出した。

 だから先程から、尻が痛むのか。

 衝撃が走る。


「っ、ぁ、……あ、つぅ……っ」


 激痛、と言うよりは鈍痛。

 大して重くもないこの体ではかかる衝撃も知れているが、重力は偉大である。

 暫し痛みに耐える。

 ダンゴムシの如く、体を横にして丸める。

 遺伝子に刻まれた防御態勢。

 他人事のように、惨めだなと思った。


「はぁ、ふぅ、は、ぁ……ぃ、っ、ぁ……」


 今、どこまで来ている。

 もう帰り道の半分は越えたか。コンビニに寄った帰りだからそうかもしれない。

 何個目の街灯だこれは。知ったところで何になる。

 痛い。

 早く帰りたい。

 楽になりたい。

 奥歯を噛み締め、嵐が過ぎるのを待つ。

 ただ、待ち続ける。


 ……それから少しして。


「はぁ、ふぅ、はぁぁ……ふぅぅ……よ、し」


 のそり、と立ち上がる。

 未だに痛みは健在。だが動くのに支障はない。

 再び歩き始める。

 おぼつかぬ足取りでも、前進は前進。であればきっと問題はない。

 早く家に帰ろう。

 そう思ったのだが。


「……? ……着い、た?」


 はて、何やら見覚えのあるマンションだ。

 目を細めて見てみる。


「んー……」


 暗くて見ずらいが、どうにも己の住むマンションに見える。

 知らず内に、目の前まで来ていたらしい。


 ……本当だろうか?

 先程ぶつかった電柱を確認する。ここがあのマンションなら、あれが残っているはずだ。

 前に一度ぶつかって、己の額が切れた際に付着した血痕が。


「……あ」


 あった。

 薄く赤い、汚く黒ずんだそれ。

 目線より僅かに上にそれはあった。

 鞄を道路に置き、手を額に当てる。血は出ていない。

 ということは、そういうことか。


「帰って、来たのか」


 まるで十年ぶりに戦争から帰還した兵士のような台詞。

 実際は二十時間程度なのだが。

 鞄を拾い、マンションへ足を向ける。

 己が住む部屋は三階の左から二番目に位置していた。

 階段を上り始める。

 これがかなり、きつい。


「ふぅ、ふぅ……」


 部屋に戻ったらお湯を沸かして。

 うどんをレンジで解凍して。 

 シャンプーも付け替えて。

 あとは何だろう。何かすることがあっただろうか。

 思考がおぼつかない。

 まあ、必要なら思い出すだろう。


 階段を上った。

 一階。

 二階。

 三階。

 そこから二つ目の部屋。

 扉の前に袋を置き、鍵を鞄の中から取り出す。疲れからか上手く差し込めないが、数度の試行で成功する。

 あとは回すだけ。

 しかしここで問題が発生した。


「……?」


 鍵が回らない。

 試しに逆向きに回すと、独特な音を奏でて施錠された。ドアノブを回して引いても、勿論開かない。

 これはやってしまったか。

 深い後悔と自己嫌悪が襲ってくる。

 施錠のし忘れ。

 物忘れが激しくなってきたとは思っていたが、まさかここまでとは想定していなかった。

 否、否。全ては言い訳だ。

 結局は施錠の確認を怠った、己の怠慢にこそ問題がある。

 記憶力云々ではなく、在るべき心の在り方。そこに致命的な欠陥があると悟った。

 薄暗い気持ちのまま鍵を開ける。

 今度はしっかりと、解錠の音が聞こえた。

 そのまま扉を開く。


「……っ」

 

 眩しい。

 突如として飛び込んできたのは光。夜目に慣れた今の自分には、少し辛いものがある。

 だが、目の痛みよりも辛い事実があった。


「……電気も、消し忘れていたか」


 玄関だけではない。

 此処からでも居間から漏れる光は確認出来る。

 玄関と、居間。それらの電気が一日中点けっぱなしだったという事実。

 顔を顰める。

 己の無能さに、ほとほと呆れ返った。


「は、ぁ……」


 靴を脱いで玄関を上がる。

 憂鬱な脳に思い浮かぶのは電気代やら、空巣やらのことばかり。

 とは言え、後者に関してはそこまで心配していない。

 盗まれるような物は置いていないからだ。

 ただし大切な物はある。

 それが世間一般的に高価な物でないだけで、己にとって価値のある物はある。

 もし、あれが盗られたなら。


 己は今度こそ、死をもって償わなければならない。


 覚悟を決める。

 廊下を歩き、右に曲がった。

 ここが普段過ごしている居間である。


「……ん? おお、よう帰ったの! えらく遅かったでは――」


「失礼しました」


 ばたん。

 玄関の靴を履き、扉を閉めた。

 空を見上げる。

 今日は綺麗な三日月が浮かんでいた。ぽっかりと欠けた姿に、得も言われぬ風情を感じた。

 

「……」


 何が起こった。


 どういうことだ。

 少女がいた。銀髪の、着物を羽織る愛らしい少女が。

 訳が分からない。

 しかも動物の耳と尻尾を生やしていた。いや、これは着用していたと見るべきか。ぴこぴこ、ふさふさと揺れていた。

 笑顔だった。嬉しそうに己を見ていた。

 何故だ。分からない。理解出来ない。

 すわ、また間違えたのか。そんなはずはない。鍵はこの部屋のものだった。

 であればどうして。

 扉にもたれていた背中に、ふと衝撃が走る。


 ドンドン。

 ガチャガチャ。


「おいー!? な、何故閉めるんじゃー!? おーいっ!」


 これは現実なのだろうか。

 俄かには信じ難い。夢と言われたほうがまだ納得出来る。

 夢、夢か。

 もしや自分は、道半ばで倒れて夢を見ているのではなかろうか。

 そんな気がしてきた。


「な、何がいけなかったんじゃ!? あれか、やっぱり料理とかしなきゃいけなかったんか!?」


 とすれば、己は早急に夢から覚めなければならない。道で寝るなど迷惑千万。

 幸いにも手はある。

 古来より夢から覚める方法は一つに決まっていた。

 手を頬に近づけ、思いっきり抓る。

 凄く痛かった。

 どういうことだ。


「すまーん! 儂、料理とかしたことないんじゃー! ちゃんと勉強するから、ゆ、許しとくれー!」


 背中の衝撃が強くなる。

 やはり夢ではないのか。しかし現実と受け止めるにはあまりに重すぎる。

 帰宅したら獣耳と尻尾を生やした銀髪着物少女がいたなど、誰が信じられるか。

 混乱の極致。

 脳が沸騰する。

 もういっそ、ここから飛び降りてしまおうか。

 そんな考えが過る。

 夢ならば確実に覚める方法。だが現実の場合、待つのは死のみ。

 やるか、やらぬか。

 葛藤の末、己は錆びた手すりに手を伸ばし……。


「う、うぅ……どうか、許しておくれ……ぐすん」


 涙ぐむ少女の声が聞こえた。

 あの日と同じ、寂しげな声だった。


 袖をそっと掴まれて。その目は潤んでいて。

 耐え忍ぶように、認めたくないように。

 少女は問うた。

 己は答えた。

 少女は泣いた。

 己は去った。


 人でなしとは、己のことだった。

 あのときからずっと。

 母を殺した、あのときから。

 己は罪人だった。

 

 また、誰かを悲しませるのか。

 身勝手な考えで、自分の都合だけで。

 誰かを泣かせるのか。

 お前は。


「……ふ、ぅぅ」


 息を吐く。

 心が現実に戻ってくる。

 思考は明瞭。動揺は、ない。

 扉を開く。


「ぁ……ずずっ、その、儂は……」

「……」


 少女は何かを言いたげであった。視線を彷徨わせ、口を開けたり閉じたりして、もにゅもにゅと。

 まるで親に叱られた幼子のような反応。

 それは不可思議な光景だった。

 許しを請うべきは、己の方であるというのに。

 口を開き、軽く息を吸う。

 少女は目を瞑り、言葉を待った。

 そして、言った。


「大変失礼しました。どうやら、錯乱していたようです。もう大丈夫です。申し訳ありません」

「……ふにゅ?」

「……色々と、話すべきことがあるのでしょう。それでもまずは、謝罪をしたく存じます」

「ま、待たんかっ……それなら儂だ、ってぇええ!?」


 膝を曲げ、手を付き、頭を下げる。

 果たして恒例となったこれに、価値があるなど欠片も思わぬが。

 現状、己に出来る誠意の見せ方は、これしかなかった。


「先程の無礼をお詫びします。……本当に、申し訳ありませんでした」

 

 額を地面に付け、謝罪する。

 無様極まるこの姿。

 見るに堪えないのか、何やら焦った声で少女が叫ぶ。


「な、何をしとるのじゃお前さん!? や、やめい! そんなことせんでもよい!」

「しかし」

「だーめーじゃー! 立派な男児が、地に伏して謝るなどっ、簡単にしてはならん!」

「……成程」


 一理ある。

 今でこそ土下座は挨拶のようなものだが、元々は謝罪の最上級に位置していたはずだ。

 それが何百回と繰り返す内に、どこか気軽な存在へと変わってしまった。

 謝罪とは決して気軽に行って良いものではない。

 なんと有難いことか。

 大切なことを気付かせて貰った。

 己の肩を掴み、ぐいぐい立たせようとしてくる少女に、感謝の念を抱いた。


「ありがとうございます。勉強になりました」

「ぁ、ぅ、うにゅあー! とにかくもう、いい加減立つのじゃっ。儂は気にしておらんから、ほらっ、の?」

「いえ、ですが……」


 ……いや、これ以上は寧ろ嫌味か。

 相手が気にしていないと言うのに謝り続けるのは、目的が違う。

 頭を上げ、片膝をついて立ち上がる。


「……ご厚意に、感謝を」

「う、うむ……その、儂もすまんかったの。みっともなく取り乱してしまって」

「そんな、貴女が謝ることでは……」

「いや、謝らせておくれ。お前さんと同じじゃよ。本当に、情けなく……申し訳なく思っておる」

 

 少女の顔に、憂いが帯びる。

 今度は此方が慌てる番であった。

 

「同じと言うのなら、自分も気にしていません。どうか、深刻になさらず」

「じゃが……う、うにゅ。ここで否定したら、お前さんまた謝りそうじゃな」

「はい」

「即答するでないわ、馬鹿もん。……全く、えらい人間のところに来てしまったものじゃのう」

「……」


 溜息交じりに少女は言う。

 そして己は、その単語を耳にした。

 人間。

 身なりや言葉遣いから、薄々感づいてはいたのだが。

 やはり、この少女は……。

 

「……重ねて失礼、そう言えば自己紹介がまだでした」

「にゅ? おお、そうじゃったそうじゃった! つい忘れておったわ」

「はい。自分は……」


 少し躊躇し、名を口にする。

 

「自分は、元宮孝仁たかひとと申します」

「……元宮孝仁。ほほう、中々良い名ではないか」

「ありがとうございます」

「うむ、其方が名乗ったのじゃ。ならば此方も名乗るのが道理というもの」


 ばさり。

 巫女を連想させる、美麗な着物が揺れる。

 空気が変わった。

 藍色の瞳が己を見抜く。

 どこか、楽し気な色を乗せて。

 僅かに口角が上がり。

 そして。

 

「儂は天狐てんこ。ちょっとばかし長生きな、ただの狐じゃよ」


 少女は人外を名乗った。

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