二話 私の愚かさ 貴女の笑顔


 冷蔵庫からペットボトルを取り出す。

 未開封のそのキャップを、ぱきりと外し、中身を湯呑に注いでいく。

 己が普段、愛飲している百円の緑茶。

 とても客人に勧めるものではないが、それでも無いよりはましと思って。

 器の八割ほどを満たし、ちゃぶ台の上に置く。


「すみません、こんなものしかお出しできず」

「いやいや、そんなに気を遣わずともよい。有難く頂戴するのじゃ」


 湯呑を置いた先にいるのは、少女だった。

 浮世離れした愛らしい尊顔に、月を思わせる艶やかな銀髪。宝石よりなお透き通る碧眼。

 纏う着物も、これまた見たことがないほど美しい。

 赤と白を基調として広がる絶妙な色合い、精巧な模様。まるで、この世に一つしかない芸術品を見ているかのようだった。

 そしてそれら全てを押しのけて、存在感を露にするものが、二つ。

 ぴこぴこ、ふぁさふぁさと揺れるそれは、明らかに人外を示していた。

 

「しかし、天狐様に献上するにはあまりに不相応かと」

「け、献上て、お前さんなあ。……別に儂、そこまで偉くないからの?」

「はは、御冗談を」

「いや言ってないが!?」


 てんこ、恐らくは天狐と書く。

 己が住まうこの部屋の玄関で、彼女は自らを狐と名乗った。

 普通であれば間違いなく病院を紹介される類の妄言。

 それをしなかったのは、信じるに足る理由があったからだ。

 今一度、彼女を見る。

 お茶をちびちびと飲む可憐な少女の姿に、何かが付け加えられている。

 一対の逆三角形と、筆のように細長い形をした何か。

 端的に言おう。

 少女には、狐の耳と尻尾が生えていた。


「……さて、場も和んだことですし、そろそろ」

「勝手に和ませるな馬鹿もん。……はぁ、まあそうじゃな。いつまでもこうしてはおれんか」

「はい」


 頷いて、彼女の言葉を待つ。

 ちゃぶ台の前に着座を促したのは、楽しく団欒するためではない。ただ話し合うためだ。彼女のこと、これからのことを。

 最初からそのつもりだった。

 だからこれで、いいはずなのだ。

 一瞬の沈黙。

 彼女は少し言いづらそうにして口を開いた。


「んー、あー、その、なんじゃ。まずお前さんは、天狐という存在についてどれほど知っておる?」

「……今日初めて耳にしました」

「ふむ、そうか。……え、そうなのか?」

「はい、浅学の身を恥じるばかりです」


 内心で驚き、戒める。

 天狐とは名前でなかったのか。とんだ勘違いをしてしまった。

 申し訳ない。

 情けない。

 次は間違えないようにしなければ。

 

「だ、だってお前さん、さっき儂を……」

「勝手ながら、名だと誤解しておりました。申し訳ありません」

「ぁ、ち、違うのじゃ! それは、別によくてじゃの。あの、えと」

「……何か、気に障ることが?」

「だから違うのじゃ! も、もう謝らんでよい。その、儂が聞きたいのはじゃな」

「はい」

「聞きたい、のは……んにゅう……」


 二度三度、此方をちらちらと見ては、湯呑に視線を落として。気まずげに人差し指をつんつん突き合わせる。

 いじらしい姿だった。

 魔性すらも、纏うほどに。

 やがて沈黙が破られる。


「っ、ど、どうして儂を……で……んだのじゃ?」

「……すみません、もう一度お願いできますか」

「ぅ、あ、だから」


 視線が交差する。

 吸い込まれそうな藍色の瞳が、どこか不安げに揺れていた。

 そして息を吸い込み。


「どうして、わ、儂を、様付けで呼んだのじゃ?」

「……様付け。先ほどの呼び方のことですか」

「そうじゃ。……いや、それだけではない。さっきの献上とか、その敬語とか、どうしてそのようなことをする」

「……ふむ」

「お前さんは、儂のことを知らんのじゃろう? ならば、どうして」

「どうしてと言われましても」

 

 予想外の質問に、僅かな困惑を覚える。

 どうして、どうしてか。

 聞いた内容に齟齬が無ければ、己の言葉遣いに関する疑問だと察する。

 だが分からない。

 彼女は一体、それのどこに疑問を感じているのだろう。

 戸惑いつつも返答する。

 

「この話し方は、昔からの癖のようなものです。特に意図があってしているわけではありません」

「そ、そうか……」

「はい。ですが」

「にゅ?」


 首を傾げられる。

 此方も同じ気持ちであった。


「ですがそんな習慣に関係なく、貴女様は敬うべきお方であると認識しています」

「……へ!?」


 思い出す。

 愚かにも地に伏して謝る己を、必死に起こそうとしてくれた姿を。

 自分こそ悪かったと、心底申し訳なさそうに謝る姿を。

 安物の茶を、有難そうに飲む姿を。

 

 この世のどれだけの人間にそれが出来る。

 眩しかった。綺麗だった。

 故にこそ、然るべき対応の仕方というものがある。

 己はただそれをしただけだ。

 たとえ招かざる来訪者が相手でも、それは変わらない。

 酷く当然のことだった。

 

「どうか御自覚下さい。貴女様は、極めて尊い存在であると」

「ぁ、ぇ、尊、い? 儂が?」

「はい。正直、自分には質問の意図がよく分かりません。もしや、敬語で話してはならない理由が何かあるのですか?」

「へ? い、いや別に、ないが」

「であれば普段、敬語を聞きなれていないとか」

「あー、それも、ないかのぅ」

「何故あのような質問を?」

「だって儂びっくりし……な、何となくじゃよ! 何となく!」

「……そう、なのですか」


 何となく。

 そんな雰囲気の質問ではなかった気がする。 

 また己の勘違いだろうか。


「うむ! あ、そうじゃ、お前さん天狐のこと知らんのじゃろ? しょうがない儂が説明してやろう!」

「ありがとうございます」


 強引に話を変えられる。

 これ以上は追及するな、ということらしい。

 やや釈然としないが、天狐について教授してもらえるなら願ってもない。

 素直に感謝し続きを待った。

 

「ええとな、それで天狐というのはじゃな、ええっとぉ」

「焦らずとも自分は聞きます。おや、お茶がもうありませんね。お代わりは?」

「い、頂くのじゃ」

「はい、少しお待ちを」


 とくり、とくり。

 慎重に容器を傾け、注いでいく。


「どうぞ」

「あぅ、すまんな……ずず、ふはぁ」

「……」

「んく、んく……ふぃー」

「……」


 ことり。

 彼女が湯呑を置く。古めかしいちゃぶ台が不器用に音を返した。


「……ん、よし、もう大丈夫じゃ。落ち着いた」

「左様ですか」

「すまんかったな、何度も何度も」

「いえ、謝ることでは」

「じゃあ、ありがとうじゃ。お前さんのおかげで助かった」

「……いえ」


 柔らかな笑み。羞恥が燻る。

 どうやら、己の稚拙な演技はばれていたようだ。

 大して減っていないペットボトルを見ながら、この不甲斐なさを呪った。


「はて、さて、なんじゃったかの。……ああそうじゃ、天狐についてか。もう一度聞くが、本当にお前さんは知らんのじゃな?」

「はい。察するに、狐の高位たる存在だとは分かるのですが」

「理由は?」

「普通の狐は人間に化けられません」


 そりゃそうじゃ。彼女が可笑しそうに目を細め、笑う。

 胸が軋んだ。


「だが、ちと早計じゃな。儂が人を誑かす、悪ぅい妖狐じゃったらどうする。今頃お前さんは腹の中じゃぞぅ?」

「ははは」

「やめい。その御冗談を的な空笑いやめい」

「しかし……涙ながらに扉を叩いて叫ぶお方が、まさかそんな」

「よぉし分かった! この話は一旦なしじゃ。儂、天狐、偉い。悪い妖怪、違う」

「存じ上げています」


 まあ、それは最初から心配していない。

 己のような塵屑を葬るのに、誘惑などは不要だ。出会い、その瞬間に殺し喰らえばいいだけなのだから。

 だが己はまだ生きている。

 それが何よりの証拠であった。

 尤もそうでなくても、彼女が悪たる者とは到底思えないが。


「……うぅむ、しかし説明すると言ったものの、どこから話したものかのぅ」

「どこからでも。幸い時間はあります」

「む、そうか? んー、じゃあ……んー」


 目を閉じて唸る。

 ぴこぴこ。

 彼女の人ならざる耳が揺れた。

 神妙な空気。

 やがて眼が開かれる。

 薄桃色の唇が動いた。


「……まあ、あれじゃ。長生きな狐のことじゃよ、天狐とは。うむ」

「……」

「じ、冗談じゃ冗談! だからそんな目で見るでない!」


 はて、そんな目とは何のことか。

 己はただ黙って聞いていただけである。

 全く、これっぽっちも、全然呆れてなどいない。


「うう、だって仕方ないじゃろっ。ほんとにそうなんじゃもん! 儂、長生きしとったら知らぬ間にそう呼ばれてたんじゃもん!」

「……? 知らぬ間に、ですか」

「そうじゃよ! 山に籠って、ちょこぉっと千年ばかし過ごしただけでな? 周りが勝手に天狐天狐と騒ぐんじゃ。変じゃよなあ」

「いえ、十二分に凄いと思いますが」

「ふにゅ? ……そ、そうかの? 儂、凄いかの?」

「はい、それはもう」

「……にゅふ。いやぁ、そんなぁ、ふふ。またまたぁ、にゅふふ」


 凄い何てものじゃない。

 千年以上の時を生きるなど、明らかに生命の限界を超越している。しかもなお、若々しい姿のままで。

 人間が古くから求めてやまない長寿を、彼女は容易く手に入れている。

 やはり間違いではなかった。

 彼女は文字通り、別次元の存在であった。

 だからこそ疑問が湧いてくる。

 何故だ、何故だと。

 何故、貴女様のような存在が、こんな。どうして。分からない。

 聞かねばならない。

 ぎちぎち。胸が軋む。

 しかし口から出たのは、核心を避けた稚拙な質問。


「その、周りというのは、一体?」

「えへへ……へ? あ、ああ、そうか。お前さん、いや人間は知らなくて当然じゃ。儂らは古くからずっと隠れておるからな」

「貴女様のような存在が他にいる、ということですか」

「然り。まあちゃんと分けるなら違うが、大体似たようなものじゃ。お前さんらの言う、妖怪とか神獣とかが分かりやすいかの」

「なるほど」


 つまり人間が知らぬだけで、人外たる者は他にいると。本人がいるのだ。疑う余地はない。

 それに、妖怪や神獣。

 彼女はまるで同列のように二つを語った。

 人間が勝手に名前を付けているだけで、その存在自体は左程変わらないのかもしれない。

 有害か、有益か。

 もしそれだけで判別しているのなら。

 少し、悲しいと思った。


「そして儂らが長く現代に至るまで、人目に付かず隠れている理由じゃが……」

「はい」


 何故だろうか。

 この先の展開が読める気がする。


「……正直、よく知らんのじゃ」

「そうですか」

「ちょ、ちょっとは驚かんかっ。……昔、何やら妖怪と人間が大きな戦を起こしたから、らしいのじゃがのぅ」

「それが隠れる要因となったと」

「うむ。儂はその頃山におって詳しくは知らんのじゃが、恐らく妖怪側が負けたのじゃろうなあ」

「……」


 あっけらかんと彼女は言う。

 このお方は何というか、あれだ。

 人外だとか全く関係なしに、色々と超越している。

 周りの者が持て囃すのも無理もない。

 ある種のカリスマ性と言うべきか。

 そういう魅力があった。

 胸がまた軋んだ。


「まあそんなわけで、儂含め人外組は一気に日陰者となったのよ。どうじゃ、分かったか?」

「……少し、質問が。貴女様は戦に参入していないと聞きました。であれば何故、貴女様までも」

「ん? 怖いからじゃろ、そんなもん」

「……っ」


 息が詰まる。

 何でもないように、彼女は答えた。


「儂もそうじゃ。怖いものは怖い。だから遠ざける。なーんもおかしなことではない」

「しかし、それではっ」

「いいんじゃよ。別に昔から人とは会わん。寧ろ引き籠もるいい口実じゃ」


 からからと笑う。

 その笑みを見て、己は遂に我慢出来なくなった。


「っ、ならばっ」

「……?」


 ぎちぎちと張りつめている。

 胸から絞り出すが如く。

 己は立ち上がり、汚い本心を曝け出した。


「ならば何故っ、貴女はここにいる。こんな身窄らしい部屋に、醜穢な男の前にっ、何故だ!」

「……」


 突如として叫ぶ己を、彼女はじっと見つめる。

 汚い、穢い。

 なんという愚かさ。なんという醜さ。

 ひたすらに厭わしかった。

 己の感情を吐き出すしか能のないこの口を。 

 八つ当たりしか出来ない、器の小ささを。

 ただただ嫌悪した。


「貴女は本来、ここにいるべきではない。私のような存在に、笑いかけてなどはいけない。私のような、汚らしい者に……!」

「……孝仁よ」

「っ、貴女だって、本当は分かっているはずだ。目の前の男は、自分と相対するには不相応だと。これは酷く、醜いものだと」

「孝仁。それは違うぞ」

「何が違うと? これは事実だ。貴女と私では住む世界が……っ」


 言葉は続かなかった。

 彼女の青い瞳が己を射抜いていた。

 己の全てを、見透かされている気分だった。


「一緒じゃよ」

「ぁ……い、いや、違う。そんなこと、だって貴女は」

「それは、お前さんが考えていることじゃろう? 儂の考えではない。一緒じゃよ、儂らは」

「ぅ、く……しかし、しかしっ」


 ウー、ウー。


 サイレンが鳴っている。

 道路に血が流れている。

 シャッター音が聞こえる。

 馬乗りのまま殴られる。

 彼が言った。


 この、人殺し。


「は、ぁっ、ぁあ……!」

「……すまんなあ。もっと早く、言うべきじゃったの。辛い思いをさせた。情けない限りじゃ」


 ウー、ウー。

 パシャ、パシャ。

 

 音が止まらない。

 何度も拳を振り下ろされる。

 血が流れた。

 己のものか。

 もしくは……。


「答えよう」

「はぁ、はぁ、あ、ぁっ」


 止まらない。永遠と景色が蘇る。

 あのときの景色が、ずっと。

 血、血、血。

 音、音、音。

 拳、拳、拳。


 ……誰か。


「儂がここに来た理由」


 ウー、ウー。

 パシャ、パシャ

 ごん、ごん。


 ……誰、か。


「お前さんを訪ねた理由は、たった一つ」


 死ね、死ね。

 やばいよ、事故ってる。

 ねえどっか行こ。

 すげー、めっちゃ殴ってんじゃん。

 一応撮っとこ。

 お前のせいで、お前のせいで。


 ……誰か、私を。


 両腕が動き。

 そして。



「妖狐界では今、空前の社畜ぶーむなのじゃ」



「……は?」


 は?


「じゃから、妖狐界では今、空前の社畜ぶーむが起こっとるのじゃ」

「え、いや、聞こえています。……え? その、しゃち、へ?」


 社畜、ブーム?


「うむ。それが儂の、ここに来た理由じゃ」

「……何ですか、それ」


 思わず、へたり込む。

 体から空気が抜けたように、動かない。

 ただ彼女の目を逸らせずにいる。

 彼女はそんな己を見つめ。

 ふにゃり、と笑った。


「しょうがない、儂が教えてやろう。……おや、しもうた。もう茶がなくなっておる。こりゃ困ったのう」

「……お代わり、は?」

「勿論、頂くのじゃ」


 彼女が嬉しそうに頷く。


「……はい。少し、お待ちを」


 湯呑を手に取る。

 ペットボトルを、慎重に傾けていく。


 とくり、とくり。


 気付けば音は止んでいた。

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