番外編 とある愚男と白狐の物語 その2


「ねぇタカちゃん、やっぱり物少なすぎじゃない? テレビとか置いたら?」

が欲しいのでしたら、置きます」

「いや、だからそうじゃないでしょー? もう、困った人なんだから」

「申し訳ありません」


 現在、深夜の一時。

 白狐である白愛は、あの日からずっと彼の部屋に入り浸っていた。

 やれ泊まるとこがない、やれ親と喧嘩した。いい加減な理由をつけて、彼女は今日も狭き部屋へ赴く。

 全ては彼を懲らしめるため。

 そんな言い訳を、大義名分としながら。


「……お待たせしました。調味料はご自由にお使いください」

「わぁ、ハンバーグだ……! 凄いねタカちゃん、何でも作れるじゃん」

「……それなりに、一人暮らしも長いものですから」

「そうなの?」

「はい」

「ふーん……」


 返ってくる言葉は少ない。

 彼は自分の過去を詮索されるのが苦手なようだった。壮絶、とまではいかないが、苦難の日々だったのだろう。

 思い出したくない過去があるのかもしれない。

 彼女はそこで思考を断ち切った。考えても仕方がないことは考えない性分なのだ。

 それに。


「……ん~! 美味しい! これお金取れるってっ。タカちゃんシェフにでもなったら?」

「ご冗談を。所詮は独り身男の小細工でありますれば」

「や、冗談じゃないって! んもう、どうしてそう頑固なのかなぁ」


 悪態をつくふりをして、ちらりと彼を見つめる。その表情を見つめる。

 無表情だ。でも違う。

 ほんの僅かな、見間違いかと思えるほどの一瞬。

 彼は微笑む。

 深海の底でふわりと光が微睡むような。あまりにも静かな、静謐な笑み。

 きっと意図したものではない。彼はすぐに、それを止めてしまうから。

 

 彼女はそれを見るのが結構好きだった。

 少なくとも、あんな顔を見るくらいなら、こちらの方が何万倍もよかった。だから詮索しないし、美味しいと笑うのだ。

 白愛は賢い狐である。

 彼女が皆に愛される一因は、その賢さにあった。


「……ところで。いつも思うけど、そんな量で足りるの? 正直、働けなくない?」

「いえ、まあ、そうですね。分かってはいるのですが、中々……」

「お腹に入らない感じ?」

「……」


 沈黙は肯定。

 図星になったら黙ってしまうのは、彼の癖だろう。弱みを見せない、見せるのを恐れる。理由までは分からないが、きっとそうだ。

 彼の食生活はお世辞にもよいとは言えない。

 確かに色々作るようだが、その量が圧倒的に足りていなかった。むしろ何故、今まで倒れてこなかったのか不思議である。

 なまじ栄養を考えた食事を作っていたからか。彼の体は、止まることを拒否さえしているように感じた。


 ……危険である。

 危険なので、仕方がないので。

 自分は本分であるお節介をすることにした。


「……それさぁ、たぶんだけどストレスじゃない? 一回、会社行くの休んだ方がいいよ。それで病院行くとかさぁ」

「しかし」

「しかしじゃないの。ほんと、いい加減倒れちゃうよ? 日本には有給制度があるんだから、休んじゃいなって」

「ですが……」


 駄目だこの男。社畜根性が身に染みている。

 ならば。


「じゃあ、タカちゃんが言えないなら私が言ってあげる。会社の名前教えてよ。私が直々に休みますって伝えるから」

「シロさん、それは」

「教えないなら勝手に調べて行くよ? さあ、どうするの? 会社の名前言うの、それとも休むの」

「……」


 彼は一瞬、顔を顰める。

 自分の言葉を不快に思ったわけではないのだろう。彼は他人に悪感情を向けることが苦手だ。

 恐らくは自己に向けての罪悪感。

 

 ふふふ、悩め悩め。

 どちらにせよ、君に選択肢はないのだ。君はもう、会社を休むしかないのだよ。

 いい気分だ。夏に炭酸水を飲んだような、爽やかな気持ちだ。

 さあ、さあ、どうする。 


 それから少しして、彼が口を開く。

 重苦しい、まるで罪を告白するが如き面持ちだった。


「……ます」

「ん~?」

「休み、ます……。明日一日、会社を行くのを止めます……」

「オッケー! タカちゃんったら、初めからそう言えばいいんだよ~」

「……お気遣いを賜りました。申し訳ありません」

「いいって、いいって! じゃあ明日はちゃんと休むんだよ~?」


 うきうきとした気分で、自分は座布団から立ち上がる。

 もう夜も遅く、帰る時間が迫っていた。それは彼との約束。親御さんが心配するだろうから、夜にはちゃんと帰りなさいという、無駄な善意。

 白愛の両親はとっくに死んでいる。当たり前だ、ただの狐なのだから。二匹の記憶など、とうに薄れている。

 生まれてから白愛は特別だった。

 そう、今も昔も、特別な存在なのだ。


「それじゃあね! また明日、タカちゃん!」

「……はい。また、明日」


 バタン。

 古びた扉を閉めて、階段を下りる。

 帰る先はない。いつだって、そうしてきた。

 愛らしい人間がいればお世話をして、飽きたら記憶を消してお別れをする。条約の規定により、彼女達の存在はまだ人間に知られてはいけなかった。

 今の彼だってそうだ。

 自分が飽きたら、彼の記憶を消して、きれいさっぱり……。


「……」


 彼女は思考を断ち切る。

 賢い狐は、悩むなどしないのだ。

 違うことを考えよう。できればうんと、楽しいことを。

 楽しいこと、楽しいこと。


「あ」


 そう言えば。

 さっきの会話で、ぽろりと出た事実。


「独り身、なんだっけ……」


 独り身。即ち独身。

 配偶者のいない、哀れな一般男性。

 彼が愛している異性がいないという事実。


 いや、まあ? 部屋で一人暮らしだし? そんな気はしてたけどさ?


「ふーん、へー、ほーん?」


 独身、独身かぁ。


「……えへへ」


 ああ、何でだろう。


 それは少し、楽しいな……。

 













「……」


 早朝の朝六時。

 彼女は今日の言い訳を考えていた。扉の前で、今日はどんな口実で彼の部屋へ押し掛けようかと。

 いつもと違って朝に来たら驚かせてしまうかもしれない。いやそもそも、まだ起きてはいないか。何なら起こしてやってもいい。それからはずっと一緒だ。一日中、何をしよう。

 不必要に、髪を整えた。


「……ふふ」


 彼女には安心があった。

 万事が彼女の思い通りにいくという、確信が。


 まだ、あったのだ。

 

「……?」


 鍵がかかっていた。

 少し疑問に思ったが、寝る前に戸締りをするのは特別なことじゃない。疑問は立ち消えになる。

 起きるのを待ってもいい。だが、既に彼女の気持ちは定まっていた。


 驚かしてやろう。

 朝一番、何で貴女がここに、と慌てふためく彼の姿を見てやろう。

 きっと面白い。きっとあの人は、愛い反応をしてくれる。


 だから彼女は、期待感を胸に堂々と不法侵入をした。


「――」



 そこに彼の姿はなかった。

 


「……」


 会社の鞄も、立て掛けてあるスーツもなかった。

 電気も消えていた。 

 静寂だけがそこにはあった。


「嘘、つき……」


 彼女は呟く。

 いつもの明朗活発な姿は見られず。暗い瞳に、妖しい色を混ぜながら憤る。

 何がそんなに気に入らないのか。どうしてこんなにもイライラするのか。

 彼女には分からなかった。

 だが。


「嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき……」


 狐生で初めて、騙された。

 人間に化かされた。白狐である、この自分がだ。

 どんなカラクリか知らないが、許せない。許してなるものか……!


「……たか、ひと……君」


 分からせてやる。

 

 狐の恐ろしさを見せつけてやる。


 屈服させてやる。


 二度と噓なんてつけないよう、徹底的に。


 彼を己の下に敷いて、服を裂いて、それで、それで……!


「……!」


 ぶるりと体が震える。武者震いか、それとも期待感か。

 体が妙に火照って熱い。口から出る呼気が、湯気を伴うようだ。

 

 既に術の構築は完成している。

 彼女の眼には、彼が辿った道が赤い線のように見えていた。

 だが足りない。

 術を重ね掛けする。

 透明化の術。加速の術。身体強化、五感感度上昇、空気抵抗減少……などなど。

 およそ一人の人間を追跡するのには過分な強化を重ねる。

 ぐちゃぐちゃになった心で、重ね続ける。

 

 自分の約束よりも大事な仕事があるなら。

 そんなに大切なものがあるのなら、見せてみろ。

 見せてみてよ、この馬鹿……!


 白愛は加速する。

 音を超え、天を駆けて、ただひたすらに赤き線を追う。

 景色が変わる、変わる、変わる。

 眼前の人間たちなど興味すら湧かない。

 

 孝仁、タカちゃん、孝仁君。


 私は、貴方に――













 見なければよかった。

 

 そう後悔したのは、彼女が部屋を出てから、数分後のことだった。

 

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