番外編 とある愚男と白狐の物語 その1
一目見て、可哀想な子だと思った。
生きることがどこまでも下手な、不器用な子だと。
上手く生きる方法などいくらでもあるのに。その術を知っているのに、わざと辛い道を行く。茨が体中に刺さろうとも前へ進む彼は、それはもう痛々しく映った。
だから、そう。
これは気まぐれだ。
白い狐が起こした、何てことのない気まぐれ。
人間の姿のまま静かに近づき、肩をとんとん。
生気のない目が僅かに、驚愕と困惑で見開いたのが面白かった。
そして。
「お兄さーん、今晩ちょっとお家に泊めてくれませんかー?」
「はい?」
支離滅裂な懇願。
当然たる疑問符。
これが彼との、最初の出会いだった。
さて、それで一体、どうしてこうなったものか。
白狐である白愛は、座布団で茶を啜りながら首を捻った。いまいちどうにも、この状況が理解しかねた。
自分は家に泊めてと言い、彼はそれを了承した。それはいい。いや、あまりにすんなり通ったものだから、少し戸惑ったが、まあいい。
問題は今の状況だ。
何故、自分は茶を啜りながら、うどんを待っているのだろう。
甚だ疑問である。
「もう少しお待ちを。すぐに出来上がります」
「あ、うん。ありがと~」
「いえ、お構いなく」
それだけ言って、彼は台所へ隠れてしまう。よれよれのスーツも脱がずに、勤勉なことだ。
……って違う。
いやほんと、どうしてこうなった。
自分はただ、彼が何となく可哀想で、哀れだったから声をかけたのだ。そんな哀れな彼に、ほんの一日だけでも夢を見させてやろうと。
つまりは、温情でお世話をしようとしたのだ。
それがどうだ、今のこれは。これでは立場が逆である。
「……むぅ」
……面白くない。
白愛は初めて、人間にそう感じた。
彼女にとって人間とは愛らしい存在であり、愛でるものだ。だからペースを握るのは自分でなければならないし、それが覆ることはありえない。
要するに、彼女はプライドが高かった。
彼女が人間を可愛いと褒めたり、お世話をするのは、所謂愛玩動物に向けるそれである。
誰よりも人間を愛していると見せながら、その実は異なる。
それが、白愛という妖狐の本質だった。
「お待たせしました。大変お熱くなっていますので、どうかお気をつけて」
「……わぁ、おいしそー! ありがとうねっ、えーと……」
「……孝仁。元宮孝仁と申します」
「オッケー! じゃあタカちゃんだね!」
「タカちゃん……」
やや困惑した彼の様子に、彼女は内心でほくそ笑む。
そう、これでよいのだ。なんでうどんをご馳走になっているか分からないが、これでいい。
自分は白狐で、相手はか弱い人間。
からかってよし、愛でてよしの可愛い存在なのだ。
さて、どうやって可愛がってやろうか。
うどんを啜りながら、計略に思いを馳せ……。
「あれ、おいしい」
「それはよかったです」
「……え、あ……うん! 本当においしーよこれ! どうやって作ったの?」
「どうやってとは……市販の麺を茹で、麵汁につけただけですが」
「えー、ほんとー? ちゅるちゅる……うん、おいしい! んふふ、やっぱり何か隠してないー?」
「……恐縮です」
縮こまり、何故か謝る彼の姿を見て、嘘ではないと判断した。
いやしかし、ならばこの美味しさは何なのか。不思議で仕方がない。
……ま、いいか。別に悪いことでもなし。それにお揚げさんもあるし、今回は大目に見てあげよう。
謎の許しを告げて、白愛はうどんを食べ続ける。
それから少し経った頃だろうか。食事に夢中になりすぎたと、今更ながらに視線を彼に向けて。
「……あれ? 君の分は?」
「ああ、はい。私はすでに外食で済ませましたので、お構いなく」
「……ふーん」
嘘だ。
瞬きが二回、視線の移動。回答のぎこちなさ。買い物袋の存在。
この男、致命的に嘘をつくことに慣れていない。最近の子供の方が、よっぽど上手く嘘をつく。
そんな嘘で、誰が騙されるというのか。
ああ、面白くない。
全くもって、面白くない。
「じゃあ、遠慮なくいただくよ?」
「ええ、どうぞ。そのためにお作りしました」
「……ちゅるちゅる」
うどんが美味しいのが面白くない。
何も聞いてこないのが面白くない。
優しく、ひっそりと微笑まれるのが面白くない……!
「……ご馳走様。ありがと、美味しかったよ」
「お粗末様です。今、食器を洗いますから、暫くお待ちを」
「あのさ」
「はい?」
だから、剝いでやる。
その厚い顔の皮を剥いでやる。どうせ、お前も変わらないだろう。
自分が救われることばかり考えている、哀れで愚かしい人間たちと。我欲だけが生きがいの、矮小で情けない人間たちと。
ああ、だが、愛おしい。
この愚かさは何と愛おしいことか。
お前もそうだろう。
お前だって、愛おしい存在だろう。
そうであれよ。人間なぞ、どうせその程度の……!
「いやね? どうして、何も聞かないのかなぁって」
「……」
「あはっ、もしかして、何か勘違いしてる? 私が親に暴力を~、とか。どこにも居場所がない~、とか。ふふ、それで勝手に憐れんでるの?」
「……」
「ふふ、あははっ。……それともぉ」
さあ、見せてみろ。
「何か、期待してる?」
「……!」
ちらり、と服を捲って見せる。
今時のファッションは防御力に乏しいものばかりだ。所謂、ギャルと呼ばれる服装。
スカートを摘み、胸元を緩める。
そして駄目押しとばかりに、両足を妖艶に崩し、流し目のまま彼を見つめる。
自身の美しさを理解しての行動。
さあ、さあ。
どうだ。
これで、お前も……。
「やめろ」
「……へ?」
固まる。
耳から入った情報の、その信じ難さに停止する。
今、何と言った?
やめ、ろ……?
やめろと、言ったのか。
何、故……?
「私はそのようなことを求めて貴女を迎え入れたわけではない。元気になったのなら、もう帰りなさい」
「え、いや、ちょっと待ってよ」
「いいえ、待ちません」
「あ、ちょ、ちょっと!」
彼に腕を掴まれ、玄関に連れてゆかれる。
強い力だ。大人の男性の、強い力だ。
勿論、自分とは比べようもなく、弱い。しかしどうしてか、白愛は振りほどけなかった。
初めてだったのだ。
人間から、怒りという感情を受けたのは。
彼女は急速に焦りだす。よく分からないが、このまま追い出されるのは嫌だ。その一心で説得をする。
終いには、涙目になって懇願していた。
「じょ、冗談、冗談だってぇ。わ、私が悪かったからぁ、追い出さないでよぉ」
「……」
「お、お願い。お願いだからぁ」
「……はぁ」
ため息を吐かれる。
これもまた、初めての反応だ。自分の美しさに嘆息するわけでもなく、ただ呆れて。
そんなため息を、自分は吐かれたことがなかった。
失礼だ、不敬だ。
どれだけそう思っても、心に飛来する安堵は拭えなかった。
「……複雑怪奇な、何かしらの事情があるとは察しています。ですが、だからと言って、自分の身を安売りしてよい道理はありません。これは、分かりますね?」
「うん……うん……」
「今まで貴女がどのように生きてきたかは存じ上げません。しかしどうか、これだけは言わせてください」
「……!」
きゅっ、と目を瞑る。
五百年も生きた自分が、こんな若造に怯えている。子供のように、宥められている。その事実の、何と耐えがたきことか……!
今からでも怒鳴り返すべきだ。白狐としての威厳を取り戻さねばならない。
だのに、体が。
どうしても体が動かない。口が動いてくれない。
一体、どうして……。
簡単に言えば。
白狐である彼女は、美しすぎたのだ。
狐の形でも、人の形でも彼女は皆に愛された。人間も、妖怪も、天すらも彼女に無条件の好意を向けた。それが当然のことであるかのように。
故に彼女は知らない。
好意以外の感情を向けられることを。優しさだけではない、愛の存在を。
だから怯える。
だから竦む。
自分が愛されないという恐怖。
その恐怖が次第に高まり、どこまでも暗く寒いところへ彼女は――
「もっと自分を、大切にしなさい」
「……へ?」
手を握られる。
先程のように連れていく力ではなく、包み込むような。ずっとここにいていいと、そう優しく囁かれるような、そんな握り方。
寒さが無くなる。暗さが消える。
あるのは空白と、僅かに浮かんだ疑問。
彼は一体、何を言っているのだろう。
「その体は、貴女のご両親に貰った大切な宝物です。たとえご両親が何と言おうとも、その事実は変わりません」
「……宝、物?」
「はい。貴女だけの、貴女のための宝物です。大事に守り、慈しむ必要のある、大切な大切な存在です」
「……私、だけの……」
やっぱり、よく分からない。
だってそんなの当たり前だ。言われるまでもなく、自分は自分の価値に気付いている。
自分は美しく、可愛らしく、愛される存在だ。
そう、自分の価値は高いのだ。高くなければ、こんな風になってはいないのだ。
自分は愛されている。皆に愛されている。
それは、価値があるという証明だ。
だから、だから……。
……あれ?
じゃあ私、愛されなかったら価値がないの?
誰にも愛されない私がいたら、その私は生きちゃ駄目なの?
そんなの、そんな……。
「貴女はそれを、このような穢れた男に差し出そうとした。とても正気とは思えません」
「あ、ちがっ……あ、あれは冗談で……」
「冗談だとしても、です。再三言いますが、もっとご自愛をなさってください。悩み事があるなら相談にも乗ります。ですから、どうか、どうか……」
「これ以上、貴女自身を傷付けないでください……」
反論をしようとした。
傷付けるなど、何を世迷言を吐くかと。ご自愛なさってと、どの口が言うかと。
相談に乗るなど、誰に向かって優しくしているのかと。
言いたかった。
だけど、言えなかった。
頭を下げて、自分に懇願する彼の姿を見て。その、あまりにも悲痛な顔を見てしまって。
胸の奥が、ずきりと傷んで。
そんなの見たらもう、何も言えなかった。
だから結局、口から出たのは、こんな言葉。
「……うん、分かった……もう、しない……」
「……ありがとうございます」
可愛げのない、自分らしくないぶっきらぼうな言葉。だのに妙にしっくりくる。不思議だ。
心がどこかすっきりとしている。
今までずっと考えていて、黒く積もったものが軽くなっていることが分かった。
どうしてだろう。
自分がしたのは、ただの同意。言葉に言葉を返しただけだ。
それなのにどうして、こんなにも心が救われる。
どうして何万人の愛してるよりも、嬉しくなっているのだろう。
分からない。分からない。
彼女が再び、思考の渦に嵌まり込もうとし。
「さて、それはそれとして」
「……?」
ガバッ。
彼の手が一気に剥がれ、地に落ちる。
一瞬だけ名残惜しいと思ったのはきっと勘違いである。
そして瞬く間に膝を付き、頭を地面に……。
え?
「大変申し訳ありませんでした」
「え、ちょ、ええぇ!? ど、土下座!? 何で!?」
パニックになる。
本気で訳が分からなかった。直近までの状況と今の状況の隔離に着いて行けなかった。
さっきまで何かいい雰囲気だったはずだ。それが何故、土下座に繋がる。
本当にこれ、本人だろうか。実は一瞬で中身が入れ替わったりしていないか。
それぐらい脈絡のない土下座だった。
「罪状は明白です。自身を大切にしろと上から物を言い……あまつさえ、手を無許可に握ってしまった。その前にも無理やり部屋から追い出そうとしました。弁明の余地もありません」
「い、いやいや、あれは私も悪かったし」
「気遣いは無用です。私は、貴女に性暴力紛いの恐怖体験をさせてしまった。今から自首してきます。どうかお待ちを」
「じ、自首!? ちょっと待って……待ってってばー!」
立ち上がって警察に直行しようとする彼を必死に止める。
何ていうかこう、覚悟が決まりすぎていた。自分が死ねといえばそのまま死にそうである。怖い。
というか、さっきから自分のキャラが崩壊している気がする。
本来ならもっと……お姉さんというか、先輩というか。そういうキャラだったはずだ。
いや、原因は分かっている。この人間だ。
元宮孝仁。こいつに自分は狂わされている。
何という屈辱か。さらっと恐怖体験とか言われたし。何だそれ、まるで自分が怖がっていたみたいではないか。
許すまじ。
絶対にこの借りは返してやる。
返してやるから……ええい、いい加減諦めろ。誰が警察などに渡してやるか。お前は自分が懲らしめるのだ。
はぁ、全く、変な人間である。
「はぁ、はぁ、ちょ、ほんとに駄目だってば……!」
「いけません。私は罪を償わなくては。そうでなければ、貴女に申し開きが……」
「あーもう、だーかーらー! 私は別に……!」
……ああ、本当に。
変な、人だなぁ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます