十六話 己は 私は 俺は


 背にかかる温もり。


 柔らかな唇の感触。


 絡みつく、彼女の肢体。


「……正直な?」


 耳元で声がする。

 先ほどよりも、少し落ち着いた。

 されど底知れぬ深さを秘めた声音。

 或いは、隠そうとして漏れ出た、深淵。


「遅かれ早かれ、こうしようとは思っていたのじゃ」


 彼女が何かを言っている。

 いつもの調子で、朗らかに。

 しっとりとした吐息が背筋を擽る。

 内容は理解できなかった。


 したく、なかった。

 

「とは言え、本来ならばもう少し時間をかけて、じぃっくりお前さんを愛でたかったのじゃが……」


 くるり。

 首を回した状態のまま、器用に彼女は体を反転させ。


 にこり。


「あのようなことを、されてはのぅ……?」


 あの日と同じ。美しい花が咲いていた。

 目を細め、どこか蠱惑的な魅力を感じさせる、深い笑みで。

 僅かに紅潮した頬。

 珠の如く滑らかな肌。

 藍色の瞳が覗いている。どろどろと、奥底で何かが渦巻いている。

 ただ一人、己を見つめて……。


「……っ」


 歯を食いしばる。


 己は、何を、他人事のように。

 逃げるな。

 全てお前のせいだ。彼女がこうなったのは、お前が狼藉を働いたからだ。悪を行ったからだ。

 卑怯者め。

 責任から逃げるな。思考を放棄するな。安寧を許すな。

 考えろ。

 彼女を正気に戻す方法を。今、すぐに。


「申し、訳、ありません。自分は一体……貴女に、何を」


「……ふにゅ?」


 固まっていた体が、漸く意思を取り戻す。

 そのままに口を開いた。

 我ながら情けない、酷い声だった。


「……一体、どんな不敬を、致してしまったのでしょうか……」


「……」


 目標は説得。

 彼女の目的が殺害ならば特に問題はなかった。いや、勿論己なんぞを殺し、その御手を汚すことを推奨するわけではないが。

 己が彼女の機嫌を損ね、今の状況になったのであれば、話は単純だった。

 しかし現状として、己はまだ生きている。

 それが分からない。


 何をしたいのか。

 己が何をしてしまったのか。

 聞かねばならない。聞いて、謝罪しなければならない。

 説得をするのは、それからだ。


「お聞かせください。貴女はどうして、このような――」



「くふっ」



 瞬間、溢れる。


 はち切れた風船のように。

 水素と酸素が化学反応を起こしたように。

 熱された金属が水に触れたように。

 

 笑う。


「くふ、くふふふっ。くはははっ。あはははぁ……!」

 

「天音……さん?」


 笑う。笑う。笑う。

 

 彼女が笑う。顔は笑っている。

 ただ、その碧眼だけが笑っていない。笑わずに、己を見つめている。

 瞳の中に蠢く何か。

 己にはその色が分からない。

 怒りでもなく、楽しさでもない。愉悦でもなく、憎しみでもない。

 侮蔑、優越、失望、無関心、嫌悪、好奇。


 知らない。

 それ以外の色を、受けたことがない。

 己は底辺だった。

 誰もが見下した。嘲った。嫌った。


「くくくく。まさか、この期に及んでそんな質問が来るとはのぅ……流石というか、らしいというか」


 だから、分からないのだ。

 彼女が今向けるこの感情を。その名前を。


「……どうして、と問うたな? にゅふふ、答えなど決まっておるわ」


 何なんだ。

 どうして貴女は、そのような目で己を見つめる。

 これでは、まるで。

 貴女が。


「儂が」


 ぴとり。


 優し気に、柔らかく。

 両の手が己の頬を包み込む。


 目が合った。

 彼女は、ふわりと微笑んで。



「孝仁を愛しておるからじゃ」



「……は?」


 あい、して?


 なん、いや、そんな、うそだ。


 嘘だ。嘘だ。

 彼女が、己なんぞを。

 愛すなどと。


 世迷言だ。勘違いだ。ありえるはずがない。

 あってはならない。

 だって、貴女は。


「好きじゃよ、孝仁」


「ぅ、ぁ……っ」


 違う。


 違う違う違う。


 違う!


「それ、は、間違いだ。勘違いだ! 貴女が私を、好くなど……!」


「……くふふ。間違い、か」


 かつての邂逅。己の前に、四つの人影が現れたあの夜。

 己は彼女が向ける、特別な感情を理解した。

 彼女が抱く、好意を自覚した。


 だがそれは、決して愛ではない。


 所謂、優しい人間が虫の亡骸に向ける、僅かな同情。

 体を無残に食い破られる死骸を見て、憐れみを抱くように。

 刹那の思い遣りを向ける。

 とどのつまり、彼女の執着とは。感情とは。

 そういった、一瞬の気紛れでしかないはずなのだ。


「……っ、そうです。どうか目をお覚まし下さい。貴女という御方が、こんな男に騙されてはいけない」


「……ふむ」


 好意はあるのだろう。

 本当に、彼女は、どこまでも優しい方だから。こんな男にも、最低限の友好を認めてくれた。

 相応しくないと感じた。

 己では、彼女の友人にはなれぬと確信した。

 

 道に吐き捨てられ、踏み躙られたガムを、友達と思う者はいない。

 これはそういうことだ。

 だから別れるべきだった。

 これ以上、貴女の清らかさを汚さないために。

 必要な離別であった。


 まだ間に合う。

 今からでもいい。彼女を己から引き離さねば。

 妖狐の皆様とも約束したのだ。

 口を動かせ。

 彼女を説得しろ。それがお前に与えられた、最後の仕事だ。


「……目の前にいる人間は、ただの卑怯者です。憐れみを誘うように滑稽を晒す、一匹の害悪です」


 目は合わせられず。

 俯きながら、ぼそぼそと口を開く。


 全て本音だった。

 すらすらと言葉が吐かれる。胸の内が零れていく。

 いっそ、不自然なほどに。


「貴方が今抱いている感情は、愛などではない。決して、ない」


 失敬を通り越した、最低。

 しかし止まらない。止まることが許されない。

 堰を切ったように溢れ出す。


 己の、想いが。


「勘違いをしているのです。きっと、大きな勘違いを」


「違う。させてしまった。自分が汚い手を使って、歪めてしまった」


「だから、こんな私を好きだと宣うのです。欠片ほどの価値もない私を、愛していると」


「ありえない」


「だって、そうでしょう。私が何をした。貴女に一体、何をしてあげれた」


「あの日貴女と出会ってから、何を」



 唇を噛む。

 噛んで、噛み締める。鈍い痛みと、鉄の味。

 全てが醜かった。

 汚かった。



「……何も、ない」


「……ふ、はは。そうだ、俺は何もやってない。貰うばかりで、返すことすらできない愚か者だ」


「あまつさえ、約束を忘れ、厚顔無恥に暮らしていた」


「許されるものか」


「否、許してなるものか」


「だから、だから……っ」



 一際、強く唇を噛み。

 顔を顰め。

 ぶちりと肉が裂ける音を聞きながら、絞り出した。

 


「俺という存在を、どうか、愛さないでください……」

 


 罪人の告白。


 笑える話だ。散々、彼女の想いを否定しておきながら。

 結局は自分のことばかりで。

 どうしようもない。

 本当に、どうしようも……。

 

「それは、何故じゃ?」


「……な、ぜ?」


 聞こえた内容の不明さに、思わず顔を上げる。

 彼女は変わらず、微笑みのままで、己を見ていた。

 反対、己は混乱して。


「だ、から、それは。俺が、罪人で」

「罪人とは何じゃ。……孝仁のことか? ならば一体」


 聖母のような笑みのまま。

 ずいっと、顔を寄せ。視界に藍が広がり。


「お前さんは、何をしたんじゃ?」


「ぁ」


 ピキリ。


 覗き込まれる。

 胸にある、根幹を。引きずり出される。

 飲み込まれる。

 貪られる。

 

「教えてみよ、この儂に」


 景色が崩れる。

 電柱は壊れ、家は融解する。

 空が堕ち、地面が沈んだ。


「お前さんの口から聞きたいのじゃ。見るのはもう、十分じゃからな」


「ぁ、ああ……!」


 手を伸ばす。

 届かぬと知ってなお、求めるものがあった。


 回帰する。星が瞬く。

 流転する。花が綻ぶ。


 伸ばした手が縮んでいく。


「さぁ、孝仁」


「――」

 


 ……俺、は。








 二十四のとき自殺を図った。

 涙が出るほど美しい川に、重りを背負って入水した。水の匂いと、重い冷たさ。


 二十二のとき母を殺した。

 綺麗な桜が咲いている、暖かい春の日のことだった。倒れた体と、流れる血。


 十八歳のとき一人暮らしを始めた。 

 元宮夫妻に、これ以上迷惑をかけたくなかった。未熟だった。愚かだった。

 

 十二才のとき母にすてられた。

 しまる扉。とてもしずかな夜。


 九さいのとき父と母がりこんした。

 どうして二人は、あんなに怒っているのだろう。


 ……。



 ……。









 俺は、望まれぬ子だった。

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