十七話 回帰


 罵声と怒号。

 大きな破壊音と、小さな泣き声。

 俯いて震える母の背を見ながら、父には頬をぶたれた。

 傾く視界。頬から広がる灼熱。

 窓の外にいる鴉が、のんびりカァと鳴いていた。


 怒られ、叱られ、叩かれ、慰め、泣かれる。

 それが俺の人生だった。 

 本当に、それだけだった。


 特段、不幸だとは思わない。

 自分の親が世間一般的に見て、称賛されぬ存在だと理解していたが。俺はその生活に、不満などは一切抱かなかった。

 ただ、可哀想だと。

 顔を赤くして怒る父も、泣いて必死に謝る母も。

 辛そうで、可哀想だな、と思った。


 父はいつも外出をして。

 母はいつも忙しそうに、何やら難しいことをして。

 俺は一人だったから、学校の教科書などを読んで暇を潰していた。

 服が汚いという理由で友達はいなかった。

 空いた時間、出来れば母の手伝いをしたかったが、六歳の俺ではやれることが余りに少なかった。

 料理を手伝ったのはいいものの。

 味加減を間違って、父に夜遅くまで叱られてしまった。

 隣では母も叱られて。

 とても、申し訳なかった。


 父はしきりに、何でこんなことに、と言う。

 お酒を飲んだ日は大体そうだ。

 頭を掻き毟って、苛立ちを隠さぬまま吐き捨てる。

 そうして、邪魔そうに俺を見るのだ。何でお前が、お前がいなければ、と。

 そのとき母は居心地悪そうに俯いて。

 悲しそうにして。


 俺は七歳になり、ようやく自分が、生まれてはならぬ存在だったと気付いた。

 両親の不仲は俺のせいであり。

 父が怒るのも、母が泣くのも、俺が原因だと理解した。


 ……生まれなければよかったのかな。

 両頬に広がる熱と床の冷たさを感じながら、初めて死を願った。

 遠くにいる梟が、ホゥと鳴いていた。

  


 そんな生活が一変したのは、ある夜のこと。



 理由はよく覚えていない。

 父が賭博に嵌って、大量の借金を作ったとか。

 浮気をして、相手の下着が残っていたからとか。

 切っ掛けは何でもよかったのだろう。衝撃が加わった零度の水が、一瞬にして凍り付くように。

 両親は離婚した。

 

 傍から見れば、当然の結末だったのかもしれない。

 二人の関係性を考えれば、当たり前の離別だったのかもしれない。

 それでも、俺は。

 あんなに騒がしかった父が何も言わずにアパートから出て行って。

 静かな夜を過ごすことが。

 無性に悲しかった。


 だが本当に辛いのは、俺じゃなくて母だ。

 普段は声を荒げない母が、涙声で叫んでいた。

 すすり泣くわけでもなく、俯くわけでもなく。あの夜、母は何かを訴えていた。

 その願いが何だったのかは分からない。

 けれど、父がいなくなった部屋の真ん中で。

 母はへたり込んで泣いていた。


 俺は廊下の扉から出て、母の背中を撫でた。

 いきなり触れてきた俺を敵だと思ったのか。

 腕を振り払われ、勢いのまま地面に倒れこんだ。額が床と擦れて痛かった。

 もう一度立ち上がり、母の背を撫でる。

 母は何も言わず泣いていたが。

 今度は振り払うことなく、受け入れてくれた。

 

 九歳になった、夏の夜の出来事だった。

 


 それから、俺と母は二人家族となり。

 母のパートと政府からの援助を受け、細々と暮らした。

 その頃になると俺も出来ることが増えて。母の仕事を手伝いながら、将来のために勉強を続けた。

 

 お金がないことに不満はない。

 だが、母との今度を思えば必要である。

 母はまだ若いが、いずれ老いていくのは必然。そうなったら、介護するのは自分だ。

 養っていくだけの財力がいる。 

 勉強をするのは、そのためだった。


 幸いにも、俺は勉強が苦じゃなかった。

 それしかやることがなかったとも言えるが、何にせよ僥倖である。

 家に帰れば母の内職を手伝い、空いた時間で勉強と家事を行う。


 充実していた。

 決して、前の生活がしていなかったわけじゃない。

 しかし何もできず、見上げるだけだった自分が、こうして微量なりとも母の力になれている。

 それが無性に嬉しかった。


 価値を与えらえたような気がして。

 こんな俺でも、誰かの役に立てるのだと夢想して。

 期待感で胸を膨らませたまま。

 母が作った、野菜が多めの味噌汁を飲んで。

 その日は眠りについた。


 明日は卒業式だ。

 遅刻しないよう、早く寝なければ。

 おやすみなさい。

 


 ……。


 

 今思えば、あんなに早く寝る必要はなかった。

 おかげで眠りは浅く、ちょっとした物音で目が覚めてしまって。


 かり、かり。

 

 寝ぼけ眼で明かりを見つめる。

 母は何かを書いていた。机に向かって、小さな電灯を点けながら。

 表情は見えなかった。

 長い髪が下に落ちて、隠していた。


 ごそごそと、何かをしている。

 ちらちらと、此方を気にしている。

 時折、鼻をすする音がする。もしかして、泣いているのだろうか。


 背を撫でてあげたいな。

 

 心ではそう思っているのに。

 体は抑えつけられたように動かなくて。

 嫌な汗が止まらなくて。

 結局俺は、布団から出ることができなかった。

 代わりに見ていた。

 

 母が何かを書き終えて、扉へ向かう姿を。

 鞄を持って、靴を履く姿を。

 扉を開けて、振り返る姿を。

 暗闇の中で見つめていた。


 母は此方を向いて、口を開き。



「ごめんなさい……孝仁」



「……ぁ」


 バタン。


 扉が閉まった。


 気付かぬうちに伸ばしていた手の行先がなくなった俺は。

 その手を握りしめ。

 爪が掌に食い込むほどに握り締め。

 冷たくなった布団へ、哀願した。



「ぁ……っ、……!」



 どうか、この声が母に聞こえませんように。


 優しいあの人に、これ以上。


 俺という不幸が関わりませんように。


 どうか。


 どうか。



「……ぃ、かっ……、ぁ、ぃで……!」



 さようなら。

 お元気で。

 母さん。














 起きたのは十時頃。

 いつ寝たのかも、どうやって寝たのかも覚えていない。

 取り敢えず、今日の卒業式に遅刻したということだけが分かった。


「……」


 目を開けても起きる気にはなれず。

 見慣れた天井を見つめながら、耳を澄ましていた。

 何も口に入れず、ぼーっと。

 死んだように起きていた。


 プルルル、プルルル。


 そうやって、二時間が経っただろうか。時間の感覚が曖昧だ。

 備え付けの電話が鳴る。 

 きっと学校からだ。皆勤賞を最後の最後で、逃してしまった。

 まだ間に合うかもしれないが。

 やはり起きる気にはなれず。音が止んで、止んだ後も、何もしなかった。


 静寂の世界。

 思い出すのは過去の記憶。

 走馬灯を見るが如く、回帰していた。


 

 孝仁という名前の意味を、学校の宿題で聞いたことがある。

 父は知らないと言い、母は優しい子になってほしいからと言った。

 伊藤孝仁。

 それを知ってから、この文字を見るのが嬉しくなった。

 母の思い遣りが温かかった。

 俺も、そういう人間になりたいと思った。

 皆を笑顔にさせる、優しい人間に。


 母が作る味噌汁が好きだった。

 野菜が沢山入っていて、合わせ味噌の柔らかさが美味しかった。

 何より、美味しいと言った俺の言葉に。

 にっこりと笑って、よかったと答える母の笑顔が好きだった。


 父はよく俺を叱った。

 外出した帰りや、お酒を飲んでいるときが多かった。

 へらへらするな。

 目障りだ。

 もたつくな。

 何で生まれてきた。

 ふざけんな。

 色々な言葉で、俺は叱られた。頬を叩かれ、足で蹴られたこともある。

 別に辛くはなかった。

 父の期待に沿えない自分が、ただ情けなかった。

  

 友人がいた記憶はない。

 誰かと遊んだ記憶も、笑った記憶も。

 会話があったとすれば、掃除当番を代わりにやってほしいと頼まれたときくらいだ。

 彼らの話す話題はよく分からなかったし。口が上手かったわけでもない。

 そんな俺が一人になるのは、ごく自然なことだった。

 

 ……けれど、もし叶うのなら。

 友人と他愛ない話をして。家に招いたり、訪れたり。

 普通の子供みたいに遊んで、笑ってみたかった。

 そうだ。

 今日の卒業式。 

 今更だけど、話しかけてみようと思ったんだ。

 話したこともない同級生に。中学校では、仲良くしたくて。

 だから俺は、何故だか緊張してしまって。

 あんな早くに寝たのだったな。


 笑える結末である。

 生まれてはいけなかった存在が、幸福を求めるからだ。

 全く、滑稽な話だった。


 身の程を知れと。

 神様に言われた気分だった。



「……ぁ、ぁ」


 気付けば空はぐるぐる回って。

 乾いた喉と、痛むお腹が体調の警告を知らせた。

 今は何時だろうか。

 今日は何日だろうか。

 体に力が入らない。立ち上がることが、できない。


「あ、ぁ」


 言語は意味をなくし。

 膨大な時間は思考を削いだ。

 過去を振り返る中で俺が理解したことは。

 

 伊藤孝仁という人間は、世界に必要ないということだ。


 体の力が抜けていく。 

 理性が本能を調伏し、抵抗を殺していく。

 殺し、殺して。

 最後の本能が耳元で嘯いた。


 本当に、思い残すことはないか。

 

「ぁ」


 少し、目を見開く。


 思い残すこと。そんなの、あっただろうか。

 あった気もする。何だったか。


 ……あ。


「か、み」


 あの夜、母は何を書いていたのか。 

 そういえば俺は知らなかった。

 見ようともしなかった。身を巣食う、怠惰に任せて。


 見なければいけない。

 だってあれは、母が残した最後の想いだから。

 伝えようとしてくれた、文字だから。


「ぅ、く……っ」


 尽きかけた体を、必死に起こす。歯を食いしばって、全身に力を込めながら。

 文字通り、命を燃やして動かす。

 やがて体はのろのろと起き上がり。

 跪いて、両手両足で這いずるように。

 じり、じりと机へ向かった。


「はぁ、はぁ、は、ぁ」


 無限とも思える長い距離を渡り。 

 一本。

 腕を伸ばした。

 これが最期。その一心で、紙を掴んだ。


 引き摺り下ろす。

 くしゃくしゃになって、申し訳なかった。

 霞む目で文字を見つめる。


「はぁ……はぁ……」


 正直、書いてある文字の大部分は理解できなかった。

 所々に、ごめんなさい、ゆるして、これで食べて、この番号を、という言葉があったが。 

 その前後関係を解する力を、俺はもう持っていなかった。

 

 紙に貼られた、長方形の紙幣。

 その顔は見覚えがある。確か、これは高いやつである。

 どうして、こんな大切なものを貼ったのだろう。

 分からない。

 酷く、眠たい。

 

「は、ぁ……ぁ……ぁ……」



 ねむたい。



「ぁ……ぁ……」



 瞼が重力に逆らう意思をなくして。

 入る光を永遠に拒もうとした、そのとき。



 ピーンポーン。


 

「……?」


 インターホンが鳴った。

 暫く聞いていない、懐かしい音である。

 失いつつあった灯に、僅かな力が籠って。


 目を、扉の方に向ける。


 一体誰が訪ねていたのだろう。

 もしかしたら。


 仄暗い想いを載せて、待ち続けた。


 そして。



 ガチャ、ガチャ。



 ……。



 ガシャァアアン!!



 扉が蹴飛ばされる。

 二転、三転して、扉がばたりと倒れた。

 入口から聞こえる声は。


「うおおおおおおおおおお! 生きてるかぁあああ!? 孝仁君んんんん!!」

「近所迷惑でしょ! やめなさいっ、アナタ! 恥ずかしいっ」

「すまん! ……で、孝仁君はどこだああああ!」

「だからちょっと落ち着いてっ。まだ朝早いし、きっと寝てるんじゃ……」



「……?」


 ぱちり。


 女の人と目が合った。

 一瞬、静かな時間が流れて。


「レスキュウウウウウウウウ!!」

「任された! うおおおおおおおおおおおおお!!」


「……!?!?」


 タンクトップを着た、筋骨隆々な男が駆けてくる。

 対して女性の方は忙しそうに携帯電話を鳴らし。

 俺は俺で、このカオスな状況に困惑していた。


「確保おおおおお! もう大丈夫だぞおおおお! 孝仁君んんんんん!!」


「あーもー、早く出なさいよっ。日本の救急車はどうなってるの! 二秒で来なさいよ!」


 けたたましい声と、暑苦しい抱擁。

 静寂からの脱却。

 正体不明の温かさ。


 これが、元宮夫妻との出会いだった。

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