十五話 異変
ピピピ、ピピピ。
緩慢に目を開ける。
見慣れた天井が、ぼやけて揺れる。
布団から腕を伸ばし、手探りで携帯を探した。上へ、下へ、不器用に。
やがて、硬い感触が指先に届く。
ピピピ、ピ。
「……ふ、ぅ……っ、はぁ」
重い息を吐きつつ、二度三度、目を瞬き。
霞む像が鮮明になった頃、漸く体を起こした。
拍子に布団が捲れる。
人影は、ない。
「……」
無言で立ち上がり、寝具を丁寧に畳む。
それが終えたら、今度は洗面台へ。
足取りは存外に軽い。何の障害もなく、数秒で目的地に着く。
実にスムーズだ。
いつもなら、もう少し。
騒がしい。
ジャー。
パシャ、パシャ。
ゴシ、ゴシ。
キュッ。
「……ふぅ、ぅ」
顔の洗浄も完了した。
濡れたタオルを洗濯籠に入れ、息をつく。
さて、次にやるべきことは何だったか。
確か。
確か。
起きない彼女を再三呼ぶ、必要はなくなり。
彼女の乱れた髪を整える、こともなく。
愛らしく強請られ、着替えを手伝うことも……。
「……ああ」
着替え。
そういえば、まだ己は寝間着のままであったか。
いかん。早く着替えねば。しっかりせねば。
このままでは、彼女に。
「は」
自嘲するように、息を吐く。
いつまで寝惚けているのだ、お前は。
休む暇はない。
準備をしろ。時間は有限である。限られた命の使いどころを考えろ。
お前は生きているだけで害悪なのだから。
これ以上、誰かの迷惑をかける前に、消えなければならない。
終わる準備を。
人生で初めて為す、正義の準備を。
早く。
「……っ」
服を脱ぎ、籠に入れる。
質の良い布を傷めぬよう、優しく。されど急ぎ着替える。
不相応な姿から一転、見慣れた姿へ。
一瞬にして草臥れたサラリーマンとなった己は、急ぎ足のまま居間へ戻った。
まずは朝食を。
卵やパンの買い置きがあったはずだ。今日は適当にそれらを焼いて頂こう。
もはや料理とも言えぬこの杜撰。
己の不足に恥じ入りつつ、冷蔵庫を開け。
驚愕する。
「これ、は……」
中には、ラップをかけられた器があった。
一つではなく、二つ、三つと。大小様々な器が並べられていた。
それは伝統的な朝食。
焼き鮭に味噌汁。沢庵に白米。
多過ぎず、少な過ぎず。健康に気を遣った、彼女らしい。
優しい朝食。
知らず、腕が伸びる。
僅かに震えた指先が、器に触れたとき。
「なっ」
まるで魔法が解けたかのように包みが消え、茶碗から湯気が溢れた。
目を疑う光景。
しかし幻覚ではない。
指に伝わる確かな温かさが、現実を証明していた。
硬直は数瞬。
慌てて器をちゃぶ台に持っていく。
冷ましてはいけない。その一心だけで足を動かした。
やがて全ての器を移し終え。
食欲を刺激する香りを立たせながら、朝食は並んだ。
変わらぬ朝の風景。
そこに一つ、不自然な空きがあったが。
努めて気にせず、両手を合わせた。
「いただきます」
感謝をする。
姿なき親切に、心から。温もりの残滓に有難みを覚える。
ありがとうございます。申し訳ありません。
さながら、蜘蛛の糸に縋る罪人の如く。
命を頬張った。
「……美味しい」
誰に伝えるでもなく、口から言葉が漏れた。
習慣がそうさせたのかもしれない。
もう、聞く相手もいないというのに。
「……」
そうして、黙々と食事を続け。
食べ終えたのは、それなりに時間が経った後であった。
少しゆっくりし過ぎたか。駅に間に合えばいいのだが。
仕事用の鞄を確認し、必要な書類が揃っていることを確認する。食器を洗うのは帰ってからにしよう。
玄関へ向かった。
以前より小奇麗になった靴を履き、扉に手をかける。
ガチャリ。
空いた隙間から日差しが差し込む。
いい天気だ。
本当に、眩しい。良い日和だった。
「……」
立ち止まって振り返る。
明かりを消したため、薄暗い廊下が見えた。
かつての静寂。日常の帰還。
歓迎すべき孤独である。己が求めた終幕である。
何も言う必要はない。
だが、口は動いた。
「行ってきます」
バタン。
返答を期待しない、独りよがりの報告。
愚かだと理解してなお行う己は、紛うことなき狂人だった。
……まあ、いいだろう。
どうせ残り少ない人生だ。変な拘りなど、捨てて構わない。
ああ、そうだ。
捨てると言えば、帰ったら身辺整理をしないと。
大変申し訳ないが、辞表も書かねば。
後は色々な手続きを踏んで、貯金をあの人達に渡して。
今まで結んだ契約も解約して……。
おや、意外に忙しいか。
とはいえ、やることが決まっているのは有難くもある。
それを目指して生きればいいだけなのだから。
全てが終わるまで、恐らく数週間程度。
せめて、誰の迷惑にもならないように。
これ以上、彼女の思いを汚さないように。
精一杯、生きれたら、いいな。
そう思って、いたのだが。
「お、おおお前。も、もう来なくて、ぃいいいからっ!」
「……は?」
「く、くクビだっつってんだよ! わ、分かれよ! お願いだからさぁっ」
「――」
出社早々。
汗だくになった課長が、顔面蒼白で駆け付け。
開口一番。
己は解雇の命を受けた。
思考が白に染まり、言葉を解する機能が著しく低下する。
理解ができなかった。
何故、いきなりそのようなことを。己はまた、不始末を起こしてしまったのか。
しかしどうにも、様子がおかしい。
異常な発汗が見て取れる。一体、何をそんなに慌てて。
否、怯えて。
「た、た、頼むよ! もう来ないでくれ! しし知らなかったんだ、お前が。あ、貴方が、あんな!」
「落ち着いてください。一度話を……」
腕を伸ばし、一歩、彼との距離を詰めて。
絶叫。
「あ、ああああああああ!? や、やめろぉ! 来るな、来るな来るなぁ! 化け物がぁ!」
「……っ」
逃げるように後退り、よろけ、尻もちを付く。
両足をバタつかせ叫ぶ。涙すら浮かべて、必死に。
終いには頭を抱え、蹲るようにして懇願する。
来ないでくれ、近づかないでくれ、と。
明らかな異様。
もはや己だけでは解決できぬ。一先ず、誰かに彼の介抱を頼まねば。
助けを求め、周りを見渡し。
ぞわり。
「だれ、か……、ぁ」
見られていた。
座っている者。立っている者。コーヒーを飲んでいる者。仕事をしている者。
オフィスにいる全員が、笑って。
目を細めながら、己を見ていた。
吊り上がった細目。
それはちょうど、狐に似ていて……。
「っ、申し訳ありません。誠に勝手ながら、本日限りで仕事を辞めさせてもらいます」
「ぁあ、あああああ……来る、狐の化け物が来るぅ……やだぁあああぁっ」
「……今までありがとうございました。それでは」
踵を返し、足早に会社から出る。
すれ違った会社員はやはり何も言わず、己に笑いかけていた。
にこにこ、によによ。
吊り上がった目と、色のない微笑み。
「はぁ、はぁっ」
訳も分からず、帰り道を駆ける。
焦燥感が胸を巣食っていた。
何かを決定的に間違えた、そんな気がしてならなかった。
呼吸が苦しい。
走る。走る。走る。
「はぁっ、はぁっ……」
横切る通行者が己を見ていた。
にこにこ、によによ。
誰も彼も機械的に笑っていた。
狐の目で笑っていた。
輝く太陽が己を見ていた。
さんさん、こんこん。
眩しく笑っていた。
可憐な花が己を見ていた。
ふわふわ、しゃんしゃん。
妖しげに笑っていた。
何だ、これは。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
何が、起こっている。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
一心不乱に走り続け。
気付けば見慣れた道へ来ていた。電柱の街灯が寂しげに点在している。
右へ、左へ。
記憶を頼りに足を動かす。
もう少しだ。もう少しで、家に……!
走って。走って。
そして。
「はぁっ、はぁっ……は、ぁ?」
着かない。
おかしい、どうして、なんで。
走っても走っても、家が見つからない。
まさか道を間違えたか。いや、この通りで合っているはず。
見覚えがあるのだ。
己はいつも、ここの道を通って帰宅している。
ならば、どうして。
何か。
何かないか。
他に、帰る手立ては。
「……! そうだ、電柱。電柱には、確か血痕が……」
思い出した。
あの日、あの夜。己が住むマンションを確かめた方法があった。
目線より僅かに上。やや黒ずんだ、汚い赤を目印に。
再び走り出す。
二本、三本。電柱を見ながら、道を曲がって。
愕然。
「は?」
電柱が立っている。
一本道に、夥しい量の電柱が。
否、本数が密集しているのではない。一本道が異常に長いのだ。
先に終わりが見えないほど。遠く、長く、道が続いている。
遅まきに脳が警鐘を鳴らす。
急ぎ引き返した。
だが遅い。既に曲がり角は消えていた。
前方と同じ、終わりなき直線が見える。
等間隔に並ぶ電柱が己を見ている。
思わず、譫言が口から漏れた。
「ぅ、あ……」
ふらふらと、電柱に背をつく。
それは倒れぬための、有効な防衛反応だったが。
次にとった行動が悪かった。
背中を支えるコンクリートの感触。その確かな感触に、縋りついて。
己は見た。
見てしまった。
「……何、故」
血痕。
目線のやや上にある、赤く黒ずんだそれ。
記憶と寸分違わぬ、こびり付いたそれ。
そんな、ありえない。
現実から逃れるように、走り出す。
もはや前か後ろかも分からず。
ただ、走った。
「……はっ、はっ」
あれも、これも、それも。
全て同じだ。
同じ電柱、同じ血痕。
立ち並んで、等しく笑う。
景色は動かない。代わりに変わるのは空。
日が昇るよりも早く走って。
世界が、茜色に染まった。
「はっ、はっ、はっ」
いつしか足は緩やかに。どろどろ走りを止めて。
膝を折る。酷く、呼吸が乱れていた。
疲れからではない。
怖いのだ。
常識外の現象が。
四方からの視線が。
どうしても、家に帰れないことが。
恐ろし――。
「違、う」
違う。
そんなことはどうでもいい。己など、どうなってもいい。
分かっている。
何が、起こったのかは問題ではない。
誰が、起こしたのかが問題なのだ。
「ぁ、あぁ……」
己は知っている。
世界を支配し、這い蹲らせるその所業。
こんな事が出来る御方は、知る限り、彼女しかいなかった。
「そんな、はずが」
すぐさま理性が否定する。
馬鹿な、お前の勘違いだと。
だって、己は昨日、彼女と話して。
お別れを済ましたのだ。
彼女は泣いて、こんな己を、惜しんでくれて。
だから贈り物をした。
嬉しかったから。
苦しかったから。
己はあの夜、別れを口にして。
それで。
それで。
彼女は、さよならを言わなかった。
「……ぁ」
カラン、カラン。
軽やかな音がする。どこか、懐かしい音だった。
己が元宮の姓を受けて、少しの頃。
気遣われ、あの人達に連れられた小さな祭り。
カラン、コロンと。
下駄の音を大きく響かせて。義妹が楽しげに笑っていた。
そうだ。そうだった。
あの日もこんな、夕暮れで。
「……」
目を閉じ、開く。
茜色の道路。
体が鉛のように重い。
唇を噛み締めた。
鈍い痛み。
現実への回帰。
……。
名前を呼んだ。
「天音、さん」
「そうだよ、孝仁」
鈴の鳴るような声色。
柔らかな、想いを乗せて。
「貴方の、天音だよ」
ぎゅっ。
背後から、手を首に回される。
顔の距離が縮まる。
「んふふ」
彼女の吐息が耳にかかる。
触れるほどに近く、桃色を寄せて。
ぱくり。
「つーかまーえたぁ」
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