十二話 邂逅、そしておわり
天音さんと暮らし始めて、三週間が経った。
彼女との生活は存外なほど静かに過ぎていく。
問題もなく。緩やかに。
のどかな日々を送っている。
ガチャリ。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさいなのじゃ! 今日も遅くまで頑張ったのぅ、孝仁」
花が咲いたような笑顔で、天音さんは己を出迎える。
小さな狐の刺繍がされたエプロンを見て、心がほっこりとした。
よく似合っている。
彼女に渡すべきか迷ったが、買って正解だった。
本当に、よかった。
「……ん。美味しそうな匂いですね」
「にゅふふ、そう言ってもらえて何よりじゃ」
嬉しそうに彼女は目を細める。
それを見て、己も綻んだ。
懐かしい匂いがした。
幸せがここにあった。
だが、己は。
「おやすみなさい」
天音さんが来てから、三週間が経った。
彼女との生活は穏やかに過ぎていく。
不満などはない。あるはずがない。
己は幸せな日々を送っている。
ガチャリ。
「ただいま、帰りました」
「おお、孝仁! よう帰ったの。ご飯、もう出来とるぞ」
「ありがとうございます」
「……ん」
天音さんは薄く笑い、掌を差し出す。
僅かな硬直。
逡巡の末、その御手に己の手を重ねた。
細く柔らかい感触。
「にゅへへ、えへへ」
「……」
彼女は頬を緩ませ、己を連れていく。
手を振りほどくべきだ。
どうして握った。
彼女の手を汚してはならない。
理性が叫ぶ。
分かっている。分かってはいるのだ。
しかし。
それでも。
「孝仁の手はおっきいのぅ。それに、あったかい。優しい手じゃなぁ」
「……恐縮です」
悲しませたくない。
こんなにも嬉しそうに輝く光を、曇らせたくない。
否、全ては言い訳だ。
結局お前は、怖いだけだろう。
彼女を否定して嫌われるのが、ただ。
恐ろしいだけだろう。
この、薄汚い卑怯も。
「ご馳走様でした」
天音さんと同居し始めて、三週間が経った。
不自由はなく、安穏を得ている。
彼女との生活はとても幸せだ。
己は喜びに満ちた日々を送っている。
その、はずなのだ。
ガチャリ。
「……ただいま帰りました」
「おかえりっ、孝仁!」
ぎゅっ。
扉を開けた瞬間、天音さんが胸に抱き着いてくる。
ぐりぐりと頭を擦り付けてくる様子に、心から愛らしさを覚えた。
「……ふふ。そんなにしては、御髪が乱れてしまいますよ」
「にゅふー。だって、孝仁が直してくれるじゃろ? ならいいもーん」
「おや。であれば、次からはご自分で……」
「わ、わぁー! う、嘘じゃ嘘じゃ! んなこと思っておらん! ぜーんぜん、なっ?」
「ふふふ、冗談です。……さぁ、部屋に行きましょう」
彼女の手を取って歩く。
普段通りの光景。
普段通りの習慣。
普段通りの、幸福。
ああ、何と素晴らしいことだろう。
ここには己が求めていた全てがある。
願わくば、このままずっと。
天音さんと暮らして行けたなら。
それは叶わな。
「あ、天音さん。そこは自分で洗います。どうか、どうかご勘弁を……」
あまねさんと暮らして、三週かんがたった。
わたしは、しあわせな日々を過ごしている。
おいしい食事。
あたたかいお風呂。
なにより、愛しいかのじょの存在。
「ただいまかえりました」
「おかえりなさいなのじゃ、孝仁」
はなが咲いている。
とても綺麗な、月よりもきらめく華が。
私を優しくつつんでいる。
今日のご飯はなんだろう。
たのしみだ。
な。
「あまねさん、その。少し、近い気が」
あまねさんからさんしゅうかん。
わたしはしあわせな。
もうこれいじょうはいらない。
ずっとこのままで。
に。
「ただいまかえりました」
「いただきます」
「いい湯ですね」
「あまねさん、口にソースが」
か。
「温かいです。本当に、温かい」
「ただいま、帰りました」
「おやすみなさい」
が。
「そんなにくっ付かれると、歩きにくいのですが」
「あまねさん」
「美味しいです。これは、合わせ味噌ですか?」
「……ただいま帰りました」
お。
「私の母は」
「喜んでもらえて、嬉しく思います」
「いけません、そのような……!」
か。
「おやすみなさいませ」
「どうして私は」
「これですか? 天音さんの、お土産にと思って……」
「明日は晴れるといいですね」
し。
「何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ」
「天音さん……!」
「私は、私は……!」
「生きてはならな」
い。
薄暗く光るディスプレイを眺めている。
書類に記入すべき情報を見つけた。即座にペンを走らせる。
書き終えた。
マウスのホイールを動かし、画面を進める。
そして繰り返す。
何度も。何度も。
「……」
己の仕事は単純明快である。
故に特別な技能はいらず、また誰かがやるべき仕事でもない。
そう、誰だっていいのだ。
だから己がやっている。
ただ、それだけのことだった。
不満はない。
いや寧ろ、有難いとすら思っている。
低能な人間が身の丈に合わぬ仕事をしても失敗するだけだ。
大きな問題を起こす前に止めてくれた。
皆さんには感謝の念が堪えない。
そんな、皆さんなのだが。
「ちょっと、小林さんも休み……? これで何人目よ」
「確かに、最近多いよねぇ。橋本君と後藤さんも風邪だって言ってたし。流行ってるのかなぁ?」
「……」
パソコンの画面から目を離し、ちらりとオフィスを見渡す。
少ない。
明らかに人数が減っている。
どうやら、風邪が流行っているのは本当らしい。
気を付けねば。天音さんにでも移したら大変である。
無論、天狐たる彼女が簡単に風邪を引くとは思えない。
それでも、もしもという事があった。
その場合己はどうすべきか。
病院に連れて解決、とはいかないだろう。
何せ彼女は人外であり、人間の薬が効くとも……。
「……?」
なん、だ?
既視感がある。
酷く懐かしいような、恥ずかしいような。
一度これを考えた覚えがある。
いつだったか。
会って間もない頃、に思えるが。
となれば、三週間前か。いや、感覚的にはもっと前な気がする。
だがそれはおかしい。
己は彼女と出会って、三週間しか経っていない。
本当に、そうか?
「おっす、元宮! おはよーさんっ」
不意に声がかかり、思考が途切れる。
明るい男性の声であった。
己は、この声の主を知っていた。
ついさっきにも聞いた名である。
「……っ? おはよう、ございます。後藤さん」
やや戸惑いつつ返事をしてしまった。
失態だ。相手は、朗らかに挨拶をしてくれたというのに。
申し訳ない。
ただ、それが戸惑いの原因でもあった。
後藤さんが己に挨拶をするなど、この三年間で初めてのことだ。
何かあったのだろうか。また己がやらかしたのだろうか。
風邪を引いていたそうな。もう大丈夫なのか。会社に来ているなら、治っているはず。
よかった。
しかし、何故。
頭の中が疑問で埋まる。
未だ硬直している己に、彼は笑いかけた。
これもまた、初めての光景である。
「なんだこれ、全部仕事か? ったく、俺にも分けろよなー」
「は、い?」
「あんま無理すんなよ。今まで悪かったな。んじゃ、これもらっとくから」
「ぁ、後藤、さん……」
手を伸ばすも、既に彼は歩き去ってしまった。
己の仕事を持って、すたすたと。
益々訳が分からない。
彼はどうしていきなり、こんなことを。
周囲の人間もそう思ったのか、数人が彼に話しかけていた。
「おはよう、後藤君。久しぶりね。風邪はもう治ったの?」
「おっす。おはようさん。めっちゃ休んだからなー、もうばっちりよ!」
「な、なんか雰囲気変わりましたね、後藤さん。……さっきのあれ、どうしたんですか?」
「あー? おお、これか。まあ、ちょっとな。欲しい腕時計があってよ」
「わぁ、出世狙い? 真面目~」
「後藤先輩まじで腕時計好きなんですね。そう言や、橋本も買ったらしいっすけど」
「ああ、橋本な。実はあれ、俺が選んだやつなんだよ」
「え、そうなんですか!?」
わいわいと、彼らの話は広がっていく。
いつもの光景である。
また盗み聞きとは我ながら最低だが、理由も分かった。
ちゃんとした目的があるのなら、先の行動について理解できる。
彼が何故、己に謝ったのかは未だに分からぬが。
考えても栓無きことだ。
自分の仕事に戻るとしよう。
彼らから目を離し、視線をパソコンに向けた。
「……まあでも、後藤君が復帰してよかったわ。最近はみんな風邪で休んじゃって困ってるのよ」
「ははは。それなら大丈夫だ」
「へ?」
「もうすぐ、全員直るからな」
帰路に就く。
日はとうに暮れて。されどまだ深くはなく。
足取りもしっかりとして、歩いている。
街灯に頼る必要はない。頭は明瞭だ。
変わらずにあるのは手に持つ鞄。
そして、買い物袋。
「……」
違和感がある。
ここ最近、ずっとそれを感じている。
言葉には出来ない。
何がどう、具体的におかしいのかも分からない。
ただこうして帰り道を歩くことに、引っ掛かりを覚えている。
手の甲で額を擦った。返る痛みはない。
空を見上げた。深夜と呼ぶには少し早い。
鞄を見た。家に持ち帰る書類の量が減り、とても軽い。
膝を見た。いつもなら汚れている。
肘を見た。これもやはり、いつもなら汚れていた。
土下座をしなくなっている。
仕事の量が減っている。
体調が良くなっている。
別にいいじゃないか。
「……っ」
これだ。
己は先程、確かに何かを考えていた。
だのに、それがどういう内容なのかを思い出せないでいる。
この感覚は今までにもあった。
喪失感と焦燥感だけが取り残される、恐ろしい感覚。
だが、何よりも恐ろしいのは。
それが全く、嫌だと思えないことだ。
不快感もなく、拒絶感もない。寧ろ、安心すら覚えている。
忘れたところで何の問題があると、心の誰かが言うのだ。
違う。問題はあるのだ。あるはずなのだ。
『でも、心地よいだろう?』
ああ、そうだ。
彼女との生活は心地よい。幸せだと、声を大にして言える。
しかしそれでは、彼女はどうなる。
このままずっと彼女に世話をさせるのか。ふざけるな。ふざけるな。
己なんぞが、天音さんを縛っては……。
『何を言ってるんだ。彼女とは、あと一週間ちょっとでお別れじゃないか』
「ぁ……」
がさり。
買い物袋が揺れた。
己の足に当たったらしい。
いけない。これは、大切なものなのに。
『なぁ、孝仁。お前は決めたはずだ。この契約を守ると。それまでは、彼女と共にいると』
帰り道で見つけた、洒落た御店。
場違いを感じつつも我慢して、一つを買った。
天音さんに似合うと思って。
身勝手な感情のままに購入した、けれど大事な贈り物だ。
『お前はなーんにも間違っていない。このまま彼女と過ごせばいい。契約が切れるまで、ずっとな』
「このまま……ずっと……」
天音さんは、喜んでくれるだろうか。
喜んでくれたら嬉しいな。
貴女の幸せが、私の。
「残念だけど、そうはいかないのよねぇ」
「は……?」
声が、した。
艶やかな女性の声だ。
万物を魅了し跪かせる、魔性の声色。
一体、誰が。
『ちっ……邪魔が入ったか』
じゃま?
なんのことだ。
いや、それよりも確認すべきことは。
「貴女は……いえ、貴女、達は」
「うふふ」
振り返る。
声のした方へ。
そこには一人ではなく、四人の人影があった。
否。
人では、ないか。
「初めまして、元宮孝仁さん。いきなりだけど……私達とお話、してくださらない?」
「ごめんけど、拒否権はないと思ってね~」
「はぁ、疲れた。早く終わらせて」
「こいつが、天狐様を……!」
きらり。
茶色、黒色、白色、金色。
月明かりに照らされ、色取り取りに煌めく、人外の尾。
それには見覚えがあった。
だけでなく、その美貌。その麗しさにも。
「……ああ」
思い出した。
彼女が来た理由は、そうだったな。
あれ。
ああ、じゃあ、そうか。
これで、もう。
『でも儂、お前さんを次の集会で紹介せんといかぬし』
『紹介するなら、お前さんがいい。儂がそうしたい。それでは、いかぬか?』
『孝仁』
『孝、仁……』
契約、終わったのか。
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